本郷菊坂を進むと左手に肉屋さんが現れます。ここで「菊坂コロッケ」を購入。立ち喰いできるように(?)一つ一つ袋に入れてくれて、店の前でほおばりました。時間は午後3時過ぎ。昼でもなく夕刻でもなく、という中途半端な時間帯であったにも関わらず、温ったか~い。それをほおばると、サクッとした食感。次いで、ほどよい大きさにカットされたじゃがいもに美味しさを予感させられたのち、じゃがいもを漉し、味付けられた食材がとろ~りと口の中に広がります。みなこのコロッケで満足! 美味しいコロッケをつくってくれるお父さんとお母さんに感謝!
この肉店をあとにもうチョット菊坂を進むと途中から上道と下道に分かれます。この上道と下道に挟まれたエリア(家一軒分の幅)、江戸時代の切り絵図を見ると、「明地」および「アラツ」、つまり未使用の荒れ地であったことが判ります。(菊坂の名称は、このエリアで菊を栽培していたから、という説もあるそうです。小生は、その当時生まれていなかったので、真偽のほどは判りませんが)
下道はかつて、下水が流れていたところ。このあたりが、本郷台地と真砂台地がぶつかり合った谷間で、左手の真砂台地の上は坪内逍遙が住んでいたことで知られていますが、明治時代の地図を見ると、華族さまがあちこちに住んでいたこととが判ります。その旧真砂町(現・本郷4丁目)の上へは炭団坂から。
急な階段の炭団坂を登り切ると、崖下の街並みが一望。暗く、湿気た空気があたり一面を覆っています。この下町の風景を逍遙たちは見下ろしていたのでしょう。
崖下の街並みは、水路を伴った下道を表道路にし、表側に住居。その住居と住居の間に路地を通し、両側に長屋を列ねる。奥には共同井戸を配置――これが町屋敷のパターンで、その町屋敷が現在も並んでいます。
この崖下には、一時期、樋口一葉が住んでいました。もともと一葉は、本郷台地の山の上の生まれ。本人も現在のお茶の水大学付属小学校に通ったこともあり、兄は現在の明治大学を卒業し、財務省に勤めたという家柄。まあ、決して、不憫な生活をしていたとは思えませんが、家督を継いだ兄が病死し、そこから生活が苦しくなったようで、ここ本郷台地の下、菊坂の長屋に暮らしました。ただし、数年後には、下谷での生活を経て、お屋敷町の西片(菊坂から数分のところ)に移り、そこで短い生涯を終えています。
「横丁・小径学会」は、この一葉が住んだ町屋敷を探訪。現在、皆さん実際に住んでいる方がいらっしゃるので、静かに、静かに訪問させていただきましたが、そこに新たに二人づれが訪れたため、奥の鎧坂へ待避。そこで、一葉の長屋について解説していると、さっきまでの二人ずれが一緒に参加して、話をうなずきながら聞き出しました。これはよくあるパターンで、大学のフィールドワークの公開講座などでも見知らぬ人が途中から話に参加する方が現れることはよくあること。今回も、ひょっとしてと思いを巡らせていると、消え、再び一人だけが現れ……。