今日からシリーズで富士講をご紹介します。
江戸のまちづくりは京を手本にしました。その京都は遠く中国(唐の時代)の長安をモデルにしています。その長安のまちづくりの基本は四神相応。つまり、北には玄武の神が宿る〈山〉、東には青龍の神が宿る〈川〉、南には朱雀の神が宿る〈海〉、西には白虎の神が宿る〈道〉が配されている地勢を佳しとするもので、陰陽(おんみょう)学によるものです。
この視点から京を見ると、北に「船岡山」(温泉がでます!)、東に「鴨川」、南に巨椋山(現在では埋めたれられています)、西に「山陽道」――という地勢。では、江戸はというと、北には麹町台地の先に「富士山」(厳しい?)、東に「隅田川」、南に「江戸湊(東京湾)」、西に「甲州街道」――となります。
富士山は権現様が生まれたご近所。信仰の対象ともなりましたが、いかんせん遠い。江ノ島遊山を兼ねて大山詣というのとは大違い。ということで、ご近所でお参りできる富士塚が流行ったのが江戸の頃でした。この富士塚、たいがいが富士山の溶岩を運んできて山をつくったりしていました。ところが、明治以降、衰退をたどり、現在残るのは数ヵ所。しかも、昨年の東日本大地震で損傷を受け、修理・修復が澄むまで登山禁止というところも多くなっています。
今回、ご紹介するのは、江戸のものではなく、明治に入ってから築造されたもの。明治期にこれほどのものがと驚嘆するほど立派。とにかく、巨大です。神社自体が、何階分かの高さの上に建っているところに、この富士塚はさらに溶岩を積み上げているので、巨大な高さ。京浜急行線を越えて遙か彼方まで見通せる、富士塚です。









