映画『マチネの終わりに』(2019 西谷弘監督)は、早くにAmazon Prime Videoで公開されていたので、観ることができた。
天才的ギタリスト蒔野聡史(福山雅治)と、世界を舞台に活躍するジャーナリスト小峰洋子(石田ゆり子)の劇的な恋とそのすれ違っていく運命を描く。
東京、パリ、マドリード、ニューヨーク、あるいはバグダッドと、国際的な舞台や同時代の情勢を背景に展開するドラマチックな大人の恋愛。
それを福山雅治と石田ゆり子が演じるのだから、熟年のカップルなどでちょっと観に行きたくなる映画ではないか。
もちろん私自身も、福山・石田は好きな俳優である。
実際に映画を観ると、美貌と才能に恵まれた二人が出会い、急速に惹かれあっていく。
恋の成就を夢見る二人を引き裂いたのは、ひとつの小さな嘘といくつかの皮肉な偶然。
メールのことばはアンジャッシュのコントみたいにすれ違い、二人の人生のレールは大きく離れていく。
運命を恨みたくなる皮肉な展開は、確かにやきもきし、感情をくすぐられるが、それがかえって少女マンガかメロドラマのようで、少し安っぽい感じもした。
名優二人には役不足ではないか、というのが、正直、映画を観た感想だった。
だから原作を読もうとは思わなかったのだが、芥川賞作家の平野啓一郎がこんな物語を書くんだ……と、少し不思議に思った。
古風で難解な文体の作家、ということは聞いていたが、その作品を読んだことはなかった。
しかし、カットイメージ・セミナーの常連M氏から、「観てから読むか読んでから観るか」のシリーズで、ぜひ『マチネの終わりに』を、とリクエストがあった。
そこで、原作の平野啓一郎『マチネの終わりに』(文春文庫)を手に入れ、読み始めた。
冒頭から夏目漱石の『こころ』を思わせる古風な語り口。
初めはそれに戸惑いを覚えたが、読み進むと、どんどんイメージの世界に入っていく。
映画ではメロドラマに思えたが、小説を読んでみると、丁寧に描かれた心理描写が非常に味わい深い。
語り手の巧みなことばに耳を傾けているうちに物語の世界に没入していく感覚である。
もちろん人物が動き、会話し、事件が起きていく各場面は描写的に書かれているので、映画の記憶の助けも借りながら、イメージは鮮やかに浮かんでくる。
その流れの中で、ふと人物の視点に入って、心情を語る文章がある。それが、確かに古風な文体で書かれている。
たとえば、最初の出会いで惹かれあった二人が、イラクのバグダッドと東京と遠く離れてメールのやりとりをくり返したのち、パリのカフェでデートしたときの一節。
- ただ言葉だけでわかりあってきた二人は、今やからだを備え、見ることが出来、触れることが出来る二人だった。どちらも遥かに先走って、ほとんど相手と融け合う寸前にまで高揚していた自分の言葉に追いつこうとして、しかし、その深刻さにも、様々な愛情の仄めかしにも、いきなり触れることは出来なかった。(中略)そして、結局は、あの初対面の夜の続きからやり直すより他はなかった。(P111)
これだけを抜き出すと、観念的な心理描写に見えるが、この前後には、二人の楽しい会話のやりとりが描かれている。
その情景をイメージしていく流れの中で、こうした語りはごく自然に読め、人物の気持ちがすうっと心に落ちてくる。
実はこれこそ、映像では味わえない小説の醍醐味なのである。
巧みな語りによって人物の内面に寄り添い、共感する体験。
それを堪能するうち、 不思議なことに、記憶の中の映画の場面場面が鮮やかな色あいに染め直されていく気がした。
読み終えてみると、映画の記憶そのものが、すっかり違った印象になってしまった。
二人の演技も素晴らしいし、原作の味わいを映像化することに見事に成功している。
この映画について、今ではそう評価している。
二人の出会いのときに蒔野が言った「過去は変えられる」ということばは、この物語全体に流れるテーマとして、何度もくり返される。
そのことば通りに、この映画に対する私の過去の評価も(記憶さえも)、小説を読んだことで見事に変わってしまった。
私のセミナーのある受講生が、「カットイメージのおかげで、明治時代などの難しめの小説も楽しく読めるようになりました」と言っていたが、なるほどその通りだと思う。

