映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術 -8ページ目

映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術

小説の世界に没入して
“映画を観ているみたいに” リアルなイメージが浮かび
感動が胸に迫り、鮮やかな記憶が残る。
オリジナルの手法「カットイメージ」を紹介します。
小説を読むのが大好きな人、苦手だけど読んでみたい人
どちらにもオススメです。

 映画『マチネの終わりに』(2019 西谷弘監督)は、早くにAmazon Prime Videoで公開されていたので、観ることができた。
 天才的ギタリスト蒔野聡史(福山雅治)と、世界を舞台に活躍するジャーナリスト小峰洋子(石田ゆり子)の劇的な恋とそのすれ違っていく運命を描く。

 

 

 東京、パリ、マドリード、ニューヨーク、あるいはバグダッドと、国際的な舞台や同時代の情勢を背景に展開するドラマチックな大人の恋愛。
 それを福山雅治と石田ゆり子が演じるのだから、熟年のカップルなどでちょっと観に行きたくなる映画ではないか。

 もちろん私自身も、福山・石田は好きな俳優である。

 実際に映画を観ると、美貌と才能に恵まれた二人が出会い、急速に惹かれあっていく。
 恋の成就を夢見る二人を引き裂いたのは、ひとつの小さな嘘といくつかの皮肉な偶然。

 メールのことばはアンジャッシュのコントみたいにすれ違い、二人の人生のレールは大きく離れていく。


 運命を恨みたくなる皮肉な展開は、確かにやきもきし、感情をくすぐられるが、それがかえって少女マンガかメロドラマのようで、少し安っぽい感じもした。
 名優二人には役不足ではないか、というのが、正直、映画を観た感想だった。

 だから原作を読もうとは思わなかったのだが、芥川賞作家の平野啓一郎がこんな物語を書くんだ……と、少し不思議に思った。

 古風で難解な文体の作家、ということは聞いていたが、その作品を読んだことはなかった。
  
 しかし、カットイメージ・セミナーの常連M氏から、「観てから読むか読んでから観るか」のシリーズで、ぜひ『マチネの終わりに』を、とリクエストがあった。
 そこで、原作の平野啓一郎『マチネの終わりに』(文春文庫)を手に入れ、読み始めた。


 冒頭から夏目漱石の『こころ』を思わせる古風な語り口。
 初めはそれに戸惑いを覚えたが、読み進むと、どんどんイメージの世界に入っていく。
 
 映画ではメロドラマに思えたが、小説を読んでみると、丁寧に描かれた心理描写が非常に味わい深い。

 語り手の巧みなことばに耳を傾けているうちに物語の世界に没入していく感覚である。
 

 もちろん人物が動き、会話し、事件が起きていく各場面は描写的に書かれているので、映画の記憶の助けも借りながら、イメージは鮮やかに浮かんでくる。
 その流れの中で、ふと人物の視点に入って、心情を語る文章がある。それが、確かに古風な文体で書かれている。

 

  たとえば、最初の出会いで惹かれあった二人が、イラクのバグダッドと東京と遠く離れてメールのやりとりをくり返したのち、パリのカフェでデートしたときの一節。

  • ただ言葉だけでわかりあってきた二人は、今やからだを備え、見ることが出来、触れることが出来る二人だった。どちらも遥かに先走って、ほとんど相手と融け合う寸前にまで高揚していた自分の言葉に追いつこうとして、しかし、その深刻さにも、様々な愛情の仄めかしにも、いきなり触れることは出来なかった。(中略)そして、結局は、あの初対面の夜の続きからやり直すより他はなかった。(P111)

 これだけを抜き出すと、観念的な心理描写に見えるが、この前後には、二人の楽しい会話のやりとりが描かれている。

 その情景をイメージしていく流れの中で、こうした語りはごく自然に読め、人物の気持ちがすうっと心に落ちてくる。

 実はこれこそ、映像では味わえない小説の醍醐味なのである。

 
 巧みな語りによって人物の内面に寄り添い、共感する体験。

 それを堪能するうち、 不思議なことに、記憶の中の映画の場面場面が鮮やかな色あいに染め直されていく気がした。

 読み終えてみると、映画の記憶そのものが、すっかり違った印象になってしまった。
 二人の演技も素晴らしいし、原作の味わいを映像化することに見事に成功している。
 この映画について、今ではそう評価している。

 二人の出会いのときに蒔野が言った「過去は変えられる」ということばは、この物語全体に流れるテーマとして、何度もくり返される。
 そのことば通りに、この映画に対する私の過去の評価も(記憶さえも)、小説を読んだことで見事に変わってしまった。

 

 私のセミナーのある受講生が、「カットイメージのおかげで、明治時代などの難しめの小説も楽しく読めるようになりました」と言っていたが、なるほどその通りだと思う。

 

 

 私の瞑想の世界、その4回目。

 

  前回までで紹介した、私の瞑想導入法は次の2ステップ。

  ①自律訓練法の標準練習の状態に一息で

  ②オリジナルの「イメージ指圧」

 

  これで導入は完成なので、ストップウォッチのラップタイム(中間計時)を押す。

  ここからは、イメージの世界に入っていく。

  ……が、導入はまだ続いている。

 

  まず、森の中を歩いて、やがて開けたところに、私の瞑想の“建物”がある。

  他人伝えに「教育エジソンさんの瞑想の館」などと言われるが、「館」というと、西洋のお城とか魔女のすみかのような、神秘的なものを想像されてしまうので、私自身はそのことばは使っていない。

 

 私のイメージの中では、コンクリートの白っぽい建物で、玄関はガラスでできた自動ドアである。

 昔、一人で訪れたある地方の美術館が原型になっている。

 

 建物の前は広い庭になっていて、花壇にきれいな花が植わっている(ここは、旧北海道庁の庭に似ている)。

 玄関に近づくと、向かって右手の植え込みに石碑が立っていて、そこに5つの暗示ことばが刻まれている。

 それを唱えなければ、扉は開かないのだ。

 

  1,日に日にあらゆる面で、私はますますよくなっていく

  2,日に日にあらゆる面で、私はますます自由で明るくなっていく。

  3,日に日にあらゆる面で、私はますます自然で温かくなっていく。

  4,日に日にあらゆる面で、私はますます聡明で行動的なっていく。

  5,日に日にあらゆる面で、私はますます柔軟で創造的になっていく。

 

  1番目は、フランスの薬剤師エミール・クーエが考案した、有名な暗示ことばである。

  「あらゆる面で」なので、自分の心も体も頭も、すべてである。場合によっては、人間関係も、運命も……。

  私たちの“潜在意識”は、ことばをことば通りにしかとらえられないという。

  その潜在意識に働きかける、核心的なメッセージである。

  これを毎日唱えることで、心も体も頭も健康になり、未来を信じ、ぶれない自分ができていく。  

 

  2番目以降は、クーエの暗示のバリエーションで、「こうありたい」自分のエッセンスをことばにした。

 

  2と3は、「1,よくなっていく」の意味を、人間関係の中で具体化した私なりのイメージである。

    2,自由で、明るく=自己肯定

    3、自然で、温かく=他者肯定

  と、自他を肯定して生きる理想の姿を示す。

 

  瞑想を始めた当初はここまでだったが、その後、2つを新たに追加した。

 

  4と5は、社会の中でしたいことを実現し、成長を続けていく、私なりの人生イメージである。

    4,聡明で、行動的 = 物事の本質を洞察し、ためらわず行動していく

    5,柔軟で、創造的 = 心を開いて広い視野から考え、より根本的な解決アイデアを発想する

 

 これらを毎日唱えることで、私は自分を信じて、なおかつ謙虚に生きて、成果をあげ、成長を続けることができる。……と信じている。

 もう何十年も唱えているので、これらのことばを疑うことはなく、実際に起きた事実によって、立証もされてきた。

 だから、深い確信になっている。

 

 瞑想の流れに話を戻すと、石碑に刻まれた文字をイメージの中で読みながら、息をゆっくりと吐いて一息の間、ひとつの暗示ことばをくり返す。

 5つ唱え終わると、固く閉ざされていた入口の自動ドアが開き、私は中に入っていく。

  

 建物の中に入ってからの内容をご紹介する前に、5つの基本暗示について、もうひとつ書いておきたいことがある。

 瞑想の際に決まった指の形をすることを、「印を結ぶ」というが、5つの暗示に対応させた指の形があるので、それを次回に。

 

  今後のブログで順次紹介していきますが、早く知りたい方は、私のホームページで、瞑想レポート「私流イメージ瞑想法の実践」をご覧ください。

  

 瞑想習慣から生まれた “映画を観ているみたいに小説が読める” 「イメージ読書術」については、下の画像から。

 

 

 

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 前回、観ながら読んで、感動とともに読了した、百田尚樹『フォルトゥナの瞳』(新潮文庫)。

 

 

 そのあとで、映画の残り30分余りを楽しみに観た。
 2019年公開 監督;三木孝浩 主演;神木隆之介 有村架純

 


 映画のクライマックスと結末は、原作の趣旨を生かしつつ、よりドラマチックな展開になっていた。
 
 クライマックス場面が終わり、映画の結末、主人公木山(神木隆之介)と葵(有村架純)、それぞれの声で真実が語られる。
 それまでの伏線がつながるとともに、感動的なエンディングである。
 こういう場面では、有村架純は語る声もいい。
 泣き笑いの笑顔とともに、切ない物語をさわやかにしめくくる。

 小説を読み終えて、私の胸に迫ってきた感動とは異なるが、これは映画としてよくできていると思う。
 映画だけでも、観る価値はある。


 でもやはり、これをきっかけに小説も読んでほしい。

 

 

 

 百田尚樹『フォルトゥナの瞳』(新潮文庫)
 映画は、2019年公開 監督;三木孝浩 主演;神木隆之介 有村架純

 

 

 死にゆく人の運命が見えてしまうという能力を持った青年の物語。
 
 未来は知ることができず、人生にやり直しはない。
 一秒先も見えず、一回限りだからこそ、私たちが今を生きる意味はある。
 そう考える私は、未来が見えたり、人が生き返ったりする話が、正直、好きではない。
 そのことは、以前、辻村深月『つなぐ』のブログにも書いた。
 
 しかし、百田尚樹は『海賊とよばれた男』が素晴らしかったので、きっと期待を裏切らないだろうと、今回はこの作品を選んだ。
 まず映画を30分ほど見て中断し、それから原作小説を読み始めた。
 小説を読むと、映画のシナリオは、初めの方から適度に話の展開を端折ってテンポよくまとめているのがわかる。
 その分、小説には読みごたえがあった。
 それは、主人公木山慎一郎の心情が丁寧に語られているせいである。

 


 幼くして事故で両親と妹を失い、孤独に生きてきた木山は、高級車のコーティングを請け負う小さな工場で地道に働き、社長にも認められる。
 しかし、あるときから、死ぬ人の運命が “見える” ことに気づき、彼の苦悩が始まる。
 それと同時に、ひとつの出会いから、彼の恋も始まる。

 映画を先に見ていてよかったのは、ボディコーティングの作業場や仕事の様子がイメージしやすいことである。
 一途に仕事に向き合う彼の姿が浮かんでくる。
 そして、孤独に、だが誠実に生きてきた彼の苦悩や恋の喜びもリアルに感じられる。


 読んでいくうち、最初は違和感のあった“死が見える”という設定が、あまり気にならなくなってきた。
 それは、主人公の心情がとても丁寧に描写され、その行動にも納得がいくからである。
 “死が見える”という、たった一つの「絵空事」さえ受け入れてしまえば、この物語は深く共感できる世界になるのだと感じた。

 木山の葛藤の深まりとともに、どんどん物語の世界に没入していく。
 残り50ページ足らずとなって、このまま一気に読み終えたいと思ったが、「もったいない」と、自分にブレーキをかけた。
 何せ、読書は通勤電車の中である。読み終わるかどうか、ちょうどギリギリだ。
 この感動をもっと大切に味わいたい。
 あえて本を閉じ、鞄にしまった。

 それから2,3日置いて、映画の続きを見た。
 この映画のシナリオは、原作小説のストーリー全体を適度に整理して、映画らしい展開にまとめている。

 苦悩する誠実な青年木山に神木隆之介は適役で、小説を読んだ後でも違和感がない。
 そして、彼に希望をもたらす女性桐生葵も、有村架純がぴったりだ。

 清純、清楚で、限りなく素直で明るい。

 彼女の優しさが、孤独に強く生きてきた反面、頑なでもある木山の心を自然と解かしていく。
 彼女が働く携帯電話ショップは、もちろん、“au”である。

 小説のストーリーがどう脚色されているのか、興味を覚えながら、映画として楽しむことができた。
 そして、小説で読んだところまで観て、再び中断……。

 本当は映画に没入していて、つい観すぎてしまった。

 小説で読んだところより、少し先がわかった気がした。


 翌日、本を開いて、小説の残りを一気に読んだ。
 いつもの通勤電車ではなく、休日の朝、一人静かに机に向かって。

 読み終えてみると、

 ……よかった。
 結末がどうかよりも、やはりそこに至る主人公の思いが丁寧に描かれていることこそを評価したい。
 先へ先へとストーリーを追うのではなく、イメージを味わいながら丁寧に心情を味わっていくのが、この作品にふさわしい読み方である。

 だからこそ、最後の最後の結末に、救いを感じることができる。
 この “救い”の感じは、読み終えた瞬間ではなく、後になって、こうして物語をふり返る間にじわじわと効いてきた。
 今ごろホントに、胸が詰まって涙が出そうになってきた――。

 “救い”があるから、泣けるのだ。

 この作品は、映画をある程度観てイメージの材料をストックしてから、小説をじっくりと読むのをおススメしたい。

 

 

 重松清の小説『ステップ』(2012年中公文庫)は、2020年 監督・脚本飯塚健、主演山田孝之で映画化された。

 

 この映画を最初の30分だけ観て、小説を読み始め、最後まで読んだ。

 映画の残りは、数日後に観た。

 

 1歳半の幼い娘を遺して愛妻が逝き、残された夫が男手一つで娘を育てていこうとする。

 その歩みを描く。

 悩みながら、周りの人々に支えられて誠実に生きる主人公を、山田孝之が好演している。

 

 映画のイメージも借りつつ小説を読み、また映画に戻って観るなかで、小説では見せにくい、映画(映像)のよさを感じる点があった。

 

 小説で書くとくどくなるが、映画だと毎回同じ風景が出てくれば、すぐにわかる。

 それが、父子が毎朝通る道。

 電車の線路が地面より低い位置を走り、その上に架かる細い跨線橋を、父と娘は毎朝通る。

 保育園へ向かうには、正面の坂を登る。

 小学校になったら、坂を上がらず左へ曲がって集団登校の集合場所へ。父はそれを見送って、反対の道を駅へ向かう。

 

 毎日同じ場所を通るのは当然なのだが、小説ではあまり描かれない。

 それを、映画だと同じロケーションをくり返すことで、時間の経過を瞬時に見せる。

 そして、定点観測で登場人物の変化・成長を際立たせる。

 

 もう一つの定点観測スポットは、父娘が暮らすマンションの部屋である。

 妻がカレンダーに予定を書きかけて倒れ、赤ペンの軌跡が残る壁。

 そこに娘の成長が刻まれていく。

 かと思うと、ある時期、家具の配置が少し変わって、月日の経過を印象づける。

 

 また映画では、成長していく娘を3人の子役が順番に演じているが、その連続性に違和感はない。

 それよりも、小説で読んでイメージしていた娘が、生身の姿で動き、話し、笑っているのが、私にはとても新鮮に感じた。

 それはなぜか。考えてみる。

 

 この小説は一人称語りで書かれている。

 つまり、父親の時々の思いを重ねて娘の姿が描かれるので、父に感情移入はしても、娘の映像イメージはあまり鮮明に浮かんでいなかったのかと思う。

 小説を読んで思い浮かべる娘は、父の目を通した主観的な存在なのだ。

 だから映画を観ると、一人の人間としてそこにいて、イキイキと動き、元気な声でしゃべる子どもの姿が、それだけでとても感動的なのだと思う。

 成長し、憎まれ口を叩く姿さえ、とても愛しい。

 

 ひとり親の子育ては、いろいろな人に支えられてこそ成り立つ。

 亡き妻の両親や義兄夫婦を中心に、さまざまな人々が彼らを温かく包む。

 その理解と励ましに支えられて、親は子どもと共に成長していく。

 

 かつてひとり親だった私には、共感できる点が多かった。

 観る人の年代や経験によって共感ポイントは違うだろうが、家族のよさをしみじみ感じたい人には、おススメの映画である。

  映画は、2020年 監督・脚本:飯塚健、主演:山田孝之。

 

 

 小説を読む前に、映画を観始める。

 

 1歳半の娘を遺して妻が突然、逝ってしまった。

 呆然とする日々を経て、2歳半になった娘を保育園に預けて会社勤めを再開する若き父親を、山田孝之が演じている。

 

 初めて保育園に行く日から、物語は始まる。

 少しオッチョコチョイで、親しみやすい保母さん“ケロ先生”に、朝ドラ『ひよっこ』の“米屋の娘” 伊藤沙莉は、はまり役である。

 一人で娘を育てていくと決心した主人公だが、仕事との両立に悩み、いったん慣れたはずの保育園に行きたがらない娘の変化に戸惑う。

 そんな娘に、ケロ先生はせめて園にいる間だけでもと母親代わりの愛情を注いでくれるのだが――。

 

 そこまで30分ほど観て、映画は中断し、原作小説を読み始めた。

 重松清『ステップ』 中公文庫 2012年

 

 

 ケロ先生との保育園生活がしばらく続くのかと思ったら、2章目で、娘の美紀はもう5歳近くに成長している。

 そして、新たな人物が登場し、また新たなエピソードが始まる。

 どうやら各章は一話完結のエピソードで、しかも、年月を挟んで、親子の成長を追っていく構成だとわかる。

 

 読み進んでいくと、描かれたストーリーだけでなく、章と章の間に存在する、語られない年月の意味に気づく。

 ひとつひとつの話に結末はあるが、「この親子は、これからどうするのだろうか。きっとこうするだろう」と、想像を掻き立てて終わる。

 そして次の章を開くと、もう何年か経っていて前の話は既に過去である。

 しかし、まもなく人物が生き生きと動き出すと、前の話との間の時間差は埋められ、書かれていない年月、親子が生き、成長してきたことが確かな過去として腑に落ちていく。

 

 各話の間にはステップ(段差)があるが、私たちの想像力が、自然とそれを埋めていく。

 そこが、この作品の構成の妙である。

 

 主人公の「僕」は、戸惑いながら、迷いながらも、さまざまな人たちとの関わりに支えられて、娘と暮らしていく。

 これから娘はどう成長していくだろうか、そして、「僕」は再婚するのだろうか、……ワクワクしながら読むことができる。

 と同時に、ほのぼのする場面が多く、読んでほっこりした気分になりたい人にはおススメである。

 

 読者の年齢や人生経験に応じて、共感する場面が異なるはずだ。

 年代や立場の違う同士で読書会をするのも、楽しいに違いない。

 

 映画の最初を観ただけで、そのまま小説は最後まで読み終えた。

 

 これから映画の残りを観るので、その報告はまた次回。

 

 

 2020年 河瀨直美監督作品 

 主演:永作博美· 井浦新· 蒔田彩珠 

 原作:辻村深月

 

 前回書いたように、映画と小説をクロスして読み進める計画が、映画を少し観てから小説を読んでいったら、最後まで引き込まれて読み終えてしまった。

 ひじょうに気に入った小説だったので、映画の続きを楽しみに見始めた。

 

 永作博美と井浦新が夫婦を演じる前半は、かなり原作に忠実に作られている。

 それは、最初の30分映画を観てから小説を読んで、実感していた。

 

 続きを観ていくと、印象深いのは、風景映像の美しさである。

 人間たちのドラマの狭間に、季節とともに移り変わる自然の一コマが挿入される。

 木々、鳥たち、山や海、朝陽や夕陽、そして風の音。

 それらが人々の営みを優しく見守り、包み込む。 

  

 そして、劇映画なのに、ドキュメンタリーのような撮影アングルと光加減。

 特別養子縁組の斡旋団体「ベビーバトン」の説明会や妊婦たちの島での生活は、とくにその印象が強い。

 たとえば、ベビーバトン代表の浅見(浅田美代子)に、片倉ひかり(蒔田彩珠)が「なんでベビーバトンを始めたんですか」と何気なくたずね、浅見がそれに答える。

 ひかりは声だけで、カメラをもってインタビューしているようなアングルである。

 その不思議な臨場感。

 

 しかし、後半から終盤のシナリオは、かなり原作を端折っている、と思った。

 『八日目の蝉』と似ていると感じた、逃避行とか追い詰められ感がない。

 これでは、片倉ひかりの行動の理由に共感できない。結末の感動も薄れてしまう――。

 そう思いながら最後まで観た。

 結末は原作通りで、感動的なラストではあったが、そこに至る過程に違和感が残った。

 ……

 

 しかし、いや待てよと、思い直した。

 私は小説を読んで感動したのと、映画の前半がかなり原作に忠実だったので、後半もそれを期待して観てしまったのだ。

 

 一本の映画は、独自の完結した世界である。

 それをありのまま味わえばよいのに、原作と比較して観るのは、言ってみれば邪道だ。

 

 シナリオが原作と違えば、人物の心理も異なり、テーマだって違ってきて当然だ。

 そう思って、映画の後半をところどころ再生しながら、もう一度ストーリーをたどり、人物に寄り添って観ていく。

 すると、原作とはまた違う、ひかりの心の動きが見えてきた。

 そして、それを裏づける、小説ではそこに出ていないはずの「ことば」も……。

 映画だけを観たなら、それはすんなりと入ってきたのだろう。

 

 なまじ原作を読んではまってしまったので、映画を観る目に偏見が入ってしまった。

 「観てから読むか読んでから観るか」シリーズを続け、「映画は映画、小説は小説」と割り切って楽しむことの大切さを、自ら語っていたはずなのに……。

 まだまだ修業が足りないようだ。

 

 ところで、前回、楽しみだと書いた、蒔田彩朱の演技は、期待以上だった。

 やはり表情に独特の魅力があり、中学生から20歳まで、懸命に生きるひかりをみごとに演じている。

 ますます気になる女優である。

 

 

 辻村深月『朝が来る』(文春文庫)。

 

 

 小説を数ページだけ読んで、映画を観始めた。

 2020年、河瀨直美監督作品。

 主演は、永作 博美、井浦 新、蒔田 彩珠。

 

 幼稚園の子ども同士のトラブルで、ギクシャクするママ友関係。

 どこにでもありそうな、子育ての風景。

 

 時は遡り、夫婦が子どもなしでも幸せに暮らしていた数年前。

 あるときから不妊治療を始めると、どんどん袋小路に追い詰められていく。

 そんな彼らがふとテレビで観たのは、「特別養子縁組」を仲介する団体の報道だった。

 子どもを産んでも育てられない妊婦と子どもを欲しくても持てない夫婦の間をつなぐ、法律で定められた制度。

 映画はそこに至る夫婦の心の襞を丁寧に描き、団体の説明会の場面は、まるでドキュメンタリー映画のようにリアルに迫ってくる。

 

 そこまで30分ほど観て、いったん映画を中断し、小説に戻る。

 

 

 ページをめくるとすぐ、イメージの世界に入っていくことができる。

 映画の記憶の助けを借りつつ、必ずしも束縛されずに、自分なりの映画が心の中に展開する。

 若干場面の前後があるが、映画はほぼ小説通りに作られている。

 映画で印象に残ったセリフのほとんどは、そのままの形で小説の中に書かれていた。

 

 どんどん引き込まれ、映画で観た範囲を超えて、先まで読み進んでいく。

 何だか、角田光代『八日目の蝉』の場面が切れ切れに浮かんでしかたがない。

 永作博美が出ているせいかもしれないが、もっと深いところで似ている気がする。

 

 実は、永作博美が主演する映画『八日目の蝉』を、私は観たことがない。

 しかし、予告編をチラ観してから小説をカットイメージで深読みしたので、実際に”映画を観たみたいに”、数々の場面が記憶に焼きついている――。

 

 さて、小説『朝が来る』は、ある程度読んだら、また映画に戻るつもりだったが、読みだしたら、もう止まらない。

 とくに、場面が大きく変わる後半の展開……。

 もう映画は後で観ようと割り切って、とうとう最後まで読み切った。

 すると……

 

 とてもよかった。

 読後感がよく、私は好きな小説である。

 そして、「親子とは何か、家族とは何か」という問いが、残響のように心に残る。

 親と子が出会うこと、また、赤の他人が出会い、縁(えにし)でつながることの不思議が、胸に迫る。

 

 やっぱり、『八日目の蝉』と似ている。

  もちろん、設定もストーリーも全く違う。

 しかし、読んでいく体験の感触が似ている。

 底に流れるテーマ、そして、作者が人間を見つめる眼の優しさも。

 この二つの作品は、面影の重なる姉妹のように、私の記憶のアルバムにしまわれていくだろう。

 

 

 さて、映画がまだ残っている。

 後半の主人公片倉ひかり役の蒔田彩珠は、現在放送中のNHK朝ドラ『おかえりモネ』でヒロインの妹役を演じている。

 翳りのある表情が印象的で妙に気になっていたが、調べてみると、是枝裕和監督の秘蔵っ子だという。

 なるほど。

 映画を観るのがますます楽しみになってきた。

 その報告はまた、次のブログで。

 

 

 

 コアなファンの多い伊坂幸太郎だが、ある意味独特な世界なので、うかつには人に勧められない……?

 

 その点、この連作短編作品『アイネクライネナハトムジーク』(幻冬舎文庫)は、安心しておススメできる。

 短編の多くは恋愛がらみで、善良な人々の優しいエピソードに、伊坂流の仕掛けがしゃれている。

 

 

アイネクライネナハトムジーク (幻冬舎文庫)

 

 伊坂自身、「あとがき」にこう書いている。

 

 収録している短編の大半が恋愛にまつわる話となり、個人的にはどこかくすぐったい気持ちもあるのですが、裏を返すと僕の書く話にしては珍しく、泥棒や強盗、殺し屋や超能力、恐ろしい犯人、特徴的な人物や奇妙な設定、そういったものがほとんど出てこない本になりました(今までの大半の本に、そういう要素が入っていることもいかがなものかとは思いますが)。ですから、普段の僕の本に抵抗がある人にも楽しんでもらいやすくなったのではないか、そうであってほしい、と期待しています。(P331)

 

 最初読んだ時、出てくる人物同士が少しずつつながり、それらが十数年の時を遡ったりするので、最後にものすごい大どんでん返しがあるのかと、あれこれ伏線を推理して読んでいったが、それは気の回し過ぎだった。

 別にそんな大仕掛けはないので、散りばめられた素敵なエピソードを、ひとつひとつ楽しめばよい。

 そして、それらが微妙につながりあっていることに、静かな感動が広がる。

 

 これをどうやって映画にしたのか。

 とても興味を惹かれて、今回もNETFLIXで観てみた。

 2019年、今泉力哉監督。主演は、三浦春馬、多部未華子。

 

アイネクライネナハトムジーク

 

 原作の個々のエピソードをうまくひとつの話にまとめている。

 しかし、三浦春馬と多部未華子が演じるメイン・エピソードは、原作に元をとりつつ、さらに発展させたオリジナルストーリーになっている。

 

 生真面目で恋愛に不器用な青年を、三浦春馬が好演している。

 その後の運命を思うと、こうした演技ができる彼はやはり、傷つきやすい繊細な心の持ち主だったのだろうと感じる。

 

 映画に取り上げられなかったエピソードもあるので、映画を観てからでも小説の楽しみはまだまだ続く。

 私は“読んでから観る” で楽しめたが、逆に“観てから読む” のも悪くない。

 

 伊坂幸太郎ファンで、彼女・彼氏にも紹介したいのだが、ちょっと心配……。

 と思うあなたは、一緒に映画を観て、「原作も読んでみて」と勧めてはどうだろうか。