映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術 -9ページ目

映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術

小説の世界に没入して
“映画を観ているみたいに” リアルなイメージが浮かび
感動が胸に迫り、鮮やかな記憶が残る。
オリジナルの手法「カットイメージ」を紹介します。
小説を読むのが大好きな人、苦手だけど読んでみたい人
どちらにもオススメです。

 三浦しをん『舟を編む』(光文社文庫)は、2012年本屋大賞受賞のベストセラー小説。

 

 

 2年ほど前にこの小説を読んだとき、ほんとうに “映画を観ているみたいに” 物語世界に没入し、楽しむことができた。

 しかも、私のイメージの中で、主人公馬締光也は松田龍平、彼が恋する香具矢は宮崎あおい、国語辞典『大渡海』編集主幹の松本先生は加藤剛の姿で生き生きと展開した。

 

 もちろん、例によって “予告編を観てから小説を読む”という裏技を使ったためである。

 さらにこのときは、1、2分で終わってしまうふつうの予告編ではなく、7分あまりもある「特別映像」をYouTubeで見つけて観た。

 

https://www.youtube.com/watch?v=5w3SWA9WbPY

 

 それでイメージの材料が記憶に豊富にストックされたので、ほんとうに“映画を観ているみたいに”、楽しんで読むことができたのである。

 

 その結果、映画はまだ観ていないのに、すっかり観たような気分でいた。

 もちろんそれは錯覚なのだが、実際、Amazon Prime Videoで映画『舟を編む』(2013年石井裕也監督)を見つけたときも、「観たことある」という満足感があって、食指が動かなかった。 

 

舟を編む

 

 それから数か月……

 いつのまにか、映画『舟を編む』がAmazon Prime の見放題から外れていた! 

 いつでも観られると思ったのに観られないとわかると、今まで観ないでいたことを激しく後悔した(身勝手なものである)。

 しかし、さいわいNETFLIXで見つけて、観ることができた。

 

 そんなわけで、“読んでから観る” この映画に、まったく違和感はない。

 地味な辞書作りに費やす年月が、映画の中でしっかりと流れていく。

 大きな盛り上がりはない物語だが、馬締と香具矢の恋の行方はやきもきするし、松本先生には何とか『大渡海』の完成を見せたいと願う気持ちが募る。

 見終えてみて、素直にいい映画だと思った。

 

 ただ、ひとつ残念に感じたのは、主人公馬締の内面がほとんどわからない点である。

 

 馬締光也は、他人とのコミュニケーションが極端に苦手で、興味のある対象には徹底したこだわりと抜群の集中力を発揮する。

 ASD(自閉スペクトラム症)の典型的な特性を持つ主人公像である。

 彼がその特性を生かす「辞書編纂」という天職に出会い、香具矢という女性を一途に愛する。 

 

 この小説は、場面ごとに視点人物が代わり、その人物の感想も交えて出来事が描写される。

 中には馬締が視点人物の場面もあり、そこでは彼の内心の声も語られる。

 例えば……

 

 「最近のジェットコースターは、大きさもひねりも、たいそうなものなんですね。恐そうだな」

 「おばあちゃん、私たちに気をつかったみたいだと思わない?」

 嚙み合わない。馬締は香具矢を見た。香具矢も馬締を見上げていた。黒い目が、意志と何らかの感情を宿して輝いている。馬締は胸が苦しくなり、なにか言わねばと思ったけれど、どんな大きな辞書を調べても、ふさわしい言葉には行きあえそうもなかった。   (光文社文庫版 P87)

 

 映画では馬締の言動を外から撮るだけなので、こうした彼の内面は見えない。

 香具矢への恋も、辞書編纂にかける思いも、表情に乏しい馬締の外面からは読みにくい。

 映画を観ている人には最後まで、馬締光也は「変な人」なのである。

 同じASD特性を持つ私には、そこが気になった。

 

 香具矢が笑顔で「変だけどおもしろい」と言ってくれるのだけが、救いである。

 

 

 

 百田尚樹『海賊とよばれた男』は、2013年の本屋大賞受賞作。

 出光興産の創業者出光佐三氏をモデルにした企業小説である。

 

 戦前・戦中から戦後の混乱期・復興期にかけての時代。

 石油を商う国岡商店の店主国岡鐵造は、社員を家族と思い、祖国の発展のために困難を厭わない筋金入りの生き方で、次々と奇跡的な出来事を引き起こしていく。

 企業人のロマン心をくすぐる物語だが、出光興産によれば、史実と異なる点が多いと言う。

海賊とよばれた男 文庫 (上)(下)セット

 

 この小説については、私の本の冒頭に書いた。

 映画の予告編を観て小説を読み始めたが、主演の岡田准一はイケメン過ぎて、五十代の主人公国岡鐵造のイメージに合わず、頭の中で配役変更して読んだという話である。

 前回の『天地明察』に続き、岡田准一にケチをつけるようだが、それだけ彼が多くの映画に主演しているということでもある。

 

 映画は2016年公開、山崎貴監督。

 Amazon Prime Videoでは見放題になっていなかったので、今回はNETFLIXで観た。息子が会員なので、ファミリー・アカウントが使える。

 

 さて、映画を観てみると、五十代、六十代の鐵造の老けメイクはすばらしく、自然に見える。

 イメージの中で岡田准一を老け顔にする、私の想像力が足りなかったようだ。

 

 

海賊とよばれた男

 

 映画の前半はかなり原作を忠実に再現しており、読んだ記憶を映像でたどる楽しさがある。

 とくに終戦直後、国岡商店の社員たちが元海軍のタンク底に潜って石油泥をさらう仕事に、全身真っ黒になりながらも、楽しそうに取り組む場面は、読んだ当初の感動を新たにした。

 

 映画を半分くらいまで観て、「このまま最後まで観てしまってはもったいない」と感じた。

 例によって “映画を観ながら再読” しようと思い、映画を中断して、上下巻の文庫本(講談社文庫)を再び手に取った。

 

 やはりおもしろい。

 先がわかっているだけに落ち着いてじっくりと読める。

 数多い登場人物(とくに国岡商店の社員たち)も、俳優の顔を思いうかべると読みやすい。

 そのことは、こうした群像劇を読む際には、けっこう大きい。

 最初に読んだときと違って、「これは誰だっけ?」と前のページをくり直すこともなく、物語の世界に没入できた。

 国岡鐵造という人物の魅力と彼を慕う人々のドラマに、どんどん引き込まれていく。

 

 小説後半のクライマックスである「日章丸事件」(イギリスがイランからの石油輸出を警戒する中、出光が秘かにタンカーを派遣し、石油を輸入)の山場を越え、あと数十ページとなったところで、ちょうど週末のジムで映画を観るタイミングがやってきたので、再びNETFLIXで最後まで観た。

 すると、映画の後半はだいぶ物語を端折っているのがわかったが、それは仕方がない。

 

 日章丸の決行に至るプロセスも、小説では非常に丁寧に書かれ、国際情勢の変化を踏まえて慎重に決断していくのがわかるが、映画でそれを描いたらおそらく退屈であろう。

 映画は日章丸(映画では日承丸)の冒険をテンポよく展開し、イギリス艦とあわや衝突!というサスペンス感あふれる脚色も悪くない。

 

 最初の妻ユキの秘められた思いを知る晩年のエピソードも、映画の終盤の山場として、美しく描かれている。

 国岡商店が ”海賊とよばれた” 創業期、その苦楽を共にしたユキと若い店員たち。

 その原点に返る臨終の場面は、胸に迫る。

 

 よくできた映画で、企業ものというより近現代史を背景にした人間ドラマとして引き込まれ、感動できる。

 企業ドラマとしてのリアリティを堪能したい向きには、もちろん小説がおススメである。

 

 

 8月には、カットイメージのセミナーを3回開催します。

 土曜以外なら参加できるのだが……、という声にお応えして、今月は振替休日や日曜、そして初めて夜間の開催をいたします。

 

 この機会にぜひ、”映画を観ているみたいに小説が読める” 世界を、体感してください。

 8月 9日(月)振替休日

   10:00~11:00 カットイメージ超入門60分セミナー

 8月15日(日)

   10:00~11:30 カットイメージ初級90分セミナー

 8月20日(金)

   20:00~21:00 カットイメージ超入門60分セミナー

 

 詳しくは、教育エジソン「セミナー・研修会」のページ

 

 

 

 2011年本屋大賞受賞作、冲方丁『天地明察』は、数年前に読んだ。

 

 

天地明察(上) (角川文庫)

 

まず、作家の名前の読み方が難しい。

 

 冲方丁(うぶかたとう)は、ライトノベルの作家として知られていたが、初めて挑んだ時代小説で、各賞を総なめにした。

 江戸時代初期、天体観測と算術計算を積み重ねて、日本独自の暦を打ち立てた、暦法学者渋川春海の生涯を描く。

  

 上下巻文庫本の帯にあった映画の写真をイメージの手がかりにして読み始めた。

 主演は岡田准一だが、自分の中では違う気がして、北村匠海をイメージしたら、しっくりいったので、そのイメージで読み始めた記憶がある。

 映画『きみの膵臓をたべたい』を見たばかりだったからかもしれない。

 とはいえ、読み進めるうちにイメージは変化し、自分なりの主人公像ができていったのは、いつものことである。

 春海の妻となる“えん”は、映画の写真通り、宮崎あおいのイメージで安定して読み進めることができた。

 

天地明察(下) (角川文庫)

 

春海は碁打ちの名門家の跡継ぎだが、算術と天文が大好きで、算術の問題が書かれた神社の絵馬を見て、関孝和(和算を確立した天才的数学者)の存在を知り、同時にえんとも知り合う。

 1年以上かけて日本全国を歩き北極星の位置を観測するプロジェクト、そして、長年の間に誤差が生じ、正確でなくなっていた日本の暦を正確なものに直そうとする「改暦」に向けた探究、それを実現するための朝廷との闘い。

 

 観測と数理を駆使した自然の真理の探究と、それに基づく新たな暦の創設は、地味な作業の積み重ねだが、それをロマンあふれる挑戦の物語として、みごとに描き出した。

 伝記ふうの文章も格調高く、かつ読みやすくて、ありありと場面が浮かんでくる。

 文庫本上下2冊を飽きることなく読み終えた。

 

 それから何年か経ってしまった。

 ふと思いついて、Amazon Prime Videoで『天地明察』(2012年 滝田洋二郎監督)を観ることにした。

 映画は2時間20分。

 

天地明察

 

 観始めると、岡田准一の春海にも違和感なく楽しむことができた。

(ちなみに、私は別に岡田准一が嫌いなわけではない。大河ドラマの『軍師官兵衛』はカッコよくて大好きだった)。

 

 映画の前半は、本因坊道策との碁の勝負、関孝和の存在を知るきっかけとえんとの出会い、天文・数理オタクの大先輩二人(建部伝内、伊藤重孝)とともに歩く北極星観測の旅、そして「改暦」の命と、小説通りの展開で楽しめた。

 観測儀などの大道具、小道具もみごとで、それらの形を見るだけでワクワクする。

 

 いつもながらジムで走りながら観るので、前半1時間10分余りを観て、いったん中断。

 続きは、翌日観た。

 すると、後半は小説とは少し違う。

 派手な場面も挿入されている。

 そこは映画ならではの演出として楽しむことができた。

 

 観終えて、原作小説のよさを生かして、みごとにビジュアル化した映画だと感じた。

 飽きさせない展開ののち、達成感、爽快感を味わえる。

 

 さあ、この小説、“観てから読む”か、“読んでから観る”か。

 

 原作は伝記ふうの格調高さとともにイメージを喚起する巧みな文章なので、飽きることがないのは保証する。

 しかし、時代劇や天文・数理の話をとっつきにくい、イメージしにくいと感じる向きには、いつもながら、“映画を観ながら読む”のをお勧めしたい。

 前半1時間くらい映画を観てから小説を読む。

 小説を読み終えてから、映画の後半を見ると、脚色の工夫も見えて、より楽しめると思う。

 

 

 映画『人魚の眠る家』(2018年 堤幸彦監督 主演:篠原涼子、西島秀俊)は、数か月前に観た。

 

 

 もし、自分の子どもが脳死状態になったら……。
 臓器移植という医学の進歩がもたらした、脳死は人の死かという問い。
 日ごろ他人事と思っていても、いつ何時、自分事にならないとも限らない。
 そんな重い問題を、近未来SFの要素も含みながら映像化した、美しく哀しい家族の物語。
 とても満足できた映画で、しばらくは原作を読もうと思わなかった。

 それが、半年以上たって、何となく読みたくなり、原作を紐解いた。
 東野圭吾『人魚の眠る家』(幻冬舎文庫)。

 

 

 時間をおいたことで映画の記憶がほどよく薄れ、自分なりに自由にイメージして、“映画を観ているみたいに” 楽しんで読むことができた。

 映画で観た門扉の人魚のレリーフが印象的で、小説にはなかったが、心にはバラの美しい庭につながるその門が、鮮やかに浮かんでくる。
 脳死の少女を美しく活かす、SFだと思った設定は、ほぼ現実の技術水準を下敷きにしており、この物語のように家族の意志と金銭的な裏づけがあれば、絵空事ではないのかもしれない。

 映画のシナリオは、原作をほぼ忠実に再現している。
 ただ、1か所大きく設定を変えているところがあった。
 それは、心臓移植を待つ子どものための募金活動のエピソード。
 重い臓器疾患に苦しみ、国内にドナーが見つからないことで、高額な海外での移植に頼らざるを得ない子の親とその支援者たち。
 この作品を親子の情愛の物語に留めず、社会的な文脈で浮き彫りにする重要な展開である。
 しかし、そこに関わるのが父親か母親か、映画と小説では設定が変わっている。

 映画では、このエピソードに関わるのは父親(西島秀俊)で、その人間像には深みが出ている。
 反面、事態を客観的に見つつ悩む父親に私たちは共感し、母(篠原涼子)は狂っていく一方に見えてしまう。

 小説では、このエピソードに関わるのは母で、対極にいる臓器提供を待つ親の側にも立とうとする。
 彼女はけっして盲目的な母親ではなく、矛盾を抱えたまま苦しんでいるのだ。
 一方、父親の方は存在感がいまひとつで、深みにかける。
 そこが映画と小説の最大の違いに感じた。

 小説を読み終えて、細部の違いを確認するために、もう一度映画を再生し、拾い観してみた。
 すると、ほんとうにきれいな映像化がされていることがよくわかった。
 エンドロールに流れる綾香のテーマ曲『あいことば』も、しみじみと聴いてしまった。

 今回、“観てから読んだ” のは当たりだったと思う。
 しかし、本心を言えば、いつもながら “観ながら読む” のがお勧めである。
 私自身は、初見でその体験ができなかったことが悔やまれる。

 

 

 私の瞑想導入法。その3回目。

 

 前回紹介したように、瞑想の姿勢をとり、目を閉じてストップウォッチをスタートさせたら、自律訓練法の標準練習の状態に一息で入ってしまう。

 ゆっくりと長く息を吐きながら「手足が重く、あたたかい、太陽神経叢があたたかい」と連続してくり返し唱えてその感覚を実感し、吸う息で「額が涼しい」(標準練習の第6公式)と唱えて、涼しい風が額を撫でるのを感じる。

 その深さは日によって違うが、できないことを評価するより、「できたもの」として先へ進む。

 それが、瞑想導入のコツである。

 

 次に来るのが、私オリジナルの「イメージ指圧」。 

 その昔、毎朝の瞑想を習慣化する前は、肩こりや頭痛、目の痛みなどに悩んでいた。

 それで、指圧やツボ押しの本をあれこれ読んで、ツボ刺激をしていた。

 なので、全身のツボについての知識はいくらかあった。

 そこで、瞑想を習慣化して間もなく、自律訓練法に続けて、イメージでツボ押しをすることを始めた。

 

 自律訓練法は、腕に意識を向けて「腕が重い」とか「腕が温かい」と唱えて、その体感イメージがやってくるのを待つ。それを「受動的注意集中」と呼ぶ(成瀬悟策先生の命名)。

 すると、実際にその感覚(体感イメージ)がわいてくる。

 

 その原理を応用して、頭のてっぺんにある「百会(ひゃくえ)」のツボを意識し、「百会のツボが押され、温かくなり、ゆるむ」と唱え、カリスマ指圧師のゴッドハンドで押されているようにイメージする。

 すると、実際にそんな感じがしてくる。

 それと同時にあるいは引き続いて、「百会が温かくなると、全身のツボが温かくなり、ゆるむ」と唱えて、頭から顔、後頭部、首、肩、両腕、手先、背中、腰、太もも、膝、ふくらはぎ、足首、足裏とツボがある程度のエリアごとに同時に、押されていくのを一息で感じる。

 そして、首の前のツボを押したら、喉から体の内部に入り、気管と肺、横隔膜、肝臓などの内臓、また食道から胃、十二指腸、小腸、大腸とたどって温かく、柔らかくなっていくのをことばで唱え、体感する。

 

 直腸に近いあたりまで来たら、イメージ指圧も完成で、ストップウォッチのラップタイム(中間計時)を押す。

 最初にストップウォッチをスタートさせて、自律訓練法の一息を吐き始めてから、ここまで約5分を標準としている。

 どのツボも部位も、「温かくなったかなならないか」と問うことはせず、「温かい」と唱えたら温かくなったものとして次へ進む。

 すると、あとから結果として全身のツボの温かさにつながってくる。

 

 体の不調があって、とくに時間をかけたいツボや部位があれば、あとからまた戻って重点的にほぐす。

 

 この方法を考案した経緯は、上に書いたとおりだが、あとから瞑想関係の本で、白隠禅師の「柔酥(なんそ)の法」という類似の方法を知った。

 それは、頭の上に置いた香り豊かな柔酥(チーズ?)が溶けて、全身を温かく覆いながら下っていくイメージを思い浮かべる方法だ。

 チーズより、香りのよいマッサージオイルの固形をイメージする方がいいと思うが、やってみたことはない。

 

 それはさておき、私自身はこのイメージ指圧を続けていると、日常生活でいつも、健康感が全身にみなぎっている感じがする。

 もちろん、体の不調や痛みもときどきあるが、このイメージ指圧や、あとでまた紹介する、イメージの中の「クリニック」などで、できる範囲の自己治療をし、実際、ひどい体の不調に悩まされることはなくて済んでいる。

 

 ここまでが、私の瞑想導入法である。

 とはいえ、これはあくまで導入であって、瞑想の本題はこれからになる。

 

 今後のブログで順次紹介していくが、早く知りたい方は、私のホームページで、瞑想レポート「私流イメージ瞑想法の実践」をご覧いただきたい。

 

  

 イメージ瞑想から生まれた、“映画を観ているみたいに小説が読める” 超簡単!イメージ読書術についてはこちら

 映画『蜜蜂と遠雷』(2019 石川慶監督)が、Amazon Prime Videoでようやく観られるようになったのを機に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』を、“映画を観ながら再読する”ことにした。

 その続き。

 

 映画を半分だけ見て中断し、原作の再読を始めた。

 この小説はやはりすばらしく、2週間にわたり、通勤電車の中で本を開くたび、心は「芳ケ江国際ピアノコンクール」にワープし、その音楽と人間ドラマを堪能できた。

 その思いを今朝、前半のブログに書き、整理できたので、すぐに映画の後半を楽しみに観た。

 

 映画の前半は、原作のストーリーを思いきり端折った感じで、展開が慌ただしく、薄味の感じがした。

 後半1時間を観始めると、初めは、ライバルであるはずの3人のピアニスト、栄伝亜夜、マサル・カルロス、風間塵が海岸を楽しく散歩するシーンだ。

 これはほぼ原作通りだが、そのあと、ピアノ協奏曲を演奏する本選のオーケストラ指揮者として、原作にない人物(鹿賀丈史)が登場するところから、違う展開になる。

 

 一言で言うと、原作が天才たちのさらなる成長の物語として終盤を描いたのに対して、映画はより人間臭く、苦悩からの再生の物語になっている。

 

 とくに、マサル・カルロスの苦しむ姿は、原作にはあまりなく、意外だった。

 マサル役に、アジアン系エキゾチックの森崎ウィンさんを起用したことは、小説のイメージとはずいぶん違い、最初は正直、違和感を覚えたが、この後半を観て納得できた。

 

 風間塵のキャラクターは、最後までほぼ原作通りである。

 

 そして、この映画のメインは、やはり天才少女栄伝亜夜の苦悩と再生のストーリー。

 圧巻なのは、彼女の再生の証であるピアノ協奏曲の演奏シーンである。

 オーケストラと渡り合って一歩も引かない、堂々たるピアノ。

 その掛け合いがどんどん盛り上がっていくクライマックス……。

 

 余計な説明抜きでそれを見せてくれるのが、やはり映画の強みだ。

 

 この映画は、原作小説の味わいを映像で表現したものではない。

 設定と人物を借りながら、また別の物語として完結することを目指した。

 それはある程度、成功していると思う。

 

 小説は小説、映画は映画。

 そう思って観ると、私は好きな映画である。

 

 拙著『映画を観ているみたいに小説が読める 超簡単!イメージ読書術』はこちら。

 

 

  映画『蜜蜂と遠雷』(2019 石川慶監督)が、Amazon Prime Videoでようやく観られるようになった。

 いよいよ“読んでから観た”『蜜蜂と遠雷』をお送りできると、うれしくなった。

 

 

 原作は1年前に読んだ。 

 4人の若いピアニストを軸に、第一次、第二次、第三次の予選、そして本選という、二週間にもおよぶコンクールの詳細を、多くの登場人物の視点で浮き彫りにする野心的な長編小説だ。

 とりわけ、彼らの奏でる音楽を描写することばは的確で豊かであり、「小説でこんなことができるのか!」と驚嘆しながら楽しむことができた。

 

 いつかまた読み返したい。

 そうは思うが、文庫上下巻で1000ページ近い大作である。

 なかなかきっかけがつかめなかった。

 これは“映画を観ながら再読する”を試すいいチャンスだ。

 そう思いついて、映画を観始めた。 

 

 キャストについて、小説を読んで自分がイメージしたキャラクターとギャップがあるのはしかたがないので、あえて言わない。

 しかし、あまりに濃厚な原作と比べてしまうと、どうしても映画は薄味にならざるを得ない。

 え、もうその場面? と展開の速さに驚きながら、あれよあれよという間に1時間、全編の半分を観てしまった。

 これはいけないと、映画を中断して、原作を開いた。

 

 

 やはりすばらしい。

 一気に読んだと言いたいところだが、毎朝、毎晩の通勤電車のお楽しみで、2週間以上かけてじっくり読んだ。

 本を開けば、そこではずっとコンクールが続いている。

 

 主役である4人のピアニスト高島明石、マサル・カルロス、栄伝亜夜、風間塵のほかに、

 審査員の嵯峨三枝子とナサニエル・シルヴァーバーグ、

 さらに明石を取材する元同級生の雅美、亜夜に付き添う友人の奏など、

 さまざまな人物の視点で物語が織りなされる。

 だから、これだけの長編に飽きがこない。

 

 最初に読んだとき、音楽を表現することばが非常にイメージ豊かであると実感した。

 あらためて読んでみると、その理由は、演奏がそれを聴く人物の主観的体験として語られている点にある。

 音楽とはやはり、ひとりひとりの個人的な体験なのだ。

 その体験描写を読むと、私たちはその人物になりきり、その人の耳で、体で、心で音楽を味わう。

 さらに、この小説では、ピアニストになってその演奏を体感することもできる。

 

 小説『蜜蜂と遠雷』の魅力に深く触れるには、やはり小説を五感で味わう「カットイメージ」が役に立つと、手前味噌ながら実感した次第である。

 

 そして、この作品のもう一つの魅力は、4人のピアニストたちが相互に関わり合い、影響し合い、コンクールの中で成長していく、そのプロセスにある。

 コンクールは単なる競争ではなく、頂点を目指す者同士が切磋琢磨しつつ、学び合い、高め合う場なのだとわかる。

 とはいえ、筆者から天才性を付与された主人公たちは、コンクールが進む中で少しはもがきつつも、大半は音楽の豊かさ、奥深さに毎回新たな気づきを得て、歓喜にあふれた表情で成長していく (とくに年長の高島明石を除く3人は)。

 だから読み終えると、爽やかな満足感とともに、未来に向かい上を向く気持ちになれる。

 

 前に紹介した、『夜のピクニック』との類似点を発見するのも、興味深い。

 名ピアニスト ユウジ・ホフマンが遺した「爆弾」(あるいは「ギフト」)と、『夜ピク』で杏奈が仕掛けた「おまじない」。

 しかも、その当事者である少年のキャラクターが見事に重なっている。

 

 さらに、多くの人物の視点から描かれる群像劇で、互いに啓発しながら成長していく点でも、底に流れるものが共通している。

 それが恩田陸さんの世界観であろう。

 

 担当編集者が書いた、文庫版の解説を読むと、この小説が毎度毎度、〆切を延々とオーバーし、何年もかけてようやく完結した、作家の苦吟の成果であるとわかる。

 そんな裏話を読むと、苦しみの末に生み出された美しい物語が、いっそう愛おしい。

 

 長くなったので、映画の続きを観た感想は次回に。

 

“映画を観ているみたいに小説が読める” 超簡単!イメージ読書術、「カットイメージ」については、以下をご覧ください。

 

                  

               ○浦沢凛花さんの紹介動画

 

 

 

 “映画を観ているみたいに小説が読める”「カットイメージ」のオンラインセミナー、6~7月の開講予定をご案内します。

 

 5月から時間短縮でリニューアルしたセミナーですが、5/1初めての「60分セミナー」は時間が押して十分な話し合いの時間が取れず、参加の皆様にはご迷惑ををおかけしました。

 その反省に基づいて、5/5の90分セミナーは内容を再整理したため、意見交換の時間もとれ、ご満足の声をいただくことができました。

 

 以上をふまえて、6月からのセミナーを再構成しました。

 60分セミナーは「超入門」とし、映像と文章を使ったワークで、日ごろ小説をあまり読まれない方でも、イメージして読む楽しさを実感していただける内容とします。

 90分の「初級セミナー」は、実際の小説を読んでイメージを語り合うことを中心に進めます。

 

 日程は、下記の通りです。

 末尾の(A)~(D)は教材の違いなので、異なる記号の回はくり返し受講しても新鮮な体験を味わっていただけます。

 ぜひ、ご参加ください。

 6月12日(土) 10:00~11:00 超入門60分セミナー(B)  

 6月26日(土) 10:00~11:30 初級90分セミナー(B) 

 7月10日(土) 10:00~11:00 超入門60分セミナー(C)

 7月24日(土) 10:00~11:30 初級90分セミナー(C) 

 より詳しい情報、受講申込みは、教育エジソン「セミナー・研修会」のページから。

 『望み』の“映画を観ながら小説を読む”実験で、雫井脩介の作品を初めて読んだ。

 それで、以前、Amazon Prime Videoで観た映画『クローズドノート』(2007 行定勲監督)の原作が雫井脩介であったと知った。

 

 

 映画『クローズドノート』は、現在と過去が交錯するストーリーで、主人公が恋愛を通じて成長する姿がみずみずしく描かれ、もの哀しい中に、さわやかな後味の残る映画だった。

 

 主演は、沢尻エリカ、伊勢谷友介、竹内結子。

 この3人は、今やそれぞれ異なる理由で、私たちの前から姿を消している。

 しかし、映画の中での彼らの演技はすばらしい。

 

 過去の映画を観ると、俳優さんがその時のままそこに生きていて、私たちの人生は、かけがえのない“今”の連続なのだと実感する。

 彼らの成した仕事は、その後の運命がどうあろうと、永遠に形をとどめ、私たちにくり返し感動を届けてくれる。

 

 鮮烈に記憶に残る映画を思い出しながら、雫井脩介『クローズドノート』(角川文庫)を手に取った。

 

 

 読んでみると、マンドリンクラブに所属し、文具店の万年筆売り場でアルバイトする女子大生香恵の一人称で書かれている。

 清純で可愛い沢尻エリカのイメージで読んでいくが、素直な語り口の中に、香恵の“天然”ぶりが随所に見えて、自然と彼女に感情移入していく。

 伊勢谷友介演じる石飛隆作、竹内結子演じる伊吹先生も、それぞれ映画通りのキャラクターで自然にイメージできた。

 映画を観た記憶の助けを借りて、映画よりも詳細に描写されている人物の心の機微が、とても味わい深い。

 主人公香恵の“天然少女”ぶりは映画よりも徹底しているが、それがむしろ、哀しい物語を明るい色に染めてくれる。香恵の恋の行方は未知数だが、石飛隆作にとっても、彼女の存在はきっと救いになるだろうと感じた。

 読み終えると、映画とはまた違った趣きで爽やかな読後感に浸ることができた。

 

 さらに巻末には、この作品の着想に関わる筆者のプライベートな追記がある。

 それを読んで、作家の創作の秘密を垣間見るとともに、物語のリアリティを感じ、いっそう感動が深まる気がした。

 

 この小説はぜひ、途中まで映画を観て、そのイメージを活用して小説を通読することをお勧めする。すると、この小説の感動を深く味わえる。

 そのあとで残りを観れば、映画の演出の妙や別のよさもまた実感できるだろう。