映画『蜜蜂と遠雷』(2019 石川慶監督)が、Amazon Prime Videoでようやく観られるようになった。
いよいよ“読んでから観た”『蜜蜂と遠雷』をお送りできると、うれしくなった。
原作は1年前に読んだ。
4人の若いピアニストを軸に、第一次、第二次、第三次の予選、そして本選という、二週間にもおよぶコンクールの詳細を、多くの登場人物の視点で浮き彫りにする野心的な長編小説だ。
とりわけ、彼らの奏でる音楽を描写することばは的確で豊かであり、「小説でこんなことができるのか!」と驚嘆しながら楽しむことができた。
いつかまた読み返したい。
そうは思うが、文庫上下巻で1000ページ近い大作である。
なかなかきっかけがつかめなかった。
これは“映画を観ながら再読する”を試すいいチャンスだ。
そう思いついて、映画を観始めた。
キャストについて、小説を読んで自分がイメージしたキャラクターとギャップがあるのはしかたがないので、あえて言わない。
しかし、あまりに濃厚な原作と比べてしまうと、どうしても映画は薄味にならざるを得ない。
え、もうその場面? と展開の速さに驚きながら、あれよあれよという間に1時間、全編の半分を観てしまった。
これはいけないと、映画を中断して、原作を開いた。
やはりすばらしい。
一気に読んだと言いたいところだが、毎朝、毎晩の通勤電車のお楽しみで、2週間以上かけてじっくり読んだ。
本を開けば、そこではずっとコンクールが続いている。
主役である4人のピアニスト高島明石、マサル・カルロス、栄伝亜夜、風間塵のほかに、
審査員の嵯峨三枝子とナサニエル・シルヴァーバーグ、
さらに明石を取材する元同級生の雅美、亜夜に付き添う友人の奏など、
さまざまな人物の視点で物語が織りなされる。
だから、これだけの長編に飽きがこない。
最初に読んだとき、音楽を表現することばが非常にイメージ豊かであると実感した。
あらためて読んでみると、その理由は、演奏がそれを聴く人物の主観的体験として語られている点にある。
音楽とはやはり、ひとりひとりの個人的な体験なのだ。
その体験描写を読むと、私たちはその人物になりきり、その人の耳で、体で、心で音楽を味わう。
さらに、この小説では、ピアニストになってその演奏を体験することもできる。
小説『蜜蜂と遠雷』の魅力に深く触れるには、やはり小説を五感で味わう「カットイメージ」の体験が役に立つと、手前味噌ながら実感した次第である。
そして、この作品のもう一つの魅力は、4人のピアニストたちが相互に関わり合い、影響し合い、コンクールの中で成長していく、そのプロセスにある。
コンクールは単なる競争ではなく、頂点を目指す者同士が切磋琢磨しつつ、学び合い、高め合う場なのだとわかる。
とはいえ、筆者から天才性を付与された主人公たちは、コンクールが進む中で少しはもがきつつも、大半は音楽の豊かさ、奥深さに毎回新たな気づきを得て、歓喜にあふれた表情で成長していく (とくに年長の高島明石を除く3人は)。
だから読み終えると、爽やかな満足感とともに、未来に向かい上を向く気持ちになれる。
前に紹介した、『夜のピクニック』との類似点を発見するのも、興味深い。
名ピアニスト ユウジ・ホフマンが遺した「爆弾」(あるいは「ギフト」)と、『夜ピク』で杏奈が仕掛けた「おまじない」。
しかも、その当事者である少年のキャラクターが見事に重なっている。
さらに、多くの人物の視点から描かれる群像劇で、互いに啓発しながら成長していく点でも、底に流れるものが共通している。
それが恩田陸さんの世界観であろう。
担当編集者が書いた、文庫版の解説を読むと、この小説が毎度毎度、〆切を延々とオーバーし、何年もかけてようやく完結した、作家の苦吟の成果であるとわかる。
そんな裏話を読むと、苦しみの末に生み出された美しい物語が、いっそう愛おしい。
長くなったので、映画の続きを観た感想は次回に。
“映画を観ているみたいに小説が読める” 超簡単!イメージ読書術、「カットイメージ」については、以下をご覧ください。