映画『蜜蜂と遠雷』(2019 石川慶監督)が、Amazon Prime Videoでようやく観られるようになったのを機に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』を、“映画を観ながら再読する”ことにした。
その続き。
映画を半分だけ見て中断し、原作の再読を始めた。
この小説はやはりすばらしく、2週間にわたり、通勤電車の中で本を開くたび、心は「芳ケ江国際ピアノコンクール」にワープし、その音楽と人間ドラマを堪能できた。
その思いを今朝、前半のブログに書き、整理できたので、すぐに映画の後半を楽しみに観た。
映画の前半は、原作のストーリーを思いきり端折った感じで、展開が慌ただしく、薄味の感じがした。
後半1時間を観始めると、初めは、ライバルであるはずの3人のピアニスト、栄伝亜夜、マサル・カルロス、風間塵が海岸を楽しく散歩するシーンだ。
これはほぼ原作通りだが、そのあと、ピアノ協奏曲を演奏する本選のオーケストラ指揮者として、原作にない人物(鹿賀丈史)が登場するところから、違う展開になる。
一言で言うと、原作が天才たちのさらなる成長の物語として終盤を描いたのに対して、映画はより人間臭く、苦悩からの再生の物語になっている。
とくに、マサル・カルロスの苦しむ姿は、原作にはあまりなく、意外だった。
マサル役に、アジアン系エキゾチックの森崎ウィンさんを起用したことは、小説のイメージとはずいぶん違い、最初は正直、違和感を覚えたが、この後半を観て納得できた。
風間塵のキャラクターは、最後までほぼ原作通りである。
そして、この映画のメインは、やはり天才少女栄伝亜夜の苦悩と再生のストーリー。
圧巻なのは、彼女の再生の証であるピアノ協奏曲の演奏シーンである。
オーケストラと渡り合って一歩も引かない、堂々たるピアノ。
その掛け合いがどんどん盛り上がっていくクライマックス……。
余計な説明抜きでそれを見せてくれるのが、やはり映画の強みだ。
この映画は、原作小説の味わいを映像で表現したものではない。
設定と人物を借りながら、また別の物語として完結することを目指した。
それはある程度、成功していると思う。
小説は小説、映画は映画。
そう思って観ると、私は好きな映画である。
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