映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術 -4ページ目

映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術

小説の世界に没入して
“映画を観ているみたいに” リアルなイメージが浮かび
感動が胸に迫り、鮮やかな記憶が残る。
オリジナルの手法「カットイメージ」を紹介します。
小説を読むのが大好きな人、苦手だけど読んでみたい人
どちらにもオススメです。

 小川洋子の『ホテル・アイリス』(1996)は、少女と初老の男との倒錯的な性愛を描く「官能小説」だという。 

 

 2021年に日本・台湾の合作で映画化された。 

 監督・脚本 奥原浩志

 出演 永瀬正敏 陸夏(ルシア)

 

 まず映画を観ていく。

 

 ホテルアイリスは、古びたレンガ造りのホテル。

 そこの娘マリ(陸夏 ルシア)は一日中、ホテルで働く。

 父は亡くなり、ホテルを経営する母親は派手な身なりでダンスパーティーによく出かける。

 

 母親はマリを小間使いのように扱うが、マリの豊かな黒髪を櫛けずるときだけは優しい。

 マリが近所の人々とやり取りすることばは中国語のようだが、マリと母親は日本語で話している。

 

 ある晩、売春婦を怒鳴りつけ殴りつけて、雨の中に出て行った初老の日本人客(永瀬正敏)。

 マリはその男を再び街で見かけて気になり、あとをつける。

 干潮時だけ海の中から現れる、島へ渡る石の道で、男はふり向いてマリに話しかける――。

 

 海岸沿いの石造りの街で、古びた市場や沖の島へと延びる道。

 強烈なインパクトがある風景で、見知らぬ異国のいつとも知れぬ時代にタイムスリップした感覚がある。

 ここはどこなのだろうと調べてみたら、ロケ地は台湾の金門島だという。

 

 30分ほど映画を観て、原作を開いた。

 『ホテル・アイリス』(1998年 幻冬舎文庫)

 

 

 ホテルアイリスの娘マリは17歳だが、高校も辞めて家業を一日中手伝い、友だちもいない。

 そんな彼女が、初老の男、沖の島に独りで暮らす自称ロシア語の翻訳家と恋に落ちる。

 

 実は男は、売春婦が「筋金入りの変態だ」と罵ったように、嗜虐的な性欲の持ち主だった。

 しかしマリは男の求めに従順に応じ、むしろ胸ときめかせ、男との逢瀬を心待ちにする――。

 

 常識では理解しがたいマリの行動は、孤独で退屈な日々ゆえと想像してもみたが、理解は必ずしも必要ないのかもしれない。

 独特の妖しい世界に果てしなく酔いしれる感じで、ときどき映画をつまみ食いしながらも、最後まで読み飽きることのない小説だった。 

 映画で観た海岸の街のイメージが鮮やかに浮かび、とっぷりとその世界に浸ることができた。

  

 読み終えて映画の続きを観ると、またその映像美に目を瞠る。

 

 

 

 風景もそうだが、マリと男との性愛場面の描写が限りなく美しい。

 下着姿のマリの肌をなでる鋭いハサミの切っ先。

 やがてその下着を切り裂いていく。

 真っ白な下着と肌の色のコントラストがとてもきれいだ。

 

 小説ではこれでもかと赤裸々な描写が続くが、映画は確かにその場面を描きながら、しかし映像の美しさが徹底されている。

 マリは何度も全裸になるが、エロティックな部位は自然に隠されていて映り込まない。

 観ていて欲情を掻き立てられることはなく、うっとりするほどの美しさに息を呑む。

 

 映画後半の展開・結末は小説と少し違い、幻想的で暗示的な映像で終わる。

 エンディングには謎も残るが、造り手の独りよがりなイメージを押しつけられている感覚はない。

 バイオリンの低音を基調としたテーマ曲もあいまって、美的感覚を揺さぶられる。

 

 脚本から手掛けた奥原浩志監督の芸術的センスはすばらしい。

 下手をすれば低俗なエロティシズムに墜ちてしまいかねない題材を、こんな美しい映画に仕上げるとは……。

 

 今回は、映画を観てから小説を読む。

 それが断然、おススメだ。

 

 

 

 小坂琉加の小説を読むのは2作目だ。

 

 最初に読んだのは、映画化もされた『余命10年』(2017 文芸社文庫 NEO)。

 治療の術がない難病を宣告され、限られた時間を懸命に生きる女性の生の輝きを描いた。

 

 ライトノベル・タッチで書かれた物語は、マンガ家を目指す主人公、コスプレイベントで盛り上がるアニメオタクの仲間たち、恋に落ちる相手は長身のイケメンで茶道の家元の御曹司……と、少女マンガの世界である。

 

 初めは違和感を感じつつも、作者自身が同じ難病を患い、闘病生活の末にこの作品を遺して逝った、ということを知ってからは、物語の世界にのめり込んだ。

 すると、私が心で観ていたのは実写映画ではなく、精緻に描かれたアニメーションの世界。

 

 そして、小松菜奈、坂口健太郎主演の映画『余命10年』(2022)も、併せて観た。

 映画はあえて大幅に設定を変えてオリジナルストーリーとすることで、作家へのリスペクトを示した。

 

 

 今回読んだ『生きてさえいれば』は、小坂琉加が亡くなったあとに遺作として見つかったという。

 『余命10年』に続き、文芸社文庫 NEO の一冊として2018年に刊行された。

 

生きてさえいれば (文芸社文庫NEO)

 

 今回は初めから「アニメを観ているみたいに」読もうと決めて、本を開いた。

  

 不治の心臓疾患で入院する若い女性、牧村春桜(はるか)が登場するので、前作と同じような設定、展開を予想する。

 しかし、春桜を慕い、春桜の恋を成就させたいと願う甥の千景(ちかげ 小六)の活躍で、運命の糸はつながり、物語は過去へと遡っていく。

 

 夢はあるが冴えない大学生羽田秋葉は、入学早々、人気モデルでありキャンパス中の憧れの的である先輩美女から、会った瞬間、「結婚しよう」と告白される――。

 コミカルでもあり、ドキドキする設定は、やはりアニメーションのイメージで読んでいくのがふさわしい。

 

 なかなか進展しない二人の関係にやきもきし、その恋の展開にワクワクする。

 やがて明らかになっていくさまざまな背景、思いがけない出来事。

 

 そして小説の終盤、過去から現在につながる物語が見え、一度切れた糸は再びつながっていく――。

 

 とても素敵なラブストーリー。

 小坂琉加さんがこの物語を遺してくれたことに、素直に感謝の気持ちが湧いてくる。

 

 『余命10年』に感動した人には、ぜひ読むことを勧めたい。

 

 

 

 小説『やがて海へと届く』(2016)は、東日本大震災で遺された者が深い喪失感からどう再生していくかを描く。

 作者の綾瀬まるは東北を旅行中に震災に遭遇し、その体験をリアルなルポルタージュとして書いた作家である。

 

 映画は2022年公開

 監督:中川龍太郎
 脚本:中川龍太郎 梅原英司
 出演:岸井ゆきの 浜辺美波 杉野遥亮

 

 今回もまず映画を観ていく。 

やがて海へと届く

 

 ホテルの最上階にあるダイニングバーでフロアチーフとして働く、28歳の湖谷真奈(岸井ゆきの)。

 3年前の東日本大震災の日に東北を旅していたはずの親友すみれ(浜辺美波)の行方は、今もわからない。

 

 ある晩、すみれの恋人だった敦(あつし・杉野遥亮)が、真奈の職場を訪ねてきた。

 敦とすみれが暮らしていた部屋で、すみれの持ち物を整理する。

 整理した残りをもって二人ですみれの実家を訪ねるが、すみれの母親(鶴田真由)も敦もすみれを死んだ者として扱うのが、真奈には耐えられない。

 自分の中にすみれは確かにまだ生きているのに……。

 

 同じ大学に入学してまもなく二人は仲よくなり、すみれが真奈の部屋に居候していた時期もあった。

 雷の鳴る夜、二人で手をつないで眠った。

 二人で旅に出ると、すみれはどこまでも歩いていくのが好きだった――。

 

 真奈が生きる現在の物語と並行して、すみれとの記憶のシーンがよみがえる。

 すみれを演じる浜辺美波の輝く笑顔が印象的だ。

 

 最初の30分。いったん映画を中断して、原作を手に取った。 

 彩瀬まる『やがて海へと届く』 講談社文庫 2019

 

やがて海へと届く (講談社文庫)

 

 真奈の一人称で、しばしば心のつぶやきをからめながら出来事を語っていく。

 映画と同じように現在の物語が進行しつつ、すみれとの記憶のシーンが描かれる。

 

 いや小説ではもうひとつ、真奈が見た夢なのか、生々しい幻想の世界が独立した章節として挿入されている。

 白昼夢か、あるいは悪夢か。不思議な夢幻世界である。

 睡眠時の夢のようにすみれや敦など現実の人物が登場することもあるが、やはり夢らしく不可思議な展開を見せる。

 

 この幻想世界にどう入り込めるかで、この作品の好みは分かれるのではないか。

 真奈が喪失感を乗り越えていくプロセスはストーリーとして自然に読めるが、挿入される夢幻の世界が真奈の内面をより深く映し出す。

 実際、小説の結末も象徴的なイメージの場面で終わっている。

 

 小説としては満足して読み終えたが、夢幻的なイメージの部分には、正直、消化不良の感が残った。

 その部分を埋めてくれるものを漠然と期待しながら、映画の続きを観た。

やがて海へと届く

 すると、映画はほぼ原作通りのストーリーを描き、真奈とすみれの過ごした時間がより具体的なエピソードで映像化されている。

 

 そして後半、小説で真奈が前に進むきっかけとなる職場の同僚男性国木田との小旅行の行く先が、小説と違って東北の被災地になっている。

 真奈たちは防潮堤の建設が進む海岸を歩き、震災で家族を喪った人々と出会う。

 

 原作よりもストレートに核心に迫っていて、真奈が喪失体験を乗り越えていくプロセスをわかりやすくする映画らしい脚色だと、先の展開に期待をふくらませた。

 ……だが、必ずしもそうはならなかった。

 

 結末近くなると、過去の場面がすみれ視点で再生され、何やらすみれの心の秘密が暗示される。

 しかし、明確な伏線回収はないまま、あいまいなエンディングへとつながっていく。

 ネタバレは避けたいが、私が期待した「映画らしいわかりやすさ」は、残念ながらそこにはなかった。

  

 では、この作品は読むのがよいか、観るのがよいか。

 どちらも、喪失からの“癒しと再生の物語”の感動を期待すると、必ずしも保証できない。

 

 小説では真奈の喪失感に共感できるし、彼女が悩み紆余曲折の末に心許せる相手ができることには安堵し、心から祝福を送りたくなる。

 ただ、物語の随所に挿入される夢幻世界の部分が重い。

 

 映画では真奈(岸井ゆきの)とすみれ(浜辺美波)の対照的なキャラクターの友情に好感が持てるし、場面場面は美しい。

 ただ、結末の感動は、私には味わえなかった。

 

 あとは、読者の皆様にお任せしたい。

 

 

 小坂琉加の小説 『余命10年』  文芸社文庫NEO  2017年

 なんとストレートなタイトルだろうと思った。

 

 映画は2022年公開

 監督:藤井道人
 脚本:岡田惠和 渡邉真子

 出演:小松菜奈 坂口健太郎
 

 まず映画を観る。

 

余命10年

 

 大学生だった20歳のときに、難病「肺動脈性肺高血圧症(PAH)」を発症した高林茉莉(まつり・小松菜奈)は、長い闘病生活ののちに退院し、自宅での生活を始める。

 しかしその病気に有効な治療法はなく、発症から10年以上生きられた人はいない。

 その運命を背負いつつ、茉莉は生きていく。

 

 10年後の未来を持たない茉莉は「もう恋はしない」と決めていたが、同窓会で再会した和人(坂口健太郎)と関わるうちに恋に落ちてしまう。

 衝動的に投身自殺を図るほど人生の目標を持てずにいた和人もまた、茉莉に勇気をもらい前を向いて生きて行こうとする――。

 

 例によって冒頭40分ほどを観ていったん中断し、原作を開いた。

 

余命10年 (文芸社文庫NEO)

 

 読み始めると、退院までの経過はほぼ同じだが、映画では文章を書くのが得意で小説家志望だった茉莉が、小説ではアニメオタクで、マンガを描くのがうまい。

 友だちからコスプレイベントに誘われてアニメオタクの性向に火がつき、同人誌に作品を発表して、プロのマンガ家を夢見る。

 

 ……と、映画とはだいぶ違う展開であり、テイスト自体が異なる。

 ライトノベルならではかなと思いつつ読んでいくが、途中、退院した22歳から25歳までの展開があらすじのように端折った感があって、少々違和感を覚える。

 

 小説を書きなれていない素人っぽいタッチ、あるいはマンガ的な設定やストーリー展開。

 もちろん私が読みなれていないだけで、ライトノベルではふつうのことなのかもしれない。

 

 ふと思って作者小坂琉加について調べてみたら、彼女自身がこの難病に苦しむ患者であった。

 そして2017年、文庫版の編集が終わった直後に病状が悪化し、刊行を見ることなく38歳の若さで亡くなったという。

 単行本の初版が2007年。さらに10年を生きて、彼女はこの文庫版を遺したのだ。

 

 そのことを知って読み進めると、文体の素人くささや、ストーリー展開のマンガっぽさがとたんに気にならなくなった。

 むしろ、余命10年の運命を背負って生きていく茉莉のさまざまに揺れ動く心情に、当事者でなければ書けないリアリティを感じる。

 

 そんな思いでストーリーを追っていくと、頭の中に展開するのは小松菜奈と坂口健太郎の実写映画ではなく、丁寧に描き込まれたアニメーションの世界。

 そのイメージ世界にどんどん引き込まれていった。

 

 そして、結末まで残り50ページほどとなったとき、最後まで読み終えてしまうのがむしょうに惜しくなった。

 そこでいったん本を置き、映画の続きを観ることにした。

余命10年

 やはりストーリー自体がかなり違う。

 とくに和人の境遇設定がぜんぜん違い、まったく別の物語になっている。

 小説をのめり込んで読んでいただけに、がっかりしてしまう。

 

 いやしかし、自分のイメージと違うからといって映画を批判しない。

 映画は映画独自の世界として観る。

 それが私の信条ではなかったか。

 と思い直し、小説との違いはひとまず置いて、映画自体の世界に寄りそって観ることにした。

 すると……

 

 運命から逃げずに生きる茉莉と、彼女を誠実に愛する和人の二人の日々の輝きが、さまざまな風景映像とともに描かれる。

 また、姉の桔梗(ききょう・黒木華)をはじめとする家族、茉莉に出版の道を開く親友の沙苗(奈緒)など、茉莉を応援する周囲の人々も印象的だ。

 永遠の別れのシーンも、哀しいが美しく心に残る。

 

 そして、原作でマンガ家志望であった茉莉を、映画では小説家志望にしたことの意味が、最後に明らかになる。

 茉莉と作者小坂琉加、二人の人生が重なってくるのだ。

 

 この映画のシナリオは原作のストーリーを大幅に変えてあるが、それは決して原作を軽んじたからではない。

 自らの命を注ぎ込んで『余命10年』という作品を遺した作家小坂琉加。

 彼女に最大限のリスペクトを捧げつつ、映画は映画のオリジナリティを追求した。

 映画を最後まで観ると、そのことがはっきりとわかる。

 

余命10年 (文芸社文庫NEO)

 

 映画を観終えて、文庫本の残り50ページを読んだ。

 そこには、死にゆく人のリアルが、まさに経験者でなければ書けない筆致で描かれていた。

 それととともに、自分のしたいことをし尽くし、人生の選択をすべて肯定して死に赴いていく茉莉の姿。

 

 そして、遺された和人もまた、自分の人生を選択し、前へ進んでいく。

 その姿を描くロマンチックなエンディング。

 やはりこのストーリーにはアニメーションがふさわしい、と思った。

 

 調べてみると、2021年にTBSテレビでアニメ放送されたようだ。

 しかし、小説を読み終えた私は、既にアニメを見てしまったような気になっている。

 私の中でそれは、とても大切な記憶である。

 

 例によって、観てから読むか、読んでから観るか。

 この作品の場合、私には答えがない。

 映画だけ観るもよし、小説だけ読むもよし。

 どうしても観たいし読みたいという場合、同じ物語と思ってはいけない。

 それぞれ独立した別々の世界を、別々に味わってほしい。

 

 

 

 瀬尾まいこ 『そして、バトンは渡された』は、2019年の本屋大賞受賞作。

 

 映画は2021年公開

 監督:前田哲   脚本:橋本裕志

 出演:永野芽郁 田中圭 石原さとみ 

 

 AmazonPrimeVideoのカスタマーレビューが☆4.5 なので、楽しみに観始めた。

 

そして、バトンは渡された

 

 2つの家族の物語が並行して描かれる。

 

 幼くして母親を亡くし、パパ(大森南朋)と暮らすみいたん(稲垣来泉:子役)。

 そこにあらわれた新しいママ梨花さん(石原さとみ)は、派手好きでズボラなところもあるが、超楽天家でお菓子やきれいな服に満ちあふれたハッピーな生活を、みいたんにプレゼントしてくれる。

 

 もう一つ。高校3年生の優子(永野芽郁)は料理の道を目指し、志望する短大の栄養科は合格圏。

 合唱祭のピアノ伴奏をクラスで押し付けれられる形になっても、笑顔でそれを引き受ける。

 家では、30代の父親を「森宮さん」と呼ぶ。森宮さん(田中圭)は「父親らしく」といっていそいそと料理をつくったりする。ときにピントがずれているが、優子はそれに感謝して暮らしている。

 

 一方みいたんは、パパが突然ブラジルへ行くと言い出し、梨花さんと二人暮らしになる。

 だが、梨花さんの派手好きと楽天家ぶりは変わらず、お金がなくても、無料のパンの耳でケーキを作ったりしてみいたんを喜ばせる。

 

 例によって30分ほどで映画を中断し、小説を読み始めた。

 瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文春文庫)

 すると……

  

そして、バトンは渡された (文春文庫)

 

 小説は優子の一人称で書かれているが、映画との間にまったく違和感がない。

 まるで “映画を観ているみたいに小説が読める!” (笑)

 

 映画では、梨花さんがもたらす世界がカラフルでキラキラして、みいたんの幸福感が伝わる。

 その記憶があるので、みいたんの場面は読んでいてもワクワクしてくる。  

 

 そして、優子と森宮さんのコミカルだが、優しさに満ちた暮らし。

 優子の無理しない生き方。

 

 読み進みながら映画ではどうだろうと、ときどき映画を観たくなって30分ほど観ては、また小説に戻り、最後まで読み切った。

 

 ユーモラスで、ほのぼのとして、じわっときて、元気をもらえる。

 「いろんな家族の形があっていい」というメッセージが、スッと心に入ってくる。

 好感度100%の小説。

 

 そして、映画の続きを楽しみに観た。すると……。

そして、バトンは渡された

 

 終盤45分の展開がほぼ原作に沿いながら、いくつかのアレンジを加えて、より感動的な物語に仕上げている。

 それでいて、原作のテイストはしっかり残している。

 この脚色は、見事というほかない。

 

 瀬尾まいこの文章はとてもイメージしやすく、映画化に向いている。

 しかし、映画と小説に違和感がないのは、原作通りに映画を作ったからではない。

 映画製作者側が原作をリスペクトし、その世界を尊重しつつ、映画表現ならではのオリジナリティを追求したからだ。

 

 例えば、優子と森宮さんのああいえばこういうの掛け合いが小説では長く続くが、映画では俳優の演技で自然に伝わるように、かなり会話を書き直している。

 そのおかげで、永野芽郁と田中圭のちょっとずれたやりとりから、愛情と感謝がじわりと染みてくる。

 

 映画と小説の表現の違いについてこのブログでも何度か書いてきたが、小説も映画もそれぞれの持ち味を存分に発揮することによって、こんなにも見事なコラボ作品ができあがる。

 

 何と幸せな出会いであろう。

 その稀有な例を、今回は見せられた気がする。

 

 この作品こそ、「観ながら読む」のが断然おススメだ。

 ①まず映画の前半(1時間15分 優子の卒業式まで)を観る。

 ②次に小説を読む。最後まで。

 ③それから映画の残りを楽しみに観る。

 

 これで映画も小説もネタバレなく、両方の良さを存分に楽しむことができると思う。

 もちろん、私のようにどきどき映画をつまみ食いしながら小説を読み進むのも、また一興である。

 ぜひ、お試しあれ。

 

 

 

 

 観ながら読んだ『ムーンライトシャドウ』のつながりで、吉本ばななの『白河夜船』を観ながら読むことにした。

 

 「白河夜船(しらかわよふね)」は、古くからあることわざである。

 京都の白河について訊かれ、地名と知らず川の名前だと思って「夜に船で通ったから知らない」ととぼけたため、京都に行ったという嘘がばれた、という小話に基づく。

 

 そのため「知ったかぶり」の意味もあるが、ここでは「ぐっすり眠り込んで、何が起こったか知らないことのたとえ」の方だろう。

 「いつから私はひとりでいる時、こんなに眠るようになったのだろう。」で始まる、眠りをモチーフにした恋愛小説である。

 

 映画は2015年公開
 監督:若木信吾   脚本:若木信吾 鈴本櫂
 出演:安藤サクラ 井浦新 谷村美月

 

 

白河夜船

 

 ベッドで眠りをむさぼる寺子(安藤サクラ)は、岩永(井浦新)からの電話で目覚めては、会いに出かけていく。

 年上の男性岩永と、寺子は不倫の恋をしている。

 岩永の妻は交通事故で脳を損傷し、病院のベッドで昏々と眠り続ける。


 また、2か月前に自殺した親友しおり(谷村美月)と過ごした日々の回想がときおり、浮かんでくる。

 学生時代、二人は一緒の部屋に住んでいたほどの仲よしだった。

 

 卒業後、しおりは二人の部屋を出て、“添い寝”の仕事をしていた。

 おそらくは深い淋しさを抱えた顧客のために、天蓋付きの豪華なベッドで一晩、傍らに寝るだけの仕事。

 しおりは、顧客が眠りから覚めたときにけっして淋しく思わないように、一晩中眠らないようにする、それがプロだと語る。

 

 ほとんど寝てばかりいる寺子一人の場面、ベッドシーンなど寺子と岩永の逢瀬の場面、そしてしおりと過ごした日々の回想場面、ほぼその3つで進行していく。――

 

 例により30分ほど映画を観て中断し、原作を開いた。

 

 

白河夜船

 

 

 読んでみると、映画で寺子が話したりつぶやいたりしていたことばは、ほぼ原作通りだということがわかる。

 脚本家は、原作のことばを大切に扱ってシナリオの中に封じ込めているように感じた。

 

 映画では眠ってばかりの寺子を外から撮っているので、何ともだらしなく、しどけない印象をもってしまうが、小説で寺子の一人称語りを読んでいくと、彼女の眠けすら実感でき、共感できる気がする。

 一人称の小説というのはやはり、映画では表現できないきわめて主観的な世界を描いているのだ。

 

 また、添い寝の仕事にプロ意識を持っていた親友しおりが、他人の孤独を引き受け続けた結果、自殺するほどの淋しさを自分自身の中に蓄積してしまったのではないかと、思えてくる。

 

 そして、岩永が好きで好きでたまらない寺子は、愛することの孤独の中に身もだえしつつ、未来を描くことなく、ただ今の恋に身を任せていく。――

 

 大きな物語展開はないが、やはり一人称語りの味わいで読ませてしまう小説だ。

 文庫本70ページは、その味わいに浸っているうちに読み終えてしまった。

 

 そして、映画の残りを観た。

白河夜船

 

 正直、退屈な映画である。

 

 原作では一人称の語りから読者は、内面と外界を同時にイメージして主人公とともにあり、その思いを感じていく。

 一方、映画では、寺子の内面語りがナレーションで流れることもあるが、大半は、表情や態度という「演技」で表現される。

 

 安藤サクラの表現力は評価に値するが、表現を求められている中味自体が、演技しきれないものなのではないか。

 愛や孤独について深い真実を暗示するしおりの語りも、映画のセリフとして聞くと、長すぎて意味を追うのはかなりしんどい。

 

 初めは原作のことばを大切にしていると感じたシナリオも、実は怠慢なのではと、少し腹が立ってきた。

 原作のことばに依存し、俳優の演技に依存し過ぎた脚本・監督は、あまりにも工夫がなさすぎる。

 

 残念ながら、それがこの映画に対する私の評価である。

 

 ひるがえって思うと、先に酷評した映画『ムーンライトシャドウ』の見方が変わってくる。

 

 エドモンド・ヨウ監督と脚本家高橋知由氏は確かに、原作の内面世界を深く受け止め、独自の世界として、映像の中に再構築しようとした。

 そのチャレンジ精神と創造性はリスペクトに値する。

 

 そう思えたのは、『白河夜船』を「観ながら読」んでみたおかげである。

 もしかしたらエドモンド・ヨウ監督は、『ムーンライトシャドウ』(2021)を撮る前に映画『白河夜船』(2015)を観て、「反面教師」にしたのかもしれない。

 

 

 

 吉本ばななの小説 『ムーンライトシャドウ』は、「日本大学芸術学部の卒業制作として発表したもの」(Wikipedia)だという。

 1987年日本大学芸術学部長賞、1988年に泉鏡花文学賞を受賞した。

 
 この作品は、『キッチン』(2002 新潮文庫)に収録されている。

 今回も本を用意しておいて、まずは映画を観始めた。

 

 『ムーンライトシャドウ』 2021年公開

 監督:エドモンド・ヨウ
 脚本:高橋知由
 出演:小松菜奈 宮沢氷魚 佐藤緋美 中原ナナ 臼田あさ美 他

 

ムーンライト・シャドウ

 

 マイクの前に座ったさつき(小松菜奈)が、しばらくためらったあとで、「鈴の音が耳を離れないんです」と語り始める。

「あの鈴の音には、等(ひとし)と過ごした時間が全部詰まっている」……と。

 アップの顔は疲れ、やつれ果てていて、輝きも美しさもない。

 

 その鈴の音から、川べりでの等(宮沢氷魚)との出会い、二人で重ねた日々の場面が続いていく。

 

 そして、等の弟 柊(ひいらぎ・佐藤緋美)、その恋人ゆみこ(中原ナナ)と四人で過ごした楽しい時間。

 井戸のより深く、深いところでつながっている地下水脈や、死んだ人と再会できるという都市伝説「ムーンライトシャドウ」についての語りあい……。

 

 そこまで30分ほど観て、いったん中断した。

 冒頭のさつきの語りから、等との死別が予感されるが、まだはっきりとは出てこない。

 

 それにしてもストーリー性が弱く、場面やそのつながりが象徴的・暗示的で、わかりにくい。

 正直なところ、エンタテインメント映画を観慣れてしまった頭には、何とも難解な映画に感じられる。

 

 そこで『キッチン』を開き、最後に収録されている『ムーンライトシャドウ』だけをとりあえず読んだ。

 

キッチン

 

 読み始めたら引き込まれて、一気に最後まで読んだ。

 これはすばらしくよかった。

 

 愛する人との死別の苦しみに悶える心をどうやって癒し、前に進むことができるか。

 それを描いている。

 

 さつきの一人称の文章は、てらいのない素直な語りで、情景も感情も、こちらの心にスッと入ってくる。

 この処女作で、吉本ばなながその才能を絶賛されたのも、むべなるかなと思う。

 

 この作品をモチーフにして、おそらくはテーマも原作を引き継いで、エドモンド・ヨウ監督は独自の映像世界を作り上げている――。

 冒頭30分を観ただけでそれははっきりと感じられたので、原作と比較しないことを肝に銘じて、映画の残りを観た。 

 ……すると、

ムーンライト・シャドウ

 

 場面から場面への不可解・不可思議なトーンは、最後まで変わらなかった。

 その分、盛り上がりもない。

 

 とくに、愛する人との奇跡の再会の場面――。

 残念ながら、私の心には沁みてくるものがなかった。

 

 死者の再生の物語については、このブログでも私のこだわりを何度か書いてきた。

 現実の死の重みと残された者の苦しみがリアルであればこそ、たった一つのファンタジーが、一服の癒しとなる。

 しかし、全体的に夢かうつつか、そのあわいを漂っているようなこの映画のトーンの中で、感動的なはずの“奇跡”は埋もれてしまう。

 

 そんな影(現実)と光(ファンタジー)の関係を、エドモンド・ヨウ監督はどう考えたのか。

 もしかしたらこれは、文化的な好みの違いかもしれない。

 この映画は実際、カラフルな色彩にあふれている。

 

 ところで、これを機会に、新潮文庫『キッチン』に収録された二作品『キッチン』と『満月―キッチン2』も読んでみた。

 

 

キッチン

単行本の表紙

 

 これらもすばらしかった。

 いずれも、愛する人の死から始まる再生の物語。

 

 ここでは、奇跡もファンタジーも起こらない。 

 生きている人と人との関わりが、再び前に進む力となる。

 

 そのことを、いっそう飾らない文章、自然な物語展開でみごとに描きだした。

 その意味では、『ムーンライトシャドウ』、『キッチン』、『満月』の順で読むのがおススメだ。

 

 おやおや、いつもと違う「おススメ」になってしまった――。

 

 PS 実はその後、吉本ばなな原作つながりで、映画『白河夜船』(2015)を観たら、映画『ムーンライトシャドウ』への評価が変わってしまった。よろしければ、そちらもご覧ください。 →観ながら読んだ吉本ばなな『白河夜船』

 

 

 桜木紫乃 『起終点駅(ターミナル)』  小学館文庫 2015

 

 文庫で出た桜木紫乃の小説はほとんど読んでいるが、この作品は映画があることを知っていたので、いつか「観ながら読もう」と思っていた。  

 

 映画は2015年公開

 監督:篠原哲雄  脚本:長谷川康夫

 出演:佐藤浩市 本田翼 中村獅童 

 

起終点駅 ターミナル

 

 釧路に住む65歳の鷲田完治(佐藤浩市)は、国選弁護しか引き受けない変わり者の弁護士である。

 粗末な借家で一人、質素に暮らす。

 毎日、自分だけのために料理しひとりで食べる。

 

 別れた妻と息子が東京にいるが、ずっと会っていない。

 

 30年前(映画では25年前)、旭川地裁判事の任期を終え、東京へ栄転するはずの完治の身に起きた衝撃的な出来事――。

 それ以来、完治は裁判官の職も妻子も捨てて、贖罪のような今の暮らしを続けてきたのだ。

 

 そんなおり、覚せい剤所持で逮捕され完治が国選弁護で担当した女 椎名あつ子(本田翼)が、彼を訪ねてくる――。

 

 30分ほど映画の冒頭を見てから、小説を読んだ。

 

起終点駅(ターミナル) (小学館文庫 さ 13-2)

 

 

 6編を収める短編集で、表題作はその中の一編である。

 読んでいくと鷲田完治の姿に、こんなふうに過去を背負っていく生き方があるのだと、人生の意味を深く考えさせられる。

 

 そこへ無邪気に押しかけてきた、椎名あつ子との関わり。

 あつ子もまた暗い人生を送ってきたのだが、完治のおかげで人への信頼を少しだけ取り戻し、新たな人生へと旅立っていく。

 そこが、互いの人生の起終点駅(ターミナル)なのだ。

  

 派手な展開はないが、完治のストイックで寂しい人生の中にほんのわずか救いが見えるような物語。

 いかにも桜木志乃らしいと、満足して読み終えた。

 それから、映画の続きを観た。

 

起終点駅 ターミナル

  

 60ページ足らずの短編を映画化しているので省略の必要がなく、セリフもほぼそのまま原作通りに進んでいく。

 自分なりにイメージしていた物語をもう一度、映像でたどり直し、味わうことができた。

 

 と、思いきや……。

 結末の展開だけが、大きく違っている。

 

 あつ子(本田翼)がもたらしたものが、ただの思い出に終わらない。

 完治(佐藤浩市)の心に波紋を起こし、ある行動へと駆り立てる。

 

 やはり映画らしい展開だが、パラレルワールドのようにもうひとつの「あり得たかもしれない物語」を観ることができて、得した気分である。

 そこで、この作品は観てから読むか、読んでから観るか……

  

 ①まず小説で、桜木志乃らしいストーリーを味わう。

 ②それから映画を観て、結末のアレンジを楽しむ。

  つまり、「読んでから観る」のがおススメだ。

 

 もちろん、映画の冒頭だけ観て釧路の風景や俳優たちの顔をイメージに入れておけば、小説も読みやすいし、後で映画を観ても違和感なく楽しめる。

 

 ただし事前に映画の「予告編」を観るのは、今回はお勧めしない。

 映画の冒頭30分の展開が私には衝撃で、その後の完治の人生の選択も心情的に理解できた。

 なのに、予告編では冒頭のエピソードをネタバレしている。

 これは観ない方がいい。

 

 ちなみに短編集『起終点駅(ターミナル)』の他の作品は、やはり北海道の各地を舞台に、世の中で必ずしも陽の当たらない人々の生きざまを描いている。

 薄墨を流したような風景の中でいずれも明るい話ではないが、読みごたえは十分である。

 

 

 

 池井戸潤 『シャイロックの子供たち』 文春文庫 2008

 

 かつてテレビドラマにもなったようだが、映画化は2023年。

 監督:本木克英    

 脚本:ツバキミチオ

 出演:阿部サダヲ 上戸彩 玉森裕太 柳葉敏郎 佐藤隆太 佐々木蔵之介 橋爪功 柄本明

 

シャイロックの子供たち

 

 映画の冒頭は、まさにタイトルの出典であるシェークスピア作『ヴェニスの商人』の舞台から始まる。

 守銭奴と呼ばれた金貸しシャイロックが、裁判官に扮するポーシャ(被告アントーニオの恋人)の機転で敗北する結末。

 

 その舞台を観終えて、妻の他愛ないおしゃべりに相づちをうつ男(佐々木蔵之助)。

 しかし、その回想の中で、銀行員の彼はATMの札束を秘かに持ち出して競馬で大儲けをし、再び現金をATMに戻す――。

 「それ以来、自分は悪魔に魂を売り渡し、シャイロックになったのだ」と、男はつぶやく。

 

 タイトル文字を挟んで、物語は本編へ。 

 西木課長代理(阿部サダヲ)が銀行の通用口から出勤し、軽いノリで北川愛理(上戸彩)ら課員に声を掛ける。

 東京第一銀行長原支店のいつもと変わらぬ朝。

 女子行員同士の確執など、ありがちな人間関係も垣間見える。

 
 しかし、営業部のエースと期待される滝野(佐藤隆太)は、前勤務支店で担当した石本(橋爪功)から、経営者が失踪した会社の処分のために架空融資の話を持ちかけられる。

 

 一方、西木(阿部サダヲ)は、飲み屋で知り合った年配の男(柄本明)から所有する複数のビルの売却について相談を受け、現場を見に行くが、すべて怪しげな訳アリ物件ばかりである。

 

 30分だけ観てもなかなか濃いエピソードが続く。

 それらの糸がどうつながっていくのか興味は尽きないが、例によって「観ながら読む」計画なので、いったん映画を中断し、原作本を開いて読み始める。

 

シャイロックの子供たち

 

 全10話で、それぞれ異なる人物の視点で書かれた連作短編。

 以前紹介した『7つの会議』と同じように、ひとつの職場をめぐる人々の群像劇だ。

 それらひとつ一つのピースがやがてつながり、全体像が浮かびあがってくるのであろう。

 

 映画のキャスト表で人物名を見て、その俳優のイメージを借りながら読み進める。

 しかし、例によって通勤電車での読書であり、土日も挟むとページは進まない。

 

 逆に、週末はジムで走りながらiPadでの映画鑑賞タイム。

 映画の続きを観たくなる。

 

 映画の公式サイトを見ると、小説ともドラマとも異なる「完全オリジナル・ストーリー」とある。

 ならば、映画を先に観ても大丈夫だろう。

 安心して、映画の続きを観る。

 確かにおもしろくてどんどん引き込まれ、ついに最後まで観てしまった。

 

 すると……。

 こんなに悪いことをしている銀行員が多いのか! 

 と呆れてしまうほど、不祥事と隠蔽のオンパレード。

 

 その中では、他人の借金を背負わされ、同情すべきところのある西木(阿部サダヲ)を応援したくなる。

 西木たちの側も、悪い奴らをだまして自分たちが儲けようとする。

 その計略がスリリングで、観ていて思わず手に汗握ってしまう。

 

 銀行を舞台にした悪事と悪事の駆け引きがおもしろい、上級のエンタテインメント映画である。 

 

 もちろん、現実の銀行員たちはまじめに働いているのだろう。

 それはまちがいない。

 映画の中でも上戸彩や玉森裕太らが演じる平の行員たちは、コツコツと日々の業務をこなしている。

 

 そして、営業成績のプレッシャーに押しつぶされて、精神を病んでしまう気の毒な行員のエピソードもある。

 そうした銀行の現実がもう少し描かれているのではないかと思いながら、原作小説の続きを読んだ。 

 

シャイロックの子供たち文庫映画化カバー

(文春文庫の映画化カバー)

 

 読み進むと、映画の中の個々のエピソードはそのほとんどが小説に書かれている。

 映画の「完全オリジナル・ストーリー」は誇張で、原作の内容をピックアップして配列を変え、隠された真相と行きつく結末を別の形にしたのだ。

 映画化においてはありがちなアレンジの範囲だと思う。

 

 小説のストーリーはミステリー仕立ての部分もあるが、スパッと解決する結末でもない。

 複数の登場人物の眼から、銀行という魔窟に潜む犯罪と、役付き銀行員たち各々の生きざまを描いている。

 

 しかし、社会の暗部を抉り出そうというリアリズムの小説ではない。

 現実の銀行はもっと違うだろう。

 だが、一面の真実は突いているのかもしれない。

 

 だから、銀行に限らず会社組織の中で資本の論理に縛られ苦しんでいる人々の共感を呼ぶ。

 そういうエンタテインメント・ドラマなのだ。

 

 

 

 佐藤正午の小説『月の満ち欠け』(2017年 岩波書店)は、2017年上半期第157回直木賞受賞作。

 

月の満ち欠け

 

 映画は、2022年公開。   

 監督:廣木隆一 脚本:橋本裕志

 出演:大泉洋 柴咲コウ 有村架純 目黒蓮

 

 まずは映画を観始める。

 

 妻梢(こずえ・柴咲コウ)と高3の娘瑠璃(るり・菊池日菜子)という、最愛の家族を交通事故で喪った小山内堅(つよし・大泉洋)は、都内の大手企業を辞して故郷の八戸に戻り、ひっそりと暮らしている。

 そこへ、亡妻の同級生の弟だという三角哲彦(目黒蓮)が現れ、亡くなった娘小山内瑠璃は、自分が愛した女性正木瑠璃(有村架純)の生まれ変わりだと話す――。

 

 そして語られる、若かりし三角と正木瑠璃の切ない恋のゆくえ。

 しかし、その結末は悲しい。

 

 そして、娘瑠璃の不可解な行動が暗示する、「生まれ変わり」の奇跡――。

 

月の満ち欠け

 

 映画を途中まで観て中断し、原作を開いた。

 佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波文庫的 2019)。

 

 装丁はどう見ても岩波文庫であり、表紙のイラストもいかにも岩波文庫の海外文学を思わせる。

 しかし、よく見ると「岩波文庫」とある。

 格式ある岩波文庫には入れてもらえない(?)が、この体裁で出したい。

 それは佐藤正午の発案か。

 

  

 読み始めると、いつのまにか物語の展開から目が離せなくなり、どんどん引き込まれていく。
 登場人物の主観に入り込んで、その切なさ、願望、喜びを体感する。
 手練れの作家佐藤正午の仕掛けに満ちた物語構成、巧みなストーリーテリングに魅了される。
 
 それは確かだ。だが、しかし……。
 読み進み、とくに後半に至って、私にはどうしようもなく募ってくる違和感があった。
  
 死によって引き裂かれた愛する者たちも、生まれ変わっていつかまた出会う。
 そのイメージは、逃れられない死別の悲しみに苦しむ私たちに、一服の癒しとなる。
 だから、「生まれ変わり」のファンタジーは、くり返し描かれるのだ。
 
 だが、この物語の「生まれ変わり」は、あまりにも短期間で起こりすぎる。
 するとSFで、コールドスリープ(冷凍睡眠)による遠い宇宙旅行から戻った若い女が、地球上で年老いた恋人と対面するような、奇妙な話になる。
 しかし、再会の場面は描かれることなく、読者の想像に任されている。
 
 また、「前世を記憶する子どもたち」は確かにいるが、前世の記憶をリアルな自分の記憶と感じ、今の自分の肉体の中でその未練を晴らしたいと願って生きているとすると、「今の人生」はいったい何なのか。
 本人の中のその葛藤は、まったく描かれていない。
 
 そんな疑問が湧いてくると、このファンタジーに酔うことはもはやできない。
 その点が、この小説の評価の分かれるところだと思う。
 
 そんな思いを抱えつつ、小説を読む体験自体はとても楽しかった。
 そして、映画の残りを観た。

月の満ち欠け

 
 
 脚本は、原作の複雑な構成をうまく整理し、シンプルにまとめている。
 
 いくつもの証拠を目のあたりにしても、「生まれ変わり」を受け入れられない小山内堅(大泉洋)の戸惑いは、多くの人の正直な反応であろう。
 その側に留まるか、事実を受け入れ、小山内を微笑んで見守る側にジャンプするかで、この映画の楽しみは180°違ってくる。
 
 有村架純と目黒連の恋愛シーンがあまりに純粋で切なく、胸を締めつける。
 そこに思いを寄せて観ることが、この映画を楽しむ秘訣かもしれない。
 
 そしてもうひとつ。
 生前、小山内を深く愛し、いつも大きな愛で包んくれた梢(柴咲コウ)の笑顔を、しっかり記憶に刻んでおこう。
 
 これは「生まれ変わり」の物語というより、深い愛のファンタジーなのだ。