新型コロナウィルスに関しては、特効薬やワクチンがない現状では人の往来を制限するしかない。海外の例を見るまでもない。

更に、東京の状況が「オーバーシュート」直前の状態であることは誰の目にも明らか。

となれば首都圏での「ロックダウン」は必然。

 

昨日今日で、

 

『緊急事態宣言は今日か明日。ロックダウンは3/31か4/1から開始で21日間(3週間)。
ロック範囲は今日、明日の緊急会議で検討。
東京都、埼玉、神奈川、千葉などの関東地区が主軸、大阪、名古屋も議題に。
確実に停止する道路などはいくつか決定。

流通を止めない為に、流通業者などは許可書を発行。』

 

と言うまことしやかなデマが拡散されている。

 

『テレビ局のプロデューサーからの情報なので、・・・。』

『大切な人に回して下さい』

 

などのお決まりの文句付き。それだけで怪しい。

 

『確実に停止する道路』や『流通業者などは許可書を発行』などから、他国の「ロックダウン」の状況を見ての作り話なのは明らか。

「日本の緊急事態宣言に法的強制力は無い」のだからこんなことは起こり得ない。

(これを書いている間に、政府が正式にこのデマを否定した。)

 

とは言え、上記の状況から多くの人が信じて拡散してしまう心理はわからないでもない(流通の危機感を煽る行為は許せないが)。

医師会までもが「緊急事態宣言を出すべき」と言っているのだから、このデマは、政府の対応の遅さに業を煮やしての催促、もしくは覚悟とも取れなくはない。

 

「経済のことを考えると・・・・」等とやらない理由を作るのが得意な輩がいるが、一旦「オーバーシュート」してしまったら、その時点での経済損失は、現時点でのそれの比ではない。

良識ある国民は分かっている。

 

 

以前ブログでも紹介したことの有る『サピエンス全史』著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、「コロナ危機後の世界」を予測して、「フィナンシャル・タイムズ」への緊急寄稿した記事が面白い。(https://courrier.jp/news/archives/195233/?ate_cookie=1585524379)もしくは(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57374690Y0A320C2000000/

 

詳細は読んで頂くとして、あんなにも悲惨な状態だった武漢が新型コロナからあんなに早く立ち直れたのは、中国が自由のない共産主義で、且つプライバシーの無い監視社会だったからなのは間違いない。

欧米諸国の惨状を見れば、自由を謳歌し、人権尊重を叫んでいた国々が、なりふり構わず戒厳令並みの対応を取るのも頷ける。

長い戦いの末に新型コロナが終息したとしても、その自由とプライバシーを犠牲にした社会制度は残ってしまう可能性が高い、というのがハラリ氏の危惧だ。

 

日本の現状は、検査数の問題は有るにしても死亡者数からしても、イタリア・スペイン・フランス・アメリカなどに比べればマシなように見える。

かと言って、これらの国々で実施されているような自由に対する制限はされていない。あくまで「要請ベース」で、国としては「緊急事態宣言」すらしていない。

「要請ベース」でも従う民族だから?

(『「日本(やまと)民族の存亡」と「いじめ」』参照)

 

それで新型コロナとの戦いに打ち勝てるなら、ハラリ氏の危惧は日本には当てはまらないことになる。

それなら良いのだが、一方で、外出自粛と言われても能天気に外出する民度(知的理解力)の低い輩がいる。

若者だけではない。老人の自覚のない老人もだ。

どちらにしても法的強制力のない「緊急事態宣言」ぐらいはして、こういう輩を一人でも減らすことは必要だろう。

 

私が危惧するのは、日本だけが幸運にも「要請ベース」で乗り切った一方で、他国が自由とプライバシーをかなぐり捨ててこの難局を乗り切った挙げ句に、ハラリ氏の危惧が現実化した時に、日本はこうした国々と戦っていかねばならなくなると言うことだ。

あたかも、周りを見渡したら中国と北朝鮮だらけ、と言う状態だ。

 

杞憂に終わることを祈っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

今週末の外出自粛の駆け込みというわけではないが、家内から「感染に影響のない車窓からの花見」の誘いがあった。

翌日から入院予定だった病院で、新型コロナの院内感染が出たために入院を延期したことも有り、二つ返事で出掛けた。

天気が今ひとつだったがどの木もほぼ満開。

行き先は近所の桜のトンネルの名所。

 

 

 

 

 

趣味で40年以上続けてきた一眼レフは、その重さと指先操作の困難さとで諦めるに至って久しい。

家電量販店に行くたびに不自由になった指先でも操作のできるカメラはないかと探すのが虚しい。

基本的にマニュアル操作で思いのままの写真が撮れないカメラに興味はないが、マニュアル操作には指先の繊細なタッチが必須だからだ。

そもそも左手一本でカメラ本体を支える力がないのだから、所詮無理な話なのは頭では理解している。

スマホなら全てがオートだから簡単と思っても、シャッターが微妙なところにあるため、薄い本体を保持しながらの操作は難しい。

それでなくても体幹を思ったところに維持しながら腕を上げて狙った画角を保つのが困難で、うめき声を挙げながらやっとの思い出シャッターを押す。

これもいつまで出来ることやら。

 

昨年は抗癌剤治療の直前にNHKのインタビューや撮影を兼ねての花見だったことを思い出した。

 

 

 

 

 

 

長らく抱いていた疑問。

それは、

 

『何故、性善説社会の日本(やまと)民族が、地球上で生き延びて来れたのか?』

 

性善説社会の民族が性悪説社会の民族に勝てるわけが無い(少なくても個としては)のに、日本(やまと)民族が今日まで生き延びられた理由が知りたい、ということである。

 

日本(やまと)民族は、島国という立地故に、典型的な、そして世界でも稀有で純粋培養的な「性善説社会」を形成した。

それに対する極端な「性悪説社会」なのがアラブ遊牧民。

他の民族は、日本(やまと)民族とアラブ遊牧民の間の何処かに位置する。

 

そのことは、歴史背景も文化も生活環境も極端に違う極限の民族とも、生活を共にすることで最後には分かり合い信頼関係を築けた、と言う感動のルポルタージュ(「カナダエスキモー」および「ニューギニア高地人」)で有名になった本多勝一氏が、それらの成功体験を引っさげて新たな極限の民族に挑んだ「アラビア遊牧民」の中にも記されている。

ここで本多勝一は手痛い挫折を経験することになる。

その失意を、(無理やり?)日本人の特殊性の発見と位置づけて、極限の民族に対するボロクソな批判(悪口?)と共に綴った1冊となってしまった。

 

アラブの大学に2年間留学していた経験のある私にはよく理解できる。

「悪く見える瞬間が有っても人間の本質は善良(性善説)」と考えている人と、「人間の本質は悪。良く見える時は何かを企んでいる(性悪説)」と考えている人とが、分かり合えるはずがないことが。

性悪説側が性善説側に良くしようと接するのは、例外なく何らかの悪企みを持っている時で、性善説側が性悪説側に少しでも近づくために相手に良くしようと思えば思うほど、性悪説側は疑心暗鬼になるのだから取り付く島がない。

 

(ご興味をお持ちの方は以下投稿もご参照下さい。)

・アラブ の対局にある 日本

ベドウィンの誇り

アラブとの対比に思うこと

 

個人対個人の戦いを想定すると、どう考えても性善説側に勝ち目はない。

何故なら、常に相手を疑うことを是として、心のなかに(時には物理的にも)ナイフを秘めた相手に対して、精神的にも物理的にも丸腰で無防備に戦いを挑むのと同じだから。

それと分かりつつ性悪説一辺倒の相手と戦うならまだ手段もあろうが、性善説のふりをして信頼を勝ち取った後に性悪説の牙をむく、そして個々人が拳銃を所有しているような民族に対しては勝ち目がない。

 

前述の私の疑問は、こうした背景の中で、

『そんな純粋培養的な性善説社会にどっぷり浸っていた日本(やまと)民族が、日本よりも性悪説的な国々ばかりの地球上でどうやって生き延びて来れたのか?』

ということ。

 

「集団(組織)」がキーワードだと考えていたが、その科学的裏付けがこの本の中にあった。

 

 

『「シャーデンフロイデ」とは、他人を引きずり下ろしたときに生まれる快感のこと。成功者のちょっとした失敗をネット上で糾弾し、喜びに浸る。実はこの行動の根幹には、脳内物質「オキシトシン」が深く関わっている。オキシトシンは、母子間など、人と人との愛着を形成するために欠かせない脳内ホルモンだが、最新の研究では「妬み」感情も高めてしまうことがわかってきた。なぜ人間は一見、非生産的に思える「妬み」という感情を他人に覚え、その不幸を喜ぶのか。現代社会が抱える病理の象徴「シャーデンフロイデ」の正体を解き明かす。』

(本書裏表紙から転用)

 

著者は脳科学者の中野信子氏。

 

「愛情」が脳内物質の分泌で説明がつく、という著者の主張は何とも味気ない話だが、そう考えると納得できる部分もある。

詳しいことは本書を読んでいただくとして、子宮頚部への刺激や射精によって分泌が促されるとされる脳内物質「オキシトシン」は、「幸せホルモン」とも「絆ホルモン」とも呼ばれ、人間同士の信頼関係を構築するために必要な脳内物質なのだそうだ。

 

肉体的に恵まれていなかった人類が他の動物にジャングルから追い払われて、平原で巨大生物との戦いを制して生き残れたのは、集団の力のおかげと言うのは定説である。

それを助けたのが「オキシトシン」の働きだという。

 

更に、肉体的に圧倒的に勝っていたネアンデルタール人が肉体的に劣るホモサピエンスに淘汰されたのは、ホモサピエンスがより集団行動に秀でていたからと言われている。

即ち、「オキシトシン」の働きがより活発なDNAが生き残った、と考えられる。

 

日本(やまと)民族は、多民族より「オキシトシン」の分泌が多いDNAを持っていたことと、恵まれた自然環境を要因として、他人との信頼関係を築き易く、それ故に集団を形成し易い、性善説社会を構築したと思われるが、それだけでは弱点にもなりうる。

忘れてならないのは、集団を保つための優れた制度を確立していたことだろう。

 

集団を保つためには内部崩壊を避けなければならない。

内部崩壊を避けるためには、その集団固有の秩序の形成と保守の仕組みが必要で、現在も残っている典型が官僚制度だ。

 

官僚が所属する組織の維持しか考えていないのは改めて言うまでもない。
官僚の優先順位は、① 組織の存続、② 利権(≒予算)の確保・拡大、③ 天下り先の確保・拡大、で、それらに対する貢献度によって在任中も退任後も人生が180°変わる。

時にはそれらに命すらも賭けるが、本来尽くすべき納税者のことなど歯牙にも掛けない。

上の言うことは絶対で、パワハラが当たり前の世界。

 

官僚に限らず、一般企業でも、仕事上は大した実績も上げていないのに出世する輩が大勢いる。

大抵は上司に媚びへつらうだけが取り柄のような輩で部下からは軽蔑されている。

だが、見方を変えると上意下達こそが組織維持の要とも言えるから、その観点から言うと当然の人事ということになる。

 

集団を維持するために必要なことは、集団を内部崩壊させる可能性のある異端児候補が顕在化する前に排除することである。

出る杭は打たれる。誰かが突出した活躍をすると、必ず大したこともしていない誰かが足を引っ張る。

企業などで下手に手柄を立てて発言力を持っている異端児には、その組織内での出世の目は無いのである。

コロナの女王と言われる岡田女子が突然叩かれ始めているのもこの一環だろう。

ホリエモンを始めとしてその犠牲になった人は数え切れない。

半沢直樹など、実在し得ないからこそドラマになるのだ。

 

もう一つ集団を崩壊させないために必要なことは、集団の構成員に公平感をもたせておくことであり、能力の差はさておいて自分だけが割りを食っているとか、誰かだけが得をしているとか言うことが無いようにすることである。

それを達成しようとすると、低い方にレベルを合わせる悪平等と、損得帰属情報の隠蔽が発生する。

この結果、優秀な人材が育ち難い上に、仮に育っても集団には居辛いために国外に流出してしまう。

 

本書では、自分自身で意思決定したいと考えている人が、ヨーロッパでは60%近くなのに対して日本人では僅かに27%しか居ない、と指摘している。これにはドーパミンが深く関与しているようなのだが、説明は本書に譲るとして、自らの意思ではなく集団の指導者の意思に従うことで集団を維持し易くするDNAの所持者が日本人には多い、と言うことでそれが日本に集団の秩序を根付かせた。

従順で盲目的な秩序の特性は、新型コロナウィルス対策にも効果的かも知れない。

 

更に、集団の正義をかざした人間がどれほど冷酷な攻撃者に変貌するか、それも自らの意思を持たない人間の方が極端であることの実験結果が提示されている。

宗教が戦争を生み出す数々の歴史的な事実や、過激なネットバッシングなどを引き合いに出すまでもなく、実感に近い実験結果である。

 

「村八分」、「村十分」、「出る杭は打つ」、「平等」、など集団の秩序を守るための制度が、「いじめ」、「(ネット)集団バッシング」、「出る杭は打たれる」、「悪平等」、「隠蔽体質」、等の副作用と思しき事態を生んでいる状態は、

 

『「シャーデンフロイデ」自体は忌むべき感情だが、それが人類が生き延びるための副産物だったとは皮肉である。』

 

との本書の趣旨と符合してしまう。

 

さて、これまではこうして生き延びてきた日本(やまと)民族だが、これからも同じやり方で生き延びられるとは限らない。

また、副作用のデメリットが、情報技術の進化にも後押しされて、メリットよりも大きくなってきているような気もする。

数十万年を掛けて人類が培ってきたDNA特性を短期間に変えられるとは思わないが、DNAの呪縛から理性で逃れることは出来るかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事は、2020年1月25日に「アメンバー限定公開」として投稿したものを、「全員に公開」するものである。

 

 

「不幸」とは、

 

① (稲作などにより)食物を保管できるようになって財産およびそれらの所有と言う概念が生まれたこと

② それに伴って「幸福(財産)量比較」が出来るようになったこと

 

によって発生した相対的な概念である。そして情報伝達速度や拡散方法の進化とともに、比較の対象で無かった人たちまでがまたたく間に比較の対象になっていった。知らなければ不幸も感じなかったのに。

幸福量は財産の量だけで決まるものではないが、年齢/ジェンダー/家族構成などの幸福量構成要素も全て比較の対象となり得るのは同じ。

 

自然(異性すらも)が特定個人の所有の対象物では無かった頃には、「不幸(例えば飢餓のような)」は「死」と同様に誰の身にも平等に訪れる、もしくは抗いようの無い絶対的なものであった。

少なくとも身近には平等に訪れる飢餓を逃れ得る者の存在はなく、比較の産物である相対的な概念としての「不幸」は存在し得なかった。

 

「幸福量比較」の始末に負えないところは、自分の「不幸」が際限なくなってしまう点である。

上を見れば切りが無いし、常に隣の芝は実際より青く見えるものと決まっているのだから。

『世界の最富裕層2153人が、最貧困層46億人(世界人口の60%超)よりも多くの財産を保有』している世の中で、資本主義が格差を元に富の一極集中を図り、その集中度合いのみで「成長」を量る仕組である限り、その格差は広がるばかりである。勿論日本も例外ではない。

「幸福量比較」は誰の役にも立たず、ただ「不幸」だけを増幅させる。

 

 

一方で、「幸福量比較」と対極をなす「不幸量比較」は一時の心の安らぎを与えてくれる。

 

「不幸量比較」にも意味はない。

それも相対的なものでしか無いから。

 

しかし、自分よりも不幸な人がいると思うことで一時でも気が休まるならそれも良いかも知れない。

妄想するだけで人に迷惑をかけるわけでもない。

 

私は、神経難病(同時に悪性リンパ腫も)を患って以来、事あるごとに「自分は未だマシだ」と思うことにしている。

何よりマシか?

即死(特に若い方の)ケースより、である。

 

事故や心筋梗塞などで突然亡くなる方は大勢いらっしゃる。

人生を振り返ることが出来ない、自分自身や残される者のために準備する暇も無い。

さぞや心残りだろう。

残された者も同様、心構えができない。

 

それに比べて、自分は、波乱万丈の小説のような充実した人生を堪能した上に、そんな人生を終わらせるための猶予期間を与えられた、と考えると、「自分は未だマシ」と思えるのである。

 

皆死ぬことは分かっているのだから誰もが準備は出来るのだが、人間は突き詰められるまで気が付かない、もしくは嫌なことからは目を背けようとする愚かな存在なのである。

 

年齢のせいか、最近癌で闘病する知人が増えた。

中には、大げさに悲観して、「自分が世の中で一番不幸オーラ」を発する仲間もいる。

 

私の不幸量比較に於いて、癌は対象外である。

何故なら、(神経難病との比較において)癌は不幸でも何でも無いからだ。

 

その理由は、

 

・癌には治療方法が有るし、新たな治療法が日に日に進化しており、最早不治の病ではない。(例外は有るが、神経難病は例外なく治療法が無い)

・癌は神経難病のように身体機能を奪わない。(亡くなる一月前までは元気にゴルフをしていた、などという話は枚挙に暇がない。ほんの一部の例外を除いて、ギリギリまで会話を含めたコミュニケーションの一切が出来なくなることもない)

・最終的には、緩和ケアという治療法が確立している。(神経難病の精神的・肉体的苦痛に緩和ケアと言う概念は無い)

 

だからである。

 

こんなことをいくら書いても自分自身の気休めにはならないのだが、癌で闘病中の仲間へのエールのつもりで書いている。

私も癌患者だから、この程度のことは書いても許されるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

ゆうきちさん

 

今年も駒沢公園の梅が咲きました。

 

 

もっと早く報告しようと思っていたのですが、屋外での歩行が厳しくなってきており、また今年は異常な暖冬だったこともあり、盛りも過ぎた今になってしまいました。

 

 

一昨年の今頃、優しいご主人様とウチの家内とこの梅の下でご一緒したことを懐かしく思い出します。

咲いたのは、梅よりもゆうきちさんと家内の弾丸トークの花でしたが・・・・。(駒沢公園 梅林

 

昨年は待ち合わせをしたものの、寒さで開花が遅れたために延期したきりになってしまい、何でもやれる時にやっておかないと後悔することを思い知らされました。(梅便り

 

今日は少し肌寒い一日で足が動くかどうか不安だったのですが、「ゆうきちさんを偲びに思い出の梅を見に行こう!」との家内の言葉に背中を押されて出掛けました。

歩けなくなった時のために家内が横を電動車椅子で伴走してくれる中、久しぶりの屋外歩行でしたが、ずっとゆうきちさんのことを考えながら歩いたからか、予想に反して梅林まで歩けました。

きっとゆうきちさんが力を貸してくれたのでしょう。

 

ゆうきちさんも空の上からご覧になっているでしょうか?

 

 

 

 

 

 

♪飾りじゃないのよ涙は♫

 

言わずと知れた中森明菜の大ヒット曲。

 

 

先日某TV番組でこの歌を作詞作曲した井上陽水が歌っているのを見て、ふと思った。

 

ドラマやスポーツ・ドキュメンタリーの安っぽいお涙頂戴シーンでも、ことごとく涙が止まらなくなる、感情のコントロールの利かない私が、

病いのことでは、 

 

♪私は泣いたことが無い♫

 

泣いても事態が好転しない以上、私にとっては如何に残された時間を充実させるかの方が重要で、泣いている暇など無かった。

治療方法の無い病による余命のカウントダウンと、何より身体能力のカウントダウンが始まったのだから。

 

そのほんの一部を記したのが以下のブログ。

 

余生の充実度は想像(推測)力と段取り次第

仕事

やりたいこと vs やれること その1 ゴルフ・テニス編

やりたいこと vs やれること その2 音響環境改善編

知っておくべき情報

支援体制 感謝、感謝、また感謝

いかに肉体を乗りこなすか

「QOL維持大作戦」 ~2018年9月~

「QOL維持大作戦」~屋外移動編~

「QOL維持大作戦」~屋内移動編~

「QOL維持大作戦」~住居選び編~

「QOL維持大作戦」~こだわりのリフォーム編 その1~

「QOL維持大作戦」~こだわりのリフォーム編 その2~

「QOL維持大作戦」~こだわりのリフォーム編 その3~

 

これらの他にも「便利/お助けグッズ」と言うテーマに書き込んだ諸々のグッズや、電動車椅子の試行錯誤など、目に見える身体能力の喪失により出来ることの質と量が日に日に低下していく中、超多忙を極めた。

 

この10年の間に入院は6度、延べ約半年。

その過程で癌も見つかった。

 

最近の5年間で購入した不動産は5件、売りに出した不動産は3件、実際に足を運んだ物件の数だけでも数十件。

マーケット・リサーチのためにPCに張り付いた時間は優に千時間を超えているに違いない。

今週も譲渡契約が1件、賃貸借契約が1件予定されている。

趣味と実益を兼ねた行いだから苦にはならないが、とんでもなく時間は食う。

自社の売却には3年余りを費やし、交渉相手は10社をくだらなかった。

 

この間も病状の改善を諦めていたわけではない。

 

藁をも掴む

 

そんなこんなで泣いている暇など皆無で、

 

♫私泣いたりするのは違うと感じてた♬

 

 

 

 

 

でも、いつか

 

♪世界が変わる時、私泣いたりする・・・・♫

 

日が来るのだろうか?