オレって、飽き性なんだろうか…?


仙道はぼんやりと海に釣り糸を垂れながら、そう考えていた。


確かにこれまで、長く続いた試しのあったものを数える方がかなり早い。


オモチャも、習い事も、どれも途中で熱が冷めるのだ。




その中でも続いているものは、


今やっている釣りと、小学生の時からやっているバスケット、そして現在進行形の片想い

…ぐらいなものだろうか。




何にでも、興味は持つのだ。


ただ、すぐにそれをすぐにやめてしまうからなのかもしれない。


でも、それは仙道的にも理由がある。


自分の中では、それを納得いくまでやり尽くし、その結果がすぐに出たからやめただけの話であって、


飽き性ではない、と思いたいのだが…。





『オマエって、飽き性だからなぁ…』


呆れたようにそう笑った、越野の顔が浮かぶ。


冗談のように相談した、恋をしている相手に、自分の恋のそれを。


『きっとオマエ、彼女の全てを知り尽くしたらさ、飽きちゃうんだよ。いつもみたいに』


だったら、やめとけよ、と越野は急に真剣なまなざしになってそう云った。


相手が傷つくだけだから、それならいっそ何もしないほうがいいと。




飽きてしまうのだろうか、越野が云うように。


かれこれ2年近くも一番近くにいて、ずっとこんな切ない想いを抱いていて、

実は何も知らない彼のことも。


手に入れて、知り尽くしたら…飽きてしまうのだろうか?




ぴくん、と釣り糸が動いた。


この当たりだと、鯵だろう。


ゆっくりとリールを巻きながら、仙道はふと思う。





いや、違う。


どんなに好きになったことでも、半年が限界だったのだ。


バスケと、釣り以外は。




それが、もう2年近くも続いているのであれば、


きっとこの想いは…飽きることなく続くのだろう。




吊り上げた鯵を手に仙道はニッとひとつ笑うと、

釣り針からその跳ねる魚を外し、そっと海へと帰した。






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5月5日。


今日の誕生花は、アルストロメリア。


花言葉は、『持続』


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「越野ぉ~、コレあげる」


「マジ?すっげ~嬉しい!!これでコンプリート!!」


クラスの女子から何やら貰ったらしい越野は、スキップを踏みそうな勢いで自分の席へと戻ってきた。


「…何、貰ったの?」


仙道は気が気ではない。


大事な恋人がオンナノコから何かものを貰って大喜びしているのだから。


如何せん、男同士の恋愛だ。


オンナノコが相手となると、分が悪いのは確かだ。


「…ヒミツ」


掌で隠れるそれを、越野は大事そうに握り締めている。


「見せろよ」


「い・や・だ」


イ~っと歯を見せてそういう越野に、仙道はつかみかかりそうな勢いで近寄るとその手を握る。


「うわ~、ヤメろって、壊れるからッ!!」


「ねぇ、越野。オレにも見せられないものなの?」


凶悪なまなざしで仙道は越野を見つめる。



それほど、隠したいものなの?


そんなに、大事なものなの?


なら、いっそ壊してしまおうか?



ニッコリ、と笑うと、仙道は握った手に力を込めた。


『♪勇気の鈴がりんりんりん~ 不思議な冒険るんるんるん~♪』


その途端、音楽が聞こえ出す。


なんとなく聞き覚えのあるその音に、何だろう、と仙道は首を傾げる。


「あぁぁ~」


がっくり、とうなだれて、降参したらしい越野が、ようやく掌を開く。


掌に乗っている、二頭身のパンの形をしたキャラクターは、さすがの仙道にも見覚えのあるものだった。


「………好きなんだよ」


ムッとした顔でそう言う越野を見ながら、仙道はその普段は下がっている目をさらに下げて小さく笑った。




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5月4日。


今日の誕生花は、タイム。


花言葉は、『勇気』


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書きあぐねていた手紙からペンを離すと、牧は傍らで眠る藤真の顔を見やった。



出逢った中学時代と変わらないあどけない表情を見せ、

静かな寝息を立てているその顔を見ると安心するようになって随分と経つ。



少し疲れた様子なのは、自分のせいに他ならない。



そっとその髪を撫でると、サラサラの感触が指の間をすり抜け、そして消えていく。



それはまるで自分の今を物語っているかのようで、牧は小さく吐息を漏らす。







突然、やってきたそれ。



それは最近、記憶力がなくなってきたと思った事から始まった。



疲れがたまっているのだろう、と思って放っておいたが、


だんだん手帳が手放せない状態になり、


それでも突然意識が混沌としていくことに不安を感じていた。





そんな時に、二人でいる時にふと見ていたテレビドラマの話は、まさに今の自分の状態に似ていて…。



藤真に尋ねた、お前ならどうするか、と。



きれいさっぱり全てを忘れる、と笑って言った藤真。



藤真にとっては、まさにありえない話だと思っているのだろう。



口づけて離れていった濡れた藤真の唇が、自分と同じ質問を繰り返した。



辛かった。



忘れてしまいたくない記憶も、全て闇の彼方へと消えていく事実が。



『オレか…?例え他の全ての記憶を手放したとしても、お前のことだけは忘れんぞ』



牧は小さくそう呟くしかなかった。








翌日、さすがに病院にでも行ってみるか、と思った矢先に、練習中に倒れてそれが発覚した。



医者も言うのを躊躇った、それ。



やはり、悪い予感は当たっていたらしい。



発狂しそうになるくらいの感情を抑え込むのが精一杯だった。



徐々に近い記憶から順に、すべての記憶を失ってしまう病気。



今は記憶力がなくなった程度で済んでいるが、着実にそれは自分を蝕んでいくらしい。



自分は何も気づかないうちに。



そうして、忘れてしまうのだ。



大好きなバスケットも。



心の底から愛する人も。



自分を取り巻く、何もかもを。



そして、自分すらも。








ふと、机の上に並ぶ封書を見る。



退部届、両親に宛てた手紙、そしてまだ封をしていない書きかけの手紙。



全てを忘れないうちに。



まだ覚えているうちに。



今の自分を伝えておきたいから。







この先の感情は、もう覚えていることは皆無であるという。



ならば、今のこの気持ちを残しておかなければ、後悔してしまう気がして。



感情的には辛いものが勝っているが、それでも後悔はしたくないから。



藤真の髪から手を離すと、そっと額に口づけて牧はまたペンを手に取った。







『健司へ』



名前を書いたきり、止まっていたその手紙にペンを下ろす。




短い人生の間だったけれど、一番に愛した恋人に向かって。



自分がいなくなっても決して不幸にならないように。



倖せにずっと生きていけるように。



そんな切なる願いを込めて。



牧はゆっくりとそのペンを走らせはじめた。







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5月3日。



今日の誕生花は、宿根カスミソウ八重咲。



花言葉は、『切なる願い』



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ぴく、と越野の鼻が蠢いた。


独特の甘い臭いが鼻につく。


通学途中の満員電車の中でこの臭いはさすがに厳しい。


ともすれば倒れそうになりそうなその臭いに、歯を食いしばり目を閉じる。




最初にこの『臭い』に気づくようになったのは、幼稚園の頃だった。


元々、鼻がよかったのかもしれないが、越野は匂いにとても敏感だった。


そんなある日、母親がホットケーキも焼いていないのに、甘い匂いを発していたのだ。


『おかあさん、ボクにナイショでホットケーキたべたでしょ?』


『ヒロちゃんに黙って、お母さんが食べるわけないでしょ。どうして?』


『だって、おかあさんから、ホットケーキのにおいがするもん』


やさしく笑う母親の眉が曇ったことに、その頃の越野は気づかなかった。


そして、ホットケーキを焼いた匂いが何日か続いた後、母親は交通事故で死んだ。




それから幾度もその臭いを嗅ぎ、その臭いを発した人が死ぬ、ということが自分の中で確証したのは、中学生の時だった。


小学生の頃までは、誰彼となくその臭いがしたわけではなく、むしろ自分に近い人からだけ臭っていたのが、どんどんと拡大されたせいだったからだ。


人はそれを死臭、とでもいうのかもしれない。


ただ、それは腐ったようなそれではなく、越野の鼻には未だにあの時の母親と同じ、ホットケーキが焼きあがったような、そんな甘い臭いが漂うのだ。


気づいて以来、甘いものは食べられなくなった。





ぷん、とその匂いが一段と強くなった。


朝からこの強い臭いを嗅ぐのは、相当な覚悟がいる。


目の前にいる誰かが、どんな形でかはわからないにしろ、死に至るのだから。


先日の帰り道に、小さな女の子からその臭いを感じた時はさすがに泣きそうになった。


だからといって、それを言える訳ではない。


言ったところで信じてもらえる訳でもないし、聞く耳ももたないだろう。


自分が近い将来死ぬなんていうこと。


聞きたくもない、死刑宣告みたいなものだ。


だから、母親以来誰にもその事は話していない。




「大丈夫、越野?」


ギュッとつり革を握り締め、固く目を閉じていた越野の耳に、聞き覚えのある声がした。


「…仙道…」


目を開き、声のした方を見ると、そこには心配そうな顔をした仙道と、

そして…頭の芯がグラグラするくらいの強さで甘いあの臭いがする。


…まさか。


昨日まで、仙道からはこの臭いはしなかった。


「顔色悪いよ、酔ったかな?でも、もうすぐ駅に着くから…少し休んでから行こうか」


違う、きっと。


この電車の中の、誰かの臭いで…仙道からの臭いじゃない。


「あぁ…そうだな…」


掠れた声でそう呟き、じっとりと濡れた掌でつり革を握りなおすと、越野は殊更固く瞳を閉じた。




でも、もし…そうだとしたら?


電車を降りても、尚、仙道からこの臭いがしたら?




早く電車が駅に到着してこの臭いから開放されたいと思いながら、

越野は降りることの恐怖がどんどんと胸に降りてくるのを感じていた。





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5月2日。


今日の誕生花は、スカビオザ。


花言葉は、『敏感』


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決してプレイスタイルは派手ではない。


むしろ、派手なプレイで魅せる牧の影で、ひっそりと艶やかに咲くそんなイメージが強い。




疲れ果て、眠り込んだ神の髪を撫でながら、ぼんやりと仙道は彼を見つめる。


それなのに、ベッドでは別人のようで。


控えめなそのプレイスタイルとは裏腹に、匂い立つその芳香はそれを知ってしまえば忘れられない。




はじめは、ただの好奇心の筈だったのに。


恋人がいるというのに、躯を重ねるこの関係はただの背徳でしかないというのに。



それでもいい、と少し寂しげに笑う彼。


そして恋人を想いながらも、仙道は彼から抜け出せないでいる。


まるで緩やかに回る毒のように。


その可憐な姿からは想像できないような、強い強い毒素で仙道を蝕んでいく。




そのうち、その毒は全身に廻り、そして堕ちていくのだろうか。


そして、その時自分はどうするのだろうか。




無防備に、そしてきっと無意識に仙道の胸に顔を摺り寄せる神の躯から香る甘い匂いで頭の芯がくらり、と揺らぎ、それを振り切るかのように仙道はゆっくりと瞳を閉じた。





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5月1日。


今日の誕生花は、スズラン。


花言葉は、『幸福の訪れ』


別名を、君影草。


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知って欲しいと思いながら、知られてしまいたくないというジレンマ。


感じ始めたのは、どのくらい前だっただろうか。




尊敬する先輩に対する想いが、それだけじゃないと気づいたのは早いうちだった。


男としての生理現象。


甘やかな夢の代償は、とんでもない後悔と後には引けない感情。


自分はノーマルじゃないんだ、と打ちのめされ、それでも想いは止まらなくて。



周りの女の子のように、簡単に語れる恋ではない。


むしろ、それは背徳に近い行為でしかない。


それでも、一度走り出した想いは止めることが出来ない。






自分と彼以外はもう誰も残っていないコート。


自分に課したシュート練習は既に終わっているけれど、彼がいるから帰れずにいる。


少しでも傍にいたくて。


想いが通じる訳では決してないけれど。


この二人だけの時間を、少しでも長く甘受していたくて。




まだいつものシュート練習をしていると思っている彼が、ふと神を見つめる視線を感じた。


その視線が熱くて、身体の芯が痺れて、集中力が途切れる。


両腕から放たれたボールが、リングから外れ、あらぬ方向に転がる。



「そろそろ、やめるか?」


そのボールを手に、牧が自分に近づいてくる。


滴る汗、その匂いが神を刺激する。



「そうですね…」


高鳴る心臓。


それは一概に練習のせいだけではなくて。


ポン、と叩かれた肩の掌の熱さに、そこから別の熱まで生まれてくるみたいで。



ふと、隣を見やれば、優しく笑う彼。


それは『後輩』としか、きっと見てはくれていない。


醜い自分の感情を知ったら、この優しい先輩はどうなるのだろうか。


ギリギリのジレンマが、また神を苛む。



どうしたら…



隣から漂う、彼の甘い匂いに頭の芯がグラグラする。


ともすれば、それだけで反応してしまいそうな自分。




隠し通すのも、限界に近いのかもしれない。


もしかしたら、もう気づかれているのかもしれない。




それでも…



ゆったりとした少し息の上がった低い声が、耳を掠める。


それだけで、あらぬ事を思ってしまう自分。




…それならばいっそ。



部室のロッカーの向こうから、衣擦れの音。


そっと、神は瞳を閉じる。


自分の醜い感情に蓋をするように。





それならば、いっその事…



「どうした、神?」


ふと瞳を開けば、心配そうに自分を見つめ、牧はその腕を伸ばしてくる。


それは、その緩やかな蓋を容易に開かせる。





そう、いっその事。



優しく頬に触れた牧の手を、自分の掌で包み込む。


少し驚いた表情をした牧の瞳が、ただ自分だけを映している。




…共に堕ちてしまえれば。



包み込んだその手に少し力を込め、神は真っ直ぐに牧を見つめた。






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4月30日。


今日の誕生花は、リナリア。


花言葉は、『私の恋を知ってください』


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寝ても、覚めても。


授業中でも、練習中でも。


メシ食ってても、風呂に入ってても。




「頭ン中が、ソイツで一杯だってどういう事なんだろうなぁ…」


ふとそう一人ごちた越野に、仙道は一言言い放った。


「そりゃあ、『惚れて』るんだろ?フツーに」


「やっぱ、そうか」


慌てると思いきや、あっさりと納得した越野に仙道は小さく笑った。


意外に土壇場の場面では、仙道以上に肝が据わっているのが越野だ。


こりゃあ、相手は大変だ。


猪突猛進。

これと決めたらまっしぐら、だからなぁ…。


そう考えながら、仙道はドラムバッグに無造作にTシャツを突っ込む。


「…で、そんなに熱烈に恋した相手は誰?オレも知ってる人?」


当然、気にならなくはない。


親友として、かれこれ2年。


ワイ談もフツーに交わし、かと言って色恋沙汰には全く興味を示していなかった越野のこの発言だ。


好奇心がない、といえば、それはそれで嘘になるだろう。


「うん、めちゃくちゃ知ってるヤツだぜ」


迷いが吹っ切れたような、満面の笑み。


誰だか当ててみろ、といわんばかりに、仙道を見つめている。


「…え~っと、サヤカちゃん?」


同じクラスで一番越野と仲がいい少女の名前を挙げてみる。


「ハズレ。アイツとはそ~ゆ~仲じゃなくて、悪友ってカンジ?」



「じゃあ、リホちゃん?」


「またハズレ。アイツは天敵に近いな…うん」


女バスで一番仲のいい少女の名前も、違うらしい。



「そしたら…カンナちゃん?」


「またまた、ハズレ。まぁ、あのダイナマイトバディにはいつも目が釘付けだけどな…オレの下半身も」

ゲラゲラと笑いながら、越野はそう答える。


越野が『ヤるなら、あんなのがいいよな』と言っていた少女の名前も、違っていた。



次々と思いつく少女の名前を挙げてみる。

だが、どれ一人として正解に当たらない。


「………一体、誰?」


最後の一人も、違うと云われた。

仙道はさすがに頭を抱えた。


仙道のその様子にしてやったり、な表情の越野が、仙道のその言葉にふいに真剣な眼差しで仙道を見つめた。


「…知りたい?」


「あぁ、とっても」


お手上げ、というように両手を上げる仙道に、ニヤッと一つ笑うと、越野は仙道のシャツの胸倉を掴むと自分の方へと引き寄せた。


そして、その唇が攫うように仙道の唇を掠めていった。


「……こ、越野………?」


「正解は、コチラ。陵南高校のエースガード、越野宏明クンの熱烈な恋のお相手は、陵南高校期待のエース、仙道彰くんでした~」


おどけるように越野はそう言うと、ニッコリ笑ってまた顔を近づける。


熱い吐息が触れそうなくらい間近な距離で、これ以上もない情熱的な表情を見せる。


「オマエも知っての通り、オレはしつこいからな。覚悟しろよ?」


親友だと思っていたオトコからの、突然の告白に、仙道はただ呆然とその怖いくらいに綺麗な笑顔を見つめるしかなかった。








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4月29日。


今日の誕生花は、バラ。


花言葉は、『熱烈な恋』


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知ってしまった感情は、もうないことにはできない。





見つめる先には、見知った長身。


ただその隣には、可憐な少女。





『紹介するよ、神崎さん』

照れたように見せるその表情は、今まで自分は見たことがなくて。

眩しくて、羨ましくて、親友として、祝福した。

チクリ、と刺した胸の痛みが何かはその時は気づかなかった。



インハイ予選の後、全国大会への切符を手に入れる事が出来ず、集合だからと一人体育館の裏に行った彼を迎えに行って目撃した。


優しくいたわるように抱きしめる彼女。

甘んじて受け入れる、見知った長身。


耳元でそっと何かを囁き、その唇で彼の唇を攫った少女。




ズキン、と突き刺さった胸への痛みを、理解出来た時には、既に何もかもが遅くて。






気づかない振りをしていた。



この小さな恋は、誰にも気づかれてはいけなかったから。







だから、この先も。



気づいたけれど、見なかった事にして。


蓋をして、誰にも判らないように。


恋した相手すら気づかない、小さな、小さな感情なのだから。




でも…誰もいない時なら。


少しづつ遠くなる長身が視界の中で少しずつ滲んでぼやけていく。


逆光で見えないが、きっと甘やかな表情で、あの少し低めの声で優しく言葉を交わしているのだろう。


それが、自分なら。


それなら、この小さな恋も報われるのに。




「…好きだ…仙道…」



小さな呟きは、夕焼けに霞んで。

…そしてその長身と共に消えた。





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4月28日。


今日の誕生花は、サファリプテラム。


花言葉は、『小さな恋』


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「来いよ、仙道」


優雅に指を伸ばし、まるで勝負を仕掛けるような仕草でオレを誘う。

バスケをしている時の高潔さは、そんな時も全く変わらない。


掻き抱く髪には、知らないオトコの匂い。

本命はいるクセに、それでも他のオトコに抱かれるこの人の本心が全く読めない。


オレも『他のオトコ』の一人。

この人にとって、本命以外は淋しさを紛らわす為のオモチャに過ぎない。

オモチャにだって、心があることを、この人は見ない振りをする。


唇を合わせる。

耳元で『アイシテル』と囁いてみる。

感じる耳の裏をベロリ、と舌で舐め上げると、鼻にかかった甘い声を洩らす。

腹に当たる欲望の証が、緩やかに反応してくる。


上気した肌から、甘い匂い。

グラグラするくらいに痺れるそれは、オレの欲望の導火線に簡単に火をつける。

噛み付くように胸元に口づければ、『アトは残すなよ』と甘い吐息の中で棘のある言葉で釘を刺す。





どこまで行けば、この想いは報われる?





どんなに優しく抱いても、


どんなに激しく抱いても、


それでも、この人は本命が一言いいさえすれば、きっと全てのオモチャを簡単に手放すのだろう。




たった、一言。


『アイシテル』…と。




云ってもらえないジレンマの狭間で、この人はオモチャを弄ぶ。


報われない恋を持て余して、ほんの戯れに。





だったら、いっそ…オレが壊してしまおうか?





快感で打ち震える脚の付け根に顔を寄せる。

咽返る程の欲望の甘い匂いが漂うそこ。


本人は快楽に翻弄されて気づくはずもないから。

せめて、この高潔な彼を貶めてしまえれば。



気づくことのないように、欲望の中心を弄ぶ。



そうしながら、オレはその白い肌に所有の証をつける。

白い肌に映える、真っ赤な情愛の証。

それはこんな事をしなければ、誰にも見えない背徳の印。



壊れてしまえばいい。

そうすれば、何かが変わるに違いない。




この人の変わらない高潔さも。


オレの醜いこの嫉妬も。


本命の疑いのない愛情も。




突き動かすたびに揺れる、赤い印。

コレが何かを変える日はくるのだろうか…。




「…来いよ…オマエももう…限界だろ?」

そう呟き強請る様に揺れた腰を掴み、オレは一気に突き上げた。





オモチャは、いつまでもオモチャなんかじゃ、いられない…。




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4月27日。


今日の誕生花は、クレマチス。


花言葉は、『高潔』


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「おはよう、美咲」


起き抜けのパジャマ姿の娘の顔を見ながら、仙道は愛用のライカを構えて一枚シャッターを切る。


慣れた様子の娘は、いつもの調子で笑う。


この言葉も、こんな行動も、今日で最後になるかと思えば切なくなる。


「おはよう、パパ。お父さんは?」


「キッチンで朝飯作ってる。8時には出ないといけないだろう?」


顎で後姿の越野をしゃくると、そうだもんね、着替えてこなきゃ、お父さんはそういうの煩いから。と笑いながらそう云いながら、美咲はリビングを後にする。


その後姿に、もう一度カメラを構える。




どのくらい、娘の写真を撮っただろうか…。


戸籍上は恋人の越野の娘である、血が繋がった、たった一人の娘の姿を。


娘のおかげで、越野とのつながりは強固なものになった。


繋ぎとめていたい唯一の相手を、縛ることのできる法律はまだ日本にはない。


それを叶えてくれた娘。




でも、ただ、それだけじゃなくて。


愛おしくて、護りたくて。


自分を犠牲にしてまでもいい、そう思うことが出来るようになったのは、娘のおかげかもしれない。




母親である女を恨んだ時期もあった。


「女」であることの最大の武器で、自分と越野を引き裂こうとした女。


でも、今は感謝こそすれど、恨むこともなくなった。


最期はあの女も、娘に救われた『母親』だと判ったから。




ふと、越野を見やる。


いつものように忙しそうにキッチンで動き回る姿を見れば、運動会だ、遠足だ、と弁当を作る度に頭を悩ませていたあの頃をふと思い出す。


どんな想いをして、あの女から娘を引き取ったのか。


どうして、育てようと思ったのか。


それは触れてはいけない部分な気がして、一度も聞けずにいる。


ただ、聞かなくても判る気がする。


自分と同じであろうから。


その眼差しが優しいから。


昨夜の涙が、全てを物語っていたから。




「彰、美咲は?」


テーブルの上には、3人分の朝食。


それも、今日で最後だ。


泣きはらした目をしている越野にカメラを構えると、一枚シャッターを切る。


「そんな写真撮るなよ、悪趣味だな」


そう云って笑う越野の顔は、どこか淋しげで、思わず抱きしめてしまう。




「何、朝からいちゃついてるの?まったく…パパもお父さんも」


別れを告げる娘の姿は、白いワンピース。


どこかウエディングドレスに似ているような気がして、ギュッと胸が締め付けられる。


「美咲も間に入りたい?」


「もう、コドモじゃありませんから…なんてね」


抱きしめた腕を緩め、隙間を作るとその間に娘は入り込む。


抱きつく胸元は、越野で。


二人を抱きかかえるように、仙道は腕を伸ばす。


子供の頃に、二人で抱き合っていると、必ず「美咲も」と云って頬を膨らませたあの姿が、今の姿と重なる。


「お父さん…パパ…今まで…ありがとう…」


声が震えている。


花嫁の朝は、もしかしたら、哀しみの朝なのかもしれない。


ギュッと抱き締める腕に力を込めながら、仙道はじわり、とこみ上げる熱い思いで胸が一杯になった。






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4月26日。


今日の誕生花は、スカビオザ。


花言葉は、『朝の花嫁』


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