ぴく、と越野の鼻が蠢いた。


独特の甘い臭いが鼻につく。


通学途中の満員電車の中でこの臭いはさすがに厳しい。


ともすれば倒れそうになりそうなその臭いに、歯を食いしばり目を閉じる。




最初にこの『臭い』に気づくようになったのは、幼稚園の頃だった。


元々、鼻がよかったのかもしれないが、越野は匂いにとても敏感だった。


そんなある日、母親がホットケーキも焼いていないのに、甘い匂いを発していたのだ。


『おかあさん、ボクにナイショでホットケーキたべたでしょ?』


『ヒロちゃんに黙って、お母さんが食べるわけないでしょ。どうして?』


『だって、おかあさんから、ホットケーキのにおいがするもん』


やさしく笑う母親の眉が曇ったことに、その頃の越野は気づかなかった。


そして、ホットケーキを焼いた匂いが何日か続いた後、母親は交通事故で死んだ。




それから幾度もその臭いを嗅ぎ、その臭いを発した人が死ぬ、ということが自分の中で確証したのは、中学生の時だった。


小学生の頃までは、誰彼となくその臭いがしたわけではなく、むしろ自分に近い人からだけ臭っていたのが、どんどんと拡大されたせいだったからだ。


人はそれを死臭、とでもいうのかもしれない。


ただ、それは腐ったようなそれではなく、越野の鼻には未だにあの時の母親と同じ、ホットケーキが焼きあがったような、そんな甘い臭いが漂うのだ。


気づいて以来、甘いものは食べられなくなった。





ぷん、とその匂いが一段と強くなった。


朝からこの強い臭いを嗅ぐのは、相当な覚悟がいる。


目の前にいる誰かが、どんな形でかはわからないにしろ、死に至るのだから。


先日の帰り道に、小さな女の子からその臭いを感じた時はさすがに泣きそうになった。


だからといって、それを言える訳ではない。


言ったところで信じてもらえる訳でもないし、聞く耳ももたないだろう。


自分が近い将来死ぬなんていうこと。


聞きたくもない、死刑宣告みたいなものだ。


だから、母親以来誰にもその事は話していない。




「大丈夫、越野?」


ギュッとつり革を握り締め、固く目を閉じていた越野の耳に、聞き覚えのある声がした。


「…仙道…」


目を開き、声のした方を見ると、そこには心配そうな顔をした仙道と、

そして…頭の芯がグラグラするくらいの強さで甘いあの臭いがする。


…まさか。


昨日まで、仙道からはこの臭いはしなかった。


「顔色悪いよ、酔ったかな?でも、もうすぐ駅に着くから…少し休んでから行こうか」


違う、きっと。


この電車の中の、誰かの臭いで…仙道からの臭いじゃない。


「あぁ…そうだな…」


掠れた声でそう呟き、じっとりと濡れた掌でつり革を握りなおすと、越野は殊更固く瞳を閉じた。




でも、もし…そうだとしたら?


電車を降りても、尚、仙道からこの臭いがしたら?




早く電車が駅に到着してこの臭いから開放されたいと思いながら、

越野は降りることの恐怖がどんどんと胸に降りてくるのを感じていた。





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5月2日。


今日の誕生花は、スカビオザ。


花言葉は、『敏感』


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