書きあぐねていた手紙からペンを離すと、牧は傍らで眠る藤真の顔を見やった。
出逢った中学時代と変わらないあどけない表情を見せ、
静かな寝息を立てているその顔を見ると安心するようになって随分と経つ。
少し疲れた様子なのは、自分のせいに他ならない。
そっとその髪を撫でると、サラサラの感触が指の間をすり抜け、そして消えていく。
それはまるで自分の今を物語っているかのようで、牧は小さく吐息を漏らす。
突然、やってきたそれ。
それは最近、記憶力がなくなってきたと思った事から始まった。
疲れがたまっているのだろう、と思って放っておいたが、
だんだん手帳が手放せない状態になり、
それでも突然意識が混沌としていくことに不安を感じていた。
そんな時に、二人でいる時にふと見ていたテレビドラマの話は、まさに今の自分の状態に似ていて…。
藤真に尋ねた、お前ならどうするか、と。
きれいさっぱり全てを忘れる、と笑って言った藤真。
藤真にとっては、まさにありえない話だと思っているのだろう。
口づけて離れていった濡れた藤真の唇が、自分と同じ質問を繰り返した。
辛かった。
忘れてしまいたくない記憶も、全て闇の彼方へと消えていく事実が。
『オレか…?例え他の全ての記憶を手放したとしても、お前のことだけは忘れんぞ』
牧は小さくそう呟くしかなかった。
翌日、さすがに病院にでも行ってみるか、と思った矢先に、練習中に倒れてそれが発覚した。
医者も言うのを躊躇った、それ。
やはり、悪い予感は当たっていたらしい。
発狂しそうになるくらいの感情を抑え込むのが精一杯だった。
徐々に近い記憶から順に、すべての記憶を失ってしまう病気。
今は記憶力がなくなった程度で済んでいるが、着実にそれは自分を蝕んでいくらしい。
自分は何も気づかないうちに。
そうして、忘れてしまうのだ。
大好きなバスケットも。
心の底から愛する人も。
自分を取り巻く、何もかもを。
そして、自分すらも。
ふと、机の上に並ぶ封書を見る。
退部届、両親に宛てた手紙、そしてまだ封をしていない書きかけの手紙。
全てを忘れないうちに。
まだ覚えているうちに。
今の自分を伝えておきたいから。
この先の感情は、もう覚えていることは皆無であるという。
ならば、今のこの気持ちを残しておかなければ、後悔してしまう気がして。
感情的には辛いものが勝っているが、それでも後悔はしたくないから。
藤真の髪から手を離すと、そっと額に口づけて牧はまたペンを手に取った。
『健司へ』
名前を書いたきり、止まっていたその手紙にペンを下ろす。
短い人生の間だったけれど、一番に愛した恋人に向かって。
自分がいなくなっても決して不幸にならないように。
倖せにずっと生きていけるように。
そんな切なる願いを込めて。
牧はゆっくりとそのペンを走らせはじめた。
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5月3日。
今日の誕生花は、宿根カスミソウ八重咲。
花言葉は、『切なる願い』
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