「消費者庁が葬儀会社に措置命令」というニュース

記事の見出しは

「「小さな森の家」CMで不当表示 葬儀会社に措置命令―消費者庁」

 

「小さな森の家」というのは、(株)金宝堂が経営している「家族葬の葬祭会館」のことです。宮城県では、「家族葬の仙和」という葬祭会館を経営しています。

 

 

時事通信のニュース記事です。

時事通信 社会部配信

テレビCMで不当な表示をしたとして、消費者庁は18日、葬儀サービス「小さな森の家」を提供する「金宝堂」(東京都渋谷区)に対し、景品表示法違反(有利誤認)で再発防止などを求める措置命令を出した。 」

 

詳細は、下記のリンクでお読みください。

 

 

檀家さんたちには、「葬儀社を選ぶ際には注意しましょう。事前に菩提寺に相談ください。」と注意を呼び掛けています。ところがテレビCMに釣られるのか、ネット広告を鵜呑みにするのか、このニュース記事のような結果を味あわされているケースも少なくないようです。問題ある見積書を控えていますが、飽くまでも個別事例であり、その会社のすべてが悪質とは断定するのは難しい。それ故、菩提寺から檀家宛の一斉の通知で特定の社名を挙げての注意喚起することは難しい。非常に歯がゆく思っています。

 

遺族が「簡素な家族葬にしたい。」と言って、低料金の家族葬プランを選んでも、葬儀社の営業担当者は売上upのため営業努力をします。営業努力と言える範囲なら良いのですが、御遺族が後になって考えると「だまされた。」と言いたくなるような営業もあるようです。消費生活センターにも調査権限を持たせ、「消費者の苦情を受けたら、葬儀社に立ち入り調査が出来る。」ようにしたら良いと思います。消費者庁の「措置命令」と言っても、「CMを改善しなさい」というだけのようです。甘いなあ、と感じます。

 

 事前に檀家さんから相談を受けた場合、今回措置命令を受けた運営会社に属する葬儀社については「注意喚起する」ようにしてます。

 

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令和8年 菅谷不動尊祭典

 

9月13日、新寺の菅谷不動尊祭典が開催されました。

 

いろんな意味で、時の流れを感じます。

 

新寺町内会には、新寺西部子供会と新寺西部子供会がありました。30年前、うちの息子が連坊小路小学校に入ったころは、東部60人、西部100人ぐらいは居ました。地域の子供の数はだいぶ減りました。2年前、新寺東部子供会は児童数が10人を割り、解散しました。新寺西部の子年の祭典参加者は41名でした。

 

従来は7月の第4日曜日開催でした。熱中症対策で神輿行列のコースを短縮したりしましたが、猛暑日に神輿を出すことに不安の声もあり、2年前から9月開催となりました。今年は猛暑日の少ない夏でした。祭典当日の気温も23℃ぐらいで、熱中症の心配は無いので安心でした。

 

 ただ、9月に入ってから雨の天気が続き、この日もこれから不動堂で御祈祷し神輿が出発する時になって、小雨が降り始めました。昼頃には雨は止むという予報でしたが、確かに神輿が戻ってくる頃には雨は止みました。

 

 神輿が帰ってから、子供達にはお赤飯のおにぎりを配り、おにぎりを食べ終わったころに縁日の利用券を配りました。縁日で遊ぶ子供たち、ビンゴゲームで挙がる歓声。地域の、ささやかなお祭りですが、子供たちの笑顔と歓声は、準備運営に当たった大人たちにとって大きな喜びです。

 

祭典委員の人数は限られてますが、子供会の父兄、連坊おやじの会、神輿の会、町内会役員、ジュニアリーダー、いろいろな方々の御協力で、楽しいお祭りを開催出来ました。私も微力ながら、御祈祷以外でも、いろんな裏方で協力させていただきました。

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谷山洋三教授の最終講義・生前葬

   洞林寺を会場に開催されました

 

 9月8日、東北臨床宗教師会主催で、開催されました。

 

 東北大学大学院文学研究科の谷山教授は研究者として教育者として日本のグリーフケア、スピリチュアルケアの研究と普及のため尽力されて来られた。昨年、癌に罹っていることがわかり、何度か入退院しながら抗がん剤治療を続けてきたが、今年からは緩和ケアに切り替えられた。そして、全国の各地区の臨床宗教師会で「最終講義」を行ってこられました。東北臨床宗教師会のための最終講義を9月8日に行うことになり、併せて生前葬を行うことになりました。

 

 9月8日、13時までに集合した会員で、本堂の祭壇準備、椅子の準備を行い、講義会場のマイクや動画配信の準備、椅子テーブルの配置等を行いました。尚、数か月前からNHKのドキュメンタリークルーが谷山教授に同行し講義や活動を取材撮影してきており、当日も講義と生前葬を撮影してました。テレビでの放送時期は未定だそうですが、9月下旬か10月に放送するような話でした。

 

14時から受付が始まり40名ほど受講者が会場に着席し、14時30分から最終講義を始まりました。講義終了後、受講者からの質問と応答が有り、15時35分に終了しました。

谷山教授 最終講義 スピリチュアルケア talks

 

その後、洞林寺本堂に移動し、16時から生前葬が始まりました。

 

式次第は以下の通りです。

 

曹洞宗による葬送儀礼

谷山教授 最終講義・生前葬

天理教による葬送儀礼

谷山教授の最終講義・生前葬

 

プロテスタントによる葬送儀礼

谷山教授の生前葬、講義風景

 

 おくる言葉(弔辞)

谷山教授より謝辞

 

 直前に打合せを行いましたが、実質的にはぶっつけ本番の生前葬でした。谷山教授に敬意と感謝と惜別の意を込めて勤めたつもりではありますが、葬送儀礼として「正解」といえるかどうかはわかりません。何とかスムーズな儀礼進行を行うことが出来ましたことに、安堵しております。

 臨床宗教師の目的の一つに「信仰や宗教的背景が異なる宗教者が協力協同する」旨がありますが、今回の生前葬開催が多少なりともそういう趣旨に適ったのではないかと思います。これも偏に最終講義・生前葬執行を担われた会員諸師の御協力のお蔭であり、心より感謝申し上げます。「急な開催決定だから、洞林寺に集まるのは10名ちょっとぐらいだろうなあ。」と当初思っておりました。直前になって、生前葬参列者が20名になり30名になり40名になったと聞いて、嬉しい反面、運営進行が円滑に出来るか不安になりました。何とか「無事終わって良かったあ。」と思っております。

 開催直前の御案内にもかかわらず、全国から多くの関係者の方々が仙台に参集してくださり、多くの方々が動画配信を視聴してくださいました。心より御礼申し上げます。

 

 谷山教授は癌と向き合いながら全国の各地区の臨床宗教師会で最終講義を実施されてきました。おそらく多くの学会や研究会でも講義・講演を重ねて来られたと思います。まさに命を削りながらの全国行脚だと思います。でも、この行脚には悲壮感は無く、自称「変人・谷山」先生にとって「みずからの病気」が研究対象であり、研究のためのフィールドワークを楽しんでおられるようでした。「しっかりやれよ!」と激励しながら、至らぬ教え子のために伝えるべきことを伝えてくださって来られました。私は到底恩返しなんて出来ないでしょうが、今回の生前葬が我々教え子の感謝の気持ちを示す一助となれば幸甚です。

 

 修験道の「火渡り」や「峰入り」は「擬死再生(ぎしさいせい)」儀礼と言われていますが、今回の生前葬も一種の「擬死再生(ぎしさいせい)」儀礼と言えると思います。今回の生前葬で引導を渡され、往相して一旦西方十万億土に往生し、生前以上の力をつけて必ず還相してください。そういう日がくることをお待ち申し上げております。

 

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戦争を繰り返さないために

 

1、知覧特攻平和会館と特攻隊員の遺品

 5月26日27日、鹿児島市で全国教誨師大会が開催され、参加してきました。大会終了後、少し足を延ばして南九州市知覧町に向かいました。目的地は「知覧特攻平和会館」です。

 

 太平洋戦争当時、多くの特攻隊員が飛び立った航空基地があった場所です。会館に行く途中、会館の周辺に石灯籠がたくさん並んでました。特攻作戦で亡くなられた方々の慰霊のための灯籠のようです。

 

知覧特攻平和会館と日本国旗

 知覧特攻平和会館は、特攻隊員の遺品や記録を後世に伝え、二度と特攻作戦や戦争の悲劇を繰り返さないことを願って建設された施設です。展示で最初に目を引いたのは、特攻に使用された戦闘機でした。

知覧特攻平和会館の戦闘機

 

 一番スペースを割いていたのが、特攻隊員の部隊ごとの写真展示と特攻隊員の遺品の展示でした。特攻で亡くなられた方々の年齢は十九歳から二十三歳位の方が多いようでした。志願された方もいたでしょうが、志願させられた方も居たようです。「御国を守る。故郷を守り家族を守る。」そういう気持ちで出撃されたのでしょうが、戦争の作戦としてはどこまで有効であったのでしょう。特攻は「国を守る」という思いで行われました。しかし、戦局を大きく変えることはできず、多くの若者が命を失いました。今の時代の我々の立場からは「もっと早く終戦交渉を進めろよ。」と言いたくなります。その当時、こんなことを言えば「非国民!」と罵られ、憲兵に逮捕されたことでしょう。

 

 隊員の日記、手紙、愛読書、軍服、軍刀等が特攻隊員の遺品として展示されていました。或る隊員の遺品の中に『戦陣訓』という冊子がありました。「ああ、これか。」と思いました。『戦陣訓』は1941年に当時の陸軍大臣・東条英機の名で全陸軍に示した軍人の行動規範です。『戦陣訓』には「生きて虜囚の辱めを受けず」という一節があります。この思想は、生還することさえ許されない空気を生み、多くの悲劇につながったと言われています。実際に「天皇陛下に身を捧げる」「国土の礎となる」という美名のもと、部隊全員の玉砕や民間人の集団自決という事態が引き起こされています。

戦陣訓の冊子

 

 特攻作戦は生きて帰還することを否定する作戦であり、死ぬことを前提とした作戦でした。しかし、戦闘機のエンジントラブル天候不良のため不時着したり特攻基地に帰還したりするケースはありました。そういう「不本意ながら帰還した兵士」は居心地悪かったでしょうし、辛かったでしょう。実際のところ、どうだったのだろうか、疑問が湧

きました。平和会館の売店で買い求めたドキュメンタリー小説『月光の夏』(毛利恒之著)が私の疑問に答えてくれました。

 

月光の夏 グランドピアノ

 

2、グランドピアノが伝える特攻の実相

 佐賀県鳥栖市営のホール「サンメッセ鳥栖」の一階に一台のグランドピアノが展示されています。このグランドピアノが或る特攻隊員の歴史の証人だったのです。

特攻隊員とピアノの絵、グランドピアノ

    鳥栖市サンメッセに展示されているグランドピアノ

 

1945年5月末、鳥栖国民学校に突然二人の特攻隊員が来訪しました。
「私たちは、明日出撃します。死ぬ前に、もう一度思い切りピアノを弾きたいのです。ここにはグランドピアノがあると聞いて、やってきました。」
 彼らは音楽を専攻する学生だったのですが、学業を断念し、爆弾を抱いて敵艦に突っ込むための訓練をしていたのです。音楽室に案内された隊員は、ピアノに向かい椅子に座りました。隊員が「何か楽譜はありますか?」と聞くと、音楽教諭の上野歌子さんは音楽室に有った楽譜を渡しました。楽譜を開きベートーベンの「月光」を静かに弾き始めました。立会った上野さんは、素晴らしい演奏に感動しながらも、音楽への志を捨てて国のために死地へ赴く青年の胸中を考えると、悲痛な思いに胸をしめつけられるのでした。

 戦争から四十年が経ち、ピアノが廃棄されることを聞いた上野さんは、各地で講演を開き当時の思い出を語り、子供たちへ戦争のことを伝え継ぐためにも、ピアノの保存を訴えました。ピアノは保存されることになり、このエピソードを基にドキュメンタリー小説『月光の夏』が書かれ、更に映画『月光の夏』が制作上映されました。

 

尚、小説『月光の夏』、映画『月光の夏』では、鳥栖国民学校の音楽教諭の名前は実在の上野歌子さんではなく、「吉岡公子」という名前になっています。

映画「月光の夏」ポスター、特攻隊員とピアノ

 

 特攻帰還兵を収容し再教育した振武寮

しんぶりょうの存在が『月光の夏』で描かれ、後にNHKスペシャルでも検証報道されました。振武寮は陸軍の第六航空軍が福岡市内に設置した施設でした。実態は、帰還した特攻隊員を隔離し監禁する施設でした。参謀将校が「貴様は命が惜しいのか!死ぬのが怖いのか!卑怯者!臆病者!」と叱責し暴力行為に及ぶこともあったそうです。

 現代の私たちから見れば、この参謀将校は狂っていると思います。でも当人は職務に忠実だったと思っているかもしれません。一方で、収容された帰還兵からは「あそこは地獄だった。」という述懐が残されています。戦争だったから仕方がないでは済まされないことです。戦争と言うものが如何に人を狂わせ人の生命と心を蹂躙するものであるか、学ばなければならないなと思いました。

 

 知覧特攻平和会館を訪れ、『月光の夏』を読み終えた今、いろいろ考えさせられました。「特攻作戦」に限らず、戦争は人間を手駒のごとく扱い、敵国側兵士や民間人はもとより自国兵士や民間人の生命も人格も軽視するものなんだなあということを痛感しました。それに加えて、若者たちが自由に生きる道を失い、「死ぬことこそ名誉」であると信じ込まざるを得なかった時代の恐ろしさというものを感じました。

 戦争は、人の命を奪うだけではありません。人の心を支配し、人の心を狂わせ、自由な判断を奪い、「生きたい」という最も自然な願いさえ口にできない社会をつくり出します。昨日まで音楽家を目指していた青年が、翌日には爆弾を抱えて飛び立たなければならない。その悲劇は、決して一人ひとりの隊員だけの問題ではなく、社会全体が戦争という大きな流れに飲み込まれた結果だったのでしょう。

 

 仏教では、「一切衆生

いっさいしゅじょう悉有

しつう仏性

ぶっしょう」と説きます。すべての人はかけがえのない命を持ち、誰もが仏となる尊い可能性を備えています。「お国のため」という大義名分があったとしても、戦争を正当化してはならない。そして、尊い命を戦争のために使い捨てるようなことは本来あってはならないことです。

 今年も終戦の日を迎えます。若い命を散らしてしまった特攻隊員たちのためにも、愚かな戦争の歴史を風化させることなく、平和の世界を願い目指していきましょう。

 

 

2026年6月20日にアップロードした記事「知覧特攻平和会館に行って思ったこと」を洞林寺護持会会報・令和8年お盆号のために改訂しました。本ブログはその会報用原稿に更に加筆したものです。

 

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今日からお盆です

 

 いわゆる八月盆(月遅れ盆とも言いますね)は、8月13日から16日までと言われます。

洞林寺では8月12日に「盂蘭盆会大施食会(うらぼんえだいせじきえ)」を行っております。各家先祖供養の塔婆を書いて参加者にお渡しております。昨日来れなかった方々が今日塔婆を取りに来られ、午前中から昼過ぎにかけて結構忙しく一日でした。同様に境内墓地にはお檀家様と其の親戚の方々が墓参にお見えだったようです。

 

 地元紙『河北新報』が取材に来られ、境内や墓地で墓参される方々を撮影したり取材したりしていたようです。その取材記事が本日の『河北新報』夕刊の第一面に載りました。

 

一応、私も河北新報の記者から取材を受けましたが、ウケを取るような面白いコメントなんて出来ませんので、当然私のコメントはボツとなったようです。

 

 夕方17時30分ころから、本堂前にて迎え火を焚きます。古いお位牌と古い塔婆のお焚き上げという意味合いもあります。

 

それから、境内墓地内を読経しながら、香を手向けて回ります。

 

地域によっては「墓施餓鬼」と呼ばれている行事です。「諸々の一切の餓鬼に食(じき)を施す」と同時に、「あの世から還ってくる御先祖様をお迎えする」読経でもあると思います。

 

 

 

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廃仏毀釈と玉龍山福昌寺

 

 曹洞宗の坊さんにしかわからない話になりそう。

 

 諸嶽山総持寺二世峨山韶碩禅師は優れた弟子を多く輩出され、それらの方々と其の法孫の方々が今日の曹洞宗教団を作られてきた。峨山韶碩禅師の弟子には高名な方々が多く居られ、峨山二十五哲と呼ばれ、其の筆頭格が三田市永澤寺開山通幻寂霊禅師です。通幻寂霊禅師には通幻十哲と呼ばれる高弟がおられ、特に最乗寺開山了庵慧明禅師と福昌寺開山石屋真梁禅師から多くの門人が育ち、多くの門葉寺院が展開しています。

 私は、通幻寂霊禅師➡石屋真梁禅師➡竹居正猷禅師➡器之爲璠禅師➡大庵須益禅師➡全巖東純禅師と続く祖師方の法孫に当たります。石屋真梁禅師は、長門大寧寺、薩摩妙円寺、薩摩福昌寺の御開山です。応永元年(1394年)、島津一族出身の石屋真梁禅師が、島津氏第7代当主・島津元久により開山として招かれ建立されました。後に島津家宗家の菩提所となっています。江戸時代に書かれた『三国名勝図絵』には、大伽藍を備えた南九州屈指の大寺院であり、最盛期には1500人の僧侶がいたと記されている。

 明治維新後、廃仏毀釈という暴風にさらされ、薩摩藩内では多くの寺院が廃寺となり、島津家菩提寺である福昌寺も例外ではありませんでした。

 福昌寺復興のための活動が続けれたそうですが、なかなか願いはかなわず、鹿児島市内での再建を断念し、明治31年(1898年)、宝亀観道(72世)により現在の薩摩川内市向田町地に後裔寺院にあたる「福昌寺」が建立されました。

 

 5月28日、朝8時に指宿のホテルを出発し、薩摩川内市の福昌寺様に向かう。前日に電話して、28日に訪問したい旨をお伝えいたしました。鹿児島県川内市(現在は、薩摩川内市)の方に「宮城県のせんだいしの・・」と告げたら、向こうの電話からちょっと笑い声が漏れてました。行く途中、コンビニで休憩したりしたので、着いたのが午前10時ちょっと前。本堂は鉄筋コンクリート造りで比較的新しいように感じる。

玉龍山福昌寺の建物と庭園

玄関で「宮城県せんだいしの洞林寺です。」と挨拶し、本堂の本尊様に焼香三拝させていただく。

福昌寺本堂の金仏と内陣

 

次いで、開山堂に案内され、御開山様に焼香三拝させていただきました。御開山石屋真梁禅師の御尊像は廃仏毀釈を乗り越えて無事保護されてきたとの事。「よくぞ御無事で、」という思いながら三拝させていただきました。

福昌寺開山石屋真梁禅師像

 

 方丈の間でお茶をいただきながら、御住職富永国俊老師(74世、復興後3世)から廃仏後の復興の歴史を拝聴いたしました。現代の我々の感覚からみれば、なぜ廃仏毀釈が行われたか理解に苦しみます。私も自分の研究分野で多少関わっているので、関心をもってまいりました。多少は勉強しましたが、残念ながら勉強不足です。明確な答えは出せません。地域地域で微妙な温度差があったのでしょう。飽くまでも神仏分離に留まったケースもあれば、廃寺となり仏像仏具が悉く打ち壊されたケースもありました。

 福昌寺を辞した後、鹿児島市の福昌寺跡に向かいました。福昌寺の寺族様から「幹線道路からの入り口がわかりにくいから注意して、」と言われましたが、確かに初めての者にはわかりにくい。カーナビに随って運転してても。危うく通り過ぎるところでした。福昌寺の御開山様歴住様の墓所をお参りさせていただきました。併せて薩摩藩主島津家の墓所もお参りさせていただきました。

福昌寺開山石屋真梁禅師の墓碑

 

福昌寺跡の墓石と石段

 

国指定史跡 鹿児島島津家墓所

福昌寺跡に着いたのが、12時ちょっと過ぎ。

明治2年まで福昌寺が有った場所には、昭和25年から玉龍高校が建てられ現在に至っています。かっての福昌寺はかなり広い敷地だったようです。高校名の玉龍とは、福昌寺の山号です。福昌寺の歴史と伝統に敬意を込めたのかもしれません。ちょうどお昼休みの時間でしたが、島津家墓所に通じる道路を高校生たちが清掃しておりました。藩主島津家への敬意、それとも広い意味での地域貢献なのか、いずれにしても心洗われる光景でした。

 

 

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知覧特攻平和会館に行って思ったこと

 

1,知覧特攻平和会館を訪ねて

知覧の武家屋敷群から車で15分ぐらいの場所に知覧特攻平和会館があります。太平洋戦争当時、多くの特攻隊員が飛び立った航空基地があった場所です。会館に行く途中、そして会館の周辺にも石灯籠がたくさん並んでました。特攻作戦で亡くなられた方々の慰霊のために建てられたもののようです。

 平日でも駐車場には多くの車が止まっており、この施設を訪れる人は多いようです。

知覧特攻平和会館と日本国旗

 

知覧特攻平和会館の入口と看板

知覧特攻平和会館設立の趣旨については、同会館のホームページを参照させていただきます。

 

「 この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。
 私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
 特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。
 この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設した次第であります。」

 

特攻平和会館に到着したのが、午後3時近くでした。内部は撮影禁止なので、内部の写真は有りません。展示内容の概要については、知覧特攻平和会館のHPを参照ください。

 展示で最初に目を引いたのは、特攻に使用された戦闘機でした。昔、少年画報で辻なおき先生の「ゼロ戦太郎」や冒険王で貝塚ひろし先生の「ゼロ戦レッド」や少年マガジンでちばてつや先生の「紫電改の鷹」を読んでいたことを思い出しました。

 

2,特攻隊員の遺品

 一番スペースを割いていたのが、特攻隊員の部隊ごとの写真展示と渡航隊員の遺品の展示でした。特攻で亡くなられた方々の年齢は19歳から23歳ぐらいの方が多いようでした。隊長を勤めた方は20代後半ぐらい。志願された方もいたでしょうが、志願させられた方も居たようです。「御国を守る。故郷を守る。家族を守る。」そういう気持ちで出撃されたのでしょうが、戦争の作戦としてはどこまで有効であったのか、更なる検証が必要だと思います。戦闘機の生産能力の低下、飛行機部品の不足、燃料の不足と質の低下、操縦士の飛行訓練時間の不足、アメリカ軍の特攻対策等、様々の要因から特攻作戦の戦果は次第に挙がらなくなったと言われています。

 アメリカ軍の記録映像がビデオで流されていましたが、「特攻機がアメリカ軍の戦艦に体当たりして、戦艦が炎上した」戦果はあったようです。特攻作戦がアメリカ軍兵士に恐怖心を植え付け、アメリカ軍の日本本土進攻を遅らせる効果が有ったという見方もあるそうですが、今の時代の我々の立場からは「もっと早く終戦交渉を進めろよ。」と言いたくなります。その当時、こんなことを言えば、「非国民!」と罵られたでしょうが。

 

 隊員の日記、手紙、愛読書、軍服、軍刀等が特攻隊員の遺品として展示されていました。或る隊員の遺品の中に『戦陣訓』という冊子がありました。

「ああ、これかあ。」と思いました。

戦陣訓の冊子

『戦陣訓』は1941年に当時の陸軍大臣・東条英機の名で全陸軍に示した軍人の行動規範です。過酷な戦場での規律や道徳を定めたもので、特に「生きて虜囚の辱めを受けず」という捕虜になることを厳しく戒めた一節が有名です。この「「生きて虜囚の辱めを受けず」は敵軍の捕虜となることを禁じ、避難撤退をも禁じる意味に敷衍され、後に部隊の玉砕や民間人の集団自決の要因となったと言われています。

 特攻作戦は生きて帰還することを否定する作戦であり、死ぬことを前提とした作戦でした。しかし、現実には戦闘機のエンジントラブルのため不時着したり特攻基地に帰還したりするケースは少なからずあったそうです。そういう「不本意ながら帰還した兵士」は居心地悪かったでしょうし、辛かったでしょう。実際のところ、どうだったのだろうか、疑問が湧きました。

 

平和会館の売店で買い求めたドキュメンタリー小説『月光の夏』(毛利恒之著 講談社文庫)が私の疑問に答えてくれました。

月光の夏 書影:グランドピアノと毛利恒之

 

この小説の元となったエピソードについて以前何かの記事で読んだことがありました。これについて述べるとかなり長くなりますので、別記事に書かせていただきます。

 

 

3,平和会館の周辺

 平和会館の右側に、特攻隊員たちが出撃するまでの起居していた半地下式の兵舎を復元したものがあります。「三角兵舎」と呼ばれています。

知覧特攻平和会館の三角兵舎

 

知覧特攻平和会館の三角兵舎内部

 

特攻兵士を慰霊する観音堂があります。

特攻平和観音堂の扁額と入口

 

 「特攻勇士の像」が建てられています。

知覧特攻平和会館に展示された零戦レプリカ

特攻像の由来、知覧特攻平和会館

 

 映画撮影用に制作された戦闘機「隼」のレプリカもありました。

知覧特攻平和会館の零戦レプリカ

陸軍 一式戦闘機「隼」レプリカ 

 

家へのお土産用に知覧茶を買い求め、宿泊する指宿のホテルに向かいました。

 

  

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知覧町の武家屋敷を訪ねて

 

今回、鹿児島に行くまで「日本遺産 武家屋敷群」については全く知りませんでした。

 

「勇猛果敢な薩摩の武士を育んだ地,鹿児島。
そこには,本城の鹿児島城跡や,県内各地の山城跡の周辺に配置された麓と呼ばれる外城の武家屋敷群が数多く残っています。
麓は,防御に適した場所に作られ,門と玄関の間に生垣を配置する等,まるで城の中のように敵に備えた構造を持っていました。
そこでは武士達が,心身を鍛え,農耕に従事し,平和な世にありながら武芸の鍛錬に励みました。
鹿児島城跡や麓を歩けば,薩摩の武士達の往時の生き様が見えてきます。」文化庁のホームページから

 

 5月27日の午前中で全国教誨師大会が終了したので、レンタカーで南九州市知覧町に行きました。

 

知覧町は、武家屋敷群と知覧茶と知覧特攻平和祈念で有名な街です。その見どころの一つに、日本遺産の「薩摩藩 武家屋敷群」の中の構成遺産の一つなのだそうです。「知覧 武家屋敷」という案内標識をかなり見かけました。

 

「知覧麓の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例の一つであり、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣が織りなす景観は優れており、我が国にとって価値の高いものです。このため、昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
また、同時に地区内の7つの庭園が「優れた意匠で構成され、その手法は琉球等の庭園と共通するものがあり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である」として、国の名勝に指定されています。指定された7つの庭園のうち、森重堅邸庭園のみが池泉式で、その他はすべて枯山水式です。今に残る枯山水の伝統美と時代の息吹を感じさせてくれます。」

知覧武家屋敷庭園 有限責任事業組合ホームページより

 

入園料530円払い、公開してい武家屋敷と庭園を見学させていただきました。

 

 

 

 

 

なかなか趣のある街並みでした。「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていることは素晴らしいことなんでしょうが、維持・保存していくのはなかなかたいへんでしょうね。

 

武家屋敷でカフェやレストランを営んでいるところもあるようですが、この日このカフェは休業でした。土日のみのなのでしょうか?レストランは予約制のところもあるようです。

 

 

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