廃仏毀釈と玉龍山福昌寺
曹洞宗の坊さんにしかわからない話になりそう。
諸嶽山総持寺二世峨山韶碩禅師は優れた弟子を多く輩出され、それらの方々と其の法孫の方々が今日の曹洞宗教団を作られてきた。峨山韶碩禅師の弟子には高名な方々が多く居られ、峨山二十五哲と呼ばれ、其の筆頭格が三田市永澤寺開山通幻寂霊禅師です。通幻寂霊禅師には通幻十哲と呼ばれる高弟がおられ、特に最乗寺開山了庵慧明禅師と福昌寺開山石屋真梁禅師から多くの門人が育ち、多くの門葉寺院が展開しています。
私は、通幻寂霊禅師➡石屋真梁禅師➡竹居正猷禅師➡器之爲璠禅師➡大庵須益禅師➡全巖東純禅師と続く祖師方の法孫に当たります。石屋真梁禅師は、長門大寧寺、薩摩妙円寺、薩摩福昌寺の御開山です。応永元年(1394年)、島津一族出身の石屋真梁禅師が、島津氏第7代当主・島津元久により開山として招かれ建立されました。後に島津家宗家の菩提所となっています。江戸時代に書かれた『三国名勝図絵』には、大伽藍を備えた南九州屈指の大寺院であり、最盛期には1500人の僧侶がいたと記されている。
明治維新後、廃仏毀釈という暴風にさらされ、薩摩藩内では多くの寺院が廃寺となり、島津家菩提寺である福昌寺も例外ではありませんでした。
福昌寺復興のための活動が続けれたそうですが、なかなか願いはかなわず、鹿児島市内での再建を断念し、明治31年(1898年)、宝亀観道(72世)により現在の薩摩川内市向田町地に後裔寺院にあたる「福昌寺」が建立されました。
5月28日、朝8時に指宿のホテルを出発し、薩摩川内市の福昌寺様に向かう。前日に電話して、28日に訪問したい旨をお伝えいたしました。鹿児島県川内市(現在は、薩摩川内市)の方に「宮城県のせんだいしの・・」と告げたら、向こうの電話からちょっと笑い声が漏れてました。行く途中、コンビニで休憩したりしたので、着いたのが午前10時ちょっと前。本堂は鉄筋コンクリート造りで比較的新しいように感じる。
玄関で「宮城県せんだいしの洞林寺です。」と挨拶し、本堂の本尊様に焼香三拝させていただく。
次いで、開山堂に案内され、御開山様に焼香三拝させていただきました。御開山石屋真梁禅師の御尊像は廃仏毀釈を乗り越えて無事保護されてきたとの事。「よくぞ御無事で、」という思いながら三拝させていただきました。
方丈の間でお茶をいただきながら、御住職富永国俊老師(74世、復興後3世)から廃仏後の復興の歴史を拝聴いたしました。現代の我々の感覚からみれば、なぜ廃仏毀釈が行われたか理解に苦しみます。私も自分の研究分野で多少関わっているので、関心をもってまいりました。多少は勉強しましたが、残念ながら勉強不足です。明確な答えは出せません。地域地域で微妙な温度差があったのでしょう。飽くまでも神仏分離に留まったケースもあれば、廃寺となり仏像仏具が悉く打ち壊されたケースもありました。
福昌寺を辞した後、鹿児島市の福昌寺跡に向かいました。福昌寺の寺族様から「幹線道路からの入り口がわかりにくいから注意して、」と言われましたが、確かに初めての者にはわかりにくい。カーナビに随って運転してても。危うく通り過ぎるところでした。福昌寺の御開山様歴住様の墓所をお参りさせていただきました。併せて薩摩藩主島津家の墓所もお参りさせていただきました。
福昌寺跡に着いたのが、12時ちょっと過ぎ。
明治2年まで福昌寺が有った場所には、昭和25年から玉龍高校が建てられ現在に至っています。かっての福昌寺はかなり広い敷地だったようです。高校名の玉龍とは、福昌寺の山号です。福昌寺の歴史と伝統に敬意を込めたのかもしれません。ちょうどお昼休みの時間でしたが、島津家墓所に通じる道路を高校生たちが清掃しておりました。藩主島津家への敬意、それとも広い意味での地域貢献なのか、いずれにしても心洗われる光景でした。





















































