「君が代」は本来国歌ではない

http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20060923/col_____hissen__000.shtml

(東京・社説?筆洗)


自己にとって気持ちの良い語嚢だけを拾って流し読みする・・

典型的な今風読書の弊害。


当の松本氏の評価は別としてご本人の言はこうです。

◆礼式曲が国歌にスライド

(松本健一 ’99/05/17 産経朝刊)


 たしかに、わたしはその論考のなかで、

「君が代は国歌ではなく、天皇礼式(天皇に対する敬礼曲)である。

これを(日の丸と)一緒くたに国旗・国歌として法制化するのには、

無理がともなう」と書いていた。

しかし、わたしはその論考ではもちろん、どこでも、 君が代反対を

叫んだりはしていない。ただ、君が代は本来国歌では なく、

天皇礼式の曲であって、これが国歌にスライドしたのであり、

日の丸が統一国家日本の国旗として定められた経緯とは、

おのずから歴史がちがう。それを一緒くたにすると、

「無理がともなう」といっているにすぎない。



↑ つまり「今は国歌だ」とおっしゃっているんだが。


東京新聞のこの現代風読書の弊害の犠牲者か故意の悪用者かわからんが

「本来国歌ではない」を強調したいがためにそこで引用を切ってどうする?


ちなみに松本健一さんの歴史の見方には敬意を表したい部分も多々あるし

?と思う部分も多々あると感じます。


しかしシンボリックな存在に対する論考にはあまりにも配慮が欠けていると

思うことがあります。


例えば「白旗伝説」なんかは

一つの思い違いで一冊の著書が出来上がってしまった典型でしょう。


白旗伝説ってのは

「白旗」は「降伏のサイン」か?という話。


事実は

「白旗」は「戦意の無いことの意思表示」であり、

間違った捉え方によって歴史解釈に影響を与えるという問題。


わかりやすいのは↓

「ペリーの白旗伝説」についての考察



ところでその松本氏の「天皇礼式の曲」論は間違い


歌と唄で考えなくてはいけませんが

君が代を記号として分解してその解釈を云々論争しても意味がありません。


例えば「君」の解釈とか。


元来千数百年前から「詠み人知らず」として生まれ、

近代に自然に成ったものに対して

「君」を一人称とだけ解するのには無理があります。



成立の過程を考慮するなら広く人々に詠われた祝賀の歌であり

「天皇礼式の曲」ではありません。


もし「楽曲」をそう言うのであれば明治の国歌黎明期にそのように使われた

こともあります。宮内府奏曲だからというのも単純な話ですが。


しかし氏の言う「わが君」を「君が代」に変えたのは

時の明治政府ではありません。

広く流布した祝賀の歌として平安時代にはすでに「君が世」とも詠われています。

すでにその時代には今の歌と同じ詠まれ方をしていました。


つまり広く長く国民の間で歌われた中でいくつかのバージョンが生まれ

宴席や祝いの場で詠まれてきたのです。


すなわち、二人称・一人称の複数と考えるのが自然です。

もちろん国歌に我が国国体への思いを重ねるのも自由です。

その時は「君」を陛下と思えば良いのです。


ようは千数百年の長きにわたり

色々な形で詠われ親しまれて成立した「君が代」を

現代人の単純な感覚で曲解したり定義付したりするのは愚かだということです。

「君」がそんなに嫌なら「我」でもなんでも変える議論をすればいい。

それなのに「君」が嫌だから「全部変えろ」という。


やましい目的が別にあるから「変更」論にする。

それとも国旗国歌には成立に基準があるのでしょうか?


しかし裁判官には最低限の素養が必要だと心底思いました。


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