益子古城は益子の町のすぐ東、陶芸美術館などがある丘ほぼ全体が城だった。周囲の平地からボコッと盛り上がった丘のほぼ全体を城にしていたらしい。
土佐守紀貫之の子孫と伝わる益子氏が平安時代に住み着いたところで、宇都宮氏の下で源平合戦、南北朝の戦いなどで活躍した。戦国時代になると周囲の勢力との衝突が絶えないようになり、最後は主家であった宇都宮氏の一門笠間氏と争ったことに激怒した宇都宮国綱に攻め立てられ領地を没収されたという。
築城時期などは分かっていないようで、発掘調査により建物跡と中国製陶磁器などが出土したとのこと。最終的に戦国時代まで使われ、ここが平時の居館、南東の高館城(西明寺城)が戦時の詰城となっていたと考えられているとのこと。
2月の三連休を利用した遠征初日、芳賀町の舟戸城から南下して益子町に入り、2つ目の目標にした。舟戸城で思いのほか時間を食ったので、お気軽登城のつもりだった😅
城域内に駐車場があることを知らず、城へ登るのに一番便利と思った北側の駐車場に車を置いた。
町の東側、陶芸美術館のある丘全体が城だったらしい。
そのようすを駐車場から見上げる。
もっとも、近づいてみると切岸加工とかの感じはなく、ふつうの山という感じ。
城内のいちばん東の曲輪にあたるところに立っている旧濱田庄司邸への道が分かれてゆく。
その手前側が益子陶芸美術館や工房広場などの敷地。
そして、尾根上へ登ったところ。
美術館の北側、工房広場への入口前のロータリーみたくなっている。
長屋門みたく造られた工房広場の入口。
反対側へ登ると遺跡広場の駐車場があり、そちらへ車は置いておけるらしい。ただイベントなど開催時は混雑するだろう。
この遺跡広場駐車場へと登ってみると、広場の少し手前…
立派な堀っ‼️🤯
反対の右の方にも続いているが、🌿🌿で見えづらくなっている…
しかし、すぐに横堀に突き当たるようだ😮
けっこう、遺構のこってるじゃんか🙌
公園内で横堀はガードレールの向こう側。他にこれが見える場所は無かった…
さてこの堀、遺跡広場の東側に沿って丘を南北に横断していたらしい。
車道に一部崩されていたが、遺跡広場の端を伝って南へ行くと、こっちの方も芝生を植えられて遺っている✨
堀のサイズは、直前に行った舟戸城と同じくらいらしい。
さて遺跡広場。
礎石の位置をレプリカにしたか?
その様子をイメージしたか?
そんな感じに石が並んでいる。
説明板もあった。
ちゃんと城の遺跡として売り出されてはいるみたいで、訪れる人もけっこう居られた。
南側の斜面は、間に段とか入ってすっかり公園の雰囲気になっていた。
発掘調査の前はツルンとした斜面だったか?
さて、この本郭の西には堀切を挟んで西郭がくっついていたらしいが、いまは西郭の芝生広場までひと続きになっている。
恐らく後世に埋められたんだろうが、こういう跡は丘の端の斜面あたりに堀の跡が出てきていることもあるので、まずは北側を見おろしてみる。
広い帯曲輪みたくなっているが、堀切のようなものは見えない…
反対の南側は、完全に公園の出入り口になっているようで、それらしいものは見えなかった…
そして、芝生広場となっている西郭。
本郭と同じくらいの広さ。
南〜西の縁に土塁らしいものが盛られているが…
車道は西郭に立てられた城門ふうのレプリカのところでコンクリブロック敷きの歩道に変わって広場の端を西に通り抜けていたが、西郭から西に出ても階段などを連ねながらそのまま降りて行っている。
ここには段郭とか虎口空間とかがあったか?
外側の斜面はそれなりの傾斜だったが、これもふつうの山という感じだった…
ハッキリ遺構が残っているのは、このぐらいか。
いまは周囲の斜面が緩くて要害堅固な場所には見えないが、平時の居館ならそれも頷けるというやつか…?
それでも意外と土木の跡が残っていて、城らしい地形も楽しめるところだった。
★益子古城
栃木県芳賀郡益子町益子
本丸の遺跡広場に駐車場あり。満車の場合は城山周囲にも駐車場あるがイベントの際など混雑しそう。
山城
(2026年2月27日 記)




































































































































