トップページ 都道府県別索引へ 長野県の索引へ

 

城峰山城は大町の中心地から山稜ひとつ隔てた東、旧八坂村の横瀬集落の北東にある標高760メートルの小ピーク周辺を占めている。

県道469号から一ノ瀬付近で分かれてくる林道がすぐ裏を通っていて、アクセス至便。

築城者や来歴などは全く不明とのこと。このあたりは仁科氏の勢力範囲で山城が多く築かれているが、関連も分かっていないと思われる。

 

せっかく信濃大町までやってきたが午後から生憎の雨となった。それでもどこかの城には登らないと勿体無いと探し回って、林道から近く手頃に登れそうなこの城に行くことにした。

本降りの☔で、もちろん傘差し登城😂


現在位置(Googleマップで)

登り口は、ロータリーみたいな交差点の向こう側で、草地ながら駐車スペースらしいものもある。

斜面を道みたいなのがジグザグに登っている😮

 

雨の中でも土はしっかりしていて、傘差しでも何とかなるか…

 

しばらくジグザグに登ってゆくと、ほどなく尾根の上に出る。

すぐに植林地に入り、下草は無くなる。

多くの場所は最初の見た目よりずいぶん歩きやすくて、傘差しでも何とかなりそう。

 

右の方に、最初の曲輪の切岸らしいものが見えてくる。

曲輪は4メートルぐらい上。

 

虎口もない、ただ丸く盛り上がっているだけに見えるが、斜面を歩いて登れる。

登ってみると、六畳一間より少し広いくらいの小ぢんまりとした空間だった。

 

ここには、明らかに切ったり表面をはつったりしたような石が、いくつも転がっている。

城にゆかりのあるものかどうかは分からないが、神社や祠があったのかな?

 

 

曲輪から道を挟んで反対側には、短い土塁が横たわっている。

高さは3メートルぐらいありそう😮

 

ここは、侵入してきた寄せ手を曲輪と土塁の間の細く絞られた動線で1列縦隊にさせて、上の曲輪から側面攻撃するためのキルゾーンだな…😨

 

この中を通り抜けてゆくと、こんどは右前方に尾根状が見える広い空間に通される。

少し谷の方に外傾しているが、建物などは建てられそう。

 

ここが、城内で一番広い曲輪で、兵の駐屯や司令所的なものがあったのかな…?

 

谷に面した南側の端は凄い急斜面になっていて、土を切ったり盛ったりして作り出した空間なことは、間違いないだろう。

 

反対の尾根側は一段高くなっていて、先ほど登った曲輪と西の尾根との間に広い空堀のような空間が広がる。

 

この尾根上にも曲輪があるようだが、前が見えないほどのヤブになっていて、ちょっと傘差しで登るのはムリだった…😅

 

裾の斜面は、しっかり切岸加工されているようす。

 

その足元には、井戸らしい穴が空いていた。

逆にハッキリし過ぎて、往時のものかどうかは…

 

この広い空間には、城の主郭部が構える尾根の東側の裾を通って南に回り込む道がある。

この道、急斜面の中腹に付けられているが、幅が30センチもないぐらいでしかも外傾していて、怖いのなんのって…

 

この道、見た目の頼りなさとは裏腹に、下まで降りられそうな感じ。

横瀬集落あたりに降りられるのだろうか…

しかし、先へ進むほど道は険しい斜面のトラバースになって足を滑らせようものならかなり下まで落ちてしまいそうだし、主郭部へ登りも高く厳しくなるので、登るならここからではなく戻った方が良い。


この南側の斜面、かなりダイナミックに落ちている😮

 

尾根に登ると、そこは先ほどの猛烈なヤブだった曲輪と、主郭部の方との間だった。

丸い尾根が直線的に伸びていて、北の方は植林が途切れ、すごいヤブになる。

 

主郭部のある南の方は、大きく盛り上がっている。

 

それほど急傾斜ではないので歩いて登ってゆくと、上はバドミントンコートより少し広いぐらいの曲輪だった。

わりと小ぢんまりとしていて、虎口や周囲を囲む土塁などは全く無い。

 

向こう側に主郭の盛り上がりが見える。

その裾には、井戸らしい浅い穴が2つ並んで開いていた。

向こう側の方が少し高い。

 

この斜面もさほど急傾斜ではないので、歩きやすいところから登ってゆく。

上には平場があるのかと思ったら、山のように盛り上がっていた。

それでも、先端の盛り上がりのこちら側に曲輪らしい平場が広がっていたような感じはする。

ここが主郭らしい。

 

先端が城内の最高点だが、六畳一間ぐらいも無さそう…😨

 

そして、この曲輪の西側…

 

こえ〜よ🥶

 

その下は、落差30メートルはあろうかという崖になっていた。

しかも端のほうの下はエグれてるっぽい🥶

 

なんか、あきる野の戸吹城を思い出す光景…

庇のように突き出しているであろう足元が万一崩落なんぞしたら、ひとたまりもない🥶

 

退散ーん💨💨💦

 

全体としては尾根の裾の広い空間に居住や政務をとる要地を置いて、虎口側をキルゾーンで守り、南に突き出した細尾根上の櫓台で周囲を監視する城だろう。

街道を押さえる関所、番所みたいな城かな…?

 

★城峰山城

長野県大町市八坂

登城口前に草地の駐車スペースあり

山城

 

トップページ 都道府県別索引へ 長野県の索引へ

 

(2024年7月22日 記)

トップページ 都道府県別索引へ 長野県の索引へ

 

花岡城という名前の城は長野県内に他にもあるが、これは安曇野の北の方、池田町の大峰高原入口あたりの高瀬川左岸に構えている城。

築城者や年代などは不明、このあたりの国人領主が築いたものか、と考えられる程度という。発掘調査は行われているようだが中身は確認していない。

緊急発掘調査らしいので送電鉄塔建設関連かな?

 

この日は大町市の丹生子城をターゲットにやってきたが、雨天がちとのことで登城道のあるこの城に目標変更😅

 

現在位置(Googleマップで)

城へは送電鉄塔の巡視路となっている山道を使わせてもらう。

入口は、この広場の奥にある。

 

鉄塔巡視路の標識の下に手作りの「花岡城跡」の案内が😆

 

ここから斜めに少し降り、沢の流心を崩落しかけの木橋でやり過ごす。

 

🐍とか、こえ〜っす😨

 

その先の道は、倒木はあるがしっかりしていて、ヤブコギの心配は無い。

途中、道の真ん中に🍄…

 

左に麓への道を分けて、さらに登ってゆくと、間もなく送電鉄塔が2基続く。

1つ目は東電の壱回線154kVらしい。

 

2つ目は中部電の77kVのようだ。

塔体が下からしか見えないので結界で😂

 

鹿のいななきなどを聞きながらさらに登ってゆくと、しばしの急登。

上がピークっぽい。

 

登ったところはバドミントンコートぐらいのヤブっぽい平場になっていた。

正面の木に「曲輪」なる看板が掛かっている。

ここが城の南端の曲輪らしい。

 

礎石なのかは知らないけど、上が平らな花崗岩が埋まりかけている…

 

通り過ぎてから振り返ると少し盛り上がった曲輪から安曇野方面を望めるようで、たしかに南の方の物見に良さそうな立地😮

 

少し先には、ハッキリそれと分かる堀切🙌

傍らの木に「空堀」なる看板も掛かっている。

 

天端間の幅が3メートル、深さが1メートルほどのちっこいヤツ…

 

だが左右の斜面にちゃんと竪堀を落としている。

ちゃんと作り込まれている😮

 

堀切は尾根上の少し高いところを穿ち、その先は少し低くなっている。

ここは北に向かって少し高くなっていて、削平地かどうか微妙なところ。

 

その先は、高さ1メートルちょいの段になっている。

 

が、傍らの木には「空堀」という看板が掛かっている。

左側を覗き込んでみると…

 

う〜ん…

空堀はあったとしても埋まってしまったようだ…

 

段の上も何となく削平地のように見えるが、北に向かって少し高くなっている。

 

その先は、2段の土壁が見える。

 

この2段の間は、西に向かって大きく広がる帯曲輪になっていた。

 

その上にも50センチぐらいの高さの低い段があり、そこまでの間も帯曲輪状になっていた。

 

その上は、西側が高い傾いた空間になっていた。

 

ここが主郭らしいが、西に向かって高くなっているのはそちらに土塁があって、そこから東に向かって段々になっていたのだろうか…?

 

西側の高まりに登る。

何となく土塁のような感じには見える。

 

そして、低くなった東側は山道より少し入ったところから平坦になっていて、ここが主郭の中心らしい。

 

ちょっとヤブっぽい…

 

この空間、北端が土塁状に高くなっていて、その上を鉄塔巡視路が走っている。

 

そして、この土塁の左右端にそれぞれ、櫓台のような盛り上がりがある😮

まず西側。

 

東側は、さらに奥への道になっている。

 

西の櫓台状の向こう側、急斜面に送電鉄塔が立っている。

結界だけじゃなく老番側に送り出される電線と碍子を撮ろうとすると、こんなんなってしまうノダ😂

狭い…

 

さて城はもう少し北に続き、北東側の櫓台状から北に送り出される尾根にも堀切を穿っている。

踏まれた道も堀切の断面をそのままなぞって凹んでいる。

堀底に丸太積んじゃって…💦

 

いちおう、深さ3メートルばかりの、小さいけど立派な堀切だった。

 

その先は、自然の尾根かもしれないし両側を狭めたかもしれないし、という尾根が続く。

 

この尾根は100メートルほど先で少し低くなっているが、ここが両側をスッパリ切り落とされたような土橋状になっている。

 

東側は下の方まで安息角程度の急斜面だが、西の方は少し緩やかな程度の沢状になっている。

城内側も細尾根が続いて曲輪のような場所がないので自然地形だろうが、まるで土橋のように幅が絞られている。

駿河の徳山城みたく、細い尾根を城の末端に取り込んで、地形を利用して寄せ手に一列縦隊を強いるよう守っていたのかも知れないな…


ともかくも、遺構は薄いだけでなく、それほど厳しく守っているような感じでもなかった。

早い時期に使われなくなった城なのかな…?


★花岡城

長野県北安曇郡池田町宮本

麓の沢沿いに駐車できそうなスペースあるが利用可否は未確認。

山城

 

トップページ 都道府県別索引へ 長野県の索引へ

 

(2024年7月19日 記)

トップページ 都道府県別索引へ

 

二の丸から本丸に移動するのに、間の空堀を詰めまで登ってから横断し、本丸の一段上に広がる稲荷神社の曲輪に出たワタシ😅

本丸へは、神社の前の石段を下りてゆく。

立派な鳥居が立っている。


本丸は、二の丸よりもさらに広いようで、サッカーも出来るか?という広さだった。

北の方は樹林の陰の中で、大土塁がその中に控えている。


中央やや右寄りに、ビワのような形をした凹みがあった。


城内で水を貯める場所は井戸と呼ばれることが多いが、本丸の真ん中にあって円形でない池は、単なる貯水池には見えない…

庭園があった?

 

傍らには、ボソっとアジサイが咲いていた…

史跡じゃ庭園の整備も慎重にしなきゃで、ちょっと淋しげな雰囲気…


本丸虎口は、中央やや北寄りの東側に開口している。

搦手の枡形と同じように、開口部の幅はかなり広くなっている。


その前に本丸を示す標柱と説明板が立っているんだが…


説明板、落下してるやん😢


北曲輪から南の丸まで並ぶ曲輪はこれで全部見て回ったので、ここから帯曲輪へ出た。

振り返る虎口✨


すぐ前に城址碑。

北の丸の中央を貫いて本丸の前まで来た浅い空堀状の動線は、本丸虎口の前からさらに西に続いて、南の丸の下まで続く帯曲輪になっている。

ここが城内のロジスティクスで言えば幹線といったところだな。


もっとも、車の轍は刻まれているし両側には街路樹のような樹木も並んでいるし、舗装されていたら普通に道だぜコレ…

 

先ほどはよく見ずに通過してしまったが、本丸と二の丸の間を仕切る空堀、下側の末端はこの幹線たる帯曲輪に繋がっていない。


末端と帯曲輪が、土橋みたいな土塁で仕切られている。


細かい処理を見せているな…😮

この空堀は、動線とは扱われていなかったのだろう。

 

それに対して、二の丸と三の丸との間を滑り降りてきた空堀は、この帯曲輪と繋がっている。

帯曲輪から見ると、キレイなY字の分岐に見える😮


ここから先帯曲輪は外側の土塁がハッキリ立ち上がってきて、幅広な空堀のような風貌に変わる。


外側の土塁、腰ぐらいの高さがあってシッカリしている。

外側の斜面も、滝倉川に面した西側ほどではないが、傾斜がキツイ。

南の丸の前まで来ると、帯曲輪は南に大きく広がって、武者溜まりのような空間になっていた。

南の丸からも俯瞰できてたな…


ここには、実際に南の丸への登り口らしい溝も刻まれていた。

もちろん曲輪から見下ろしたときには気づかなかった😅


この武者溜まりのような空間の奥には、大手外枡形から七曲り道を登ってきた道が登ってきて、虎口になっている。


ここが重要なポイントであったことは、左側土塁の突端に石積みが嵌め込まれているのを見れば明らかだろう。


よく見ると、反対側にも同じような大きさの石が散乱している。

 

ここから出ずに進むと右に曲がり、西端の大土塁南端から降りてくる竪堀に繋がっている。

あとは七曲り道と南端に見えた虎口と曲輪らしいところが残るだけなので、虎口から出て降りていった。

すぐに右後方に帯曲輪のようなものが分岐するが、ここは南端への道。


まずは七曲り道へ降りてみた。

下の大手外枡形から出られれば、そのまま退城してしまおうという魂胆😅

 

七曲り道は、階段などの整備はされているが下ってゆくと草が多い場所がある、という状態だった。


一部両側からのボサに覆われつつあるところもあったが、問題なく大手外枡形まで降り着いた。

 

だが…

 

完全なる緑の王国や🤯


外枡形の外周土塁はじつにハッキリしていて、枡形なことはバッチリ分かるのだが、土塁はおろか枡形の底まで壮絶なまでに強壮な🌿🌿に覆われ、外がどうなってるか全く見通せなかった😱

外側の土塁天端に登っても、外は背丈を超えるようなヤブで、とてもここから外に出られそうではなかった💦


ここからの退城は諦めて、登り返しっ💦💦

 

七曲り道を虎口直下の分岐まで戻る。

分岐した帯曲輪状は、南の丸脇の虎口の下を回り込むように水平に続いている。


やがて外側が土塁のようになり、動線は空堀のようになる。


そして、この土塁に切れ目が入った虎口状が現れる。

ここは南の丸横の竪堀からも見えていたところ。


ここから出ると、城の南端の平坦地。


ここは曲輪だったろうが、向こうの方からS字を描く車道が登ってきている。

駐車場として整備しようとしたのだろうか…

 

広さもさることながら遺構の密度が特濃級の城内😮

入城が午後3時過ぎになってしまったが、メモ取りなどを全て後回しにして、なんとか総ざらいすることが出来た🙌

追試に入って時間切れで追追試は、さすがにイヤだわ😂


ともかくも土木工事の規模がハンパない。

そして技巧的。

現在残っている遺構は蒲生氏郷時代のものであり、その力と技術の高さを示すもの傑作の一つだろう。

そして、それ以前の河原田氏時代に東からプレッシャーをかけてくる伊達勢を最後まで防ぎきった実力は、伊南川を天険として防御に取り込んだ城の立地からも伝わってくるだろう。

遺構の残り具合、整備とも素晴らしく、南東北でも指折りの名城だろう。


欲を言えば、蒲生氏郷の手が入る前、河原田氏の時代の姿も見てみたい気がする…🙏

 

★久川城

福島県南会津郡南会津町青柳

搦手口付近の奥会津博物館伊南館の駐車場を利用できる。

山城

 

トップページ 都道府県別索引へ

 

(2024年7月18日 記)

トップページ 都道府県別索引へ


久川城の西側は伊南川の支流である滝倉川の谷に面しているが、そちら側は本丸などより20メートルほども盛り上がった巨大な土塁になっていて、上にも遊歩道が通っている。

この大土塁は恐らく元々の尾根の南側を削って曲輪を造成した残りだろうが、それにしてもエゲツナイ土木工事の規模だ😮

この大土塁と外側の垂直に近い土壁のおかげで、城の西側からの侵入はまず不可能だったに違いない。


この大土塁の南端からは、竪堀状で降りてくる。

カーブがなかなか美形な曲線を描いてるでないの🥰

その途中、城外側の側壁に石積みが嵌め込まれていた。
この城、石積みも使っていたのか?😮


下の方に降りてくると、城外側はハッキリ土塁になっていた。


外側は、下まで高低差4メートルぐらいもある斜面になっていて、底には横堀状が見える。

その向こう側の土塁には切れ目があり、向こう側も曲輪のようになっているのが見える😮


ここは城からの退出時に通ったので、ラストで。

 

北の丸から南の城内主要部には、大土塁の東側の裾に本丸、二の丸、三の丸、そして南の丸の順に並んでいる。

そして、これらの曲輪の東側の一段低いところを貫通するように長大な帯曲輪が伸びている、というのが基本的な縄張り。


城の西辺を守る大土塁から竪堀状で降りてきた場所は、南の丸の南側になる。

ここから南の丸へは、トラバースするような武者走り状を通って入ることが出来る。


南の丸は、北の丸などと比べるとかなり狭く、テニスコートがやっと取れそうなぐらいか…

標柱なども無い。


東側を貫く帯曲輪は、ここで大きく広がって曲輪のようになっているらしい。

ここはラス前、退城前に通る。


ちょうど大手枡形から七曲りを登ってきた城道が入ってきたところで、ここも枡形のような役割が与えられていたのかも。


北に隣り合う三の丸との間には、大土塁の方からそれなりの高さの土塁が降りてきている。


さらに一段低くなって、向こう側に三の丸の段が立ち上がっている。

このあたりの造形も複雑で、ちょっと記録を怠ると忘れそう…

じっさい、記録を取らなかったプチオフ会で見た記憶はすっかり失われていた😅


三の丸も南の丸と同じくらいの広さで、標柱なども立っていない。

植林に覆われて薄暗くもなっている。


東側を貫く帯曲輪が、俯瞰すると高速道路のようにも見える😅


見学順路としてはこの帯曲輪が想定されているようで、わざわざ曲輪を見に来る物好きでない限り、この曲輪には足を踏み入れなさそう…


そして、北の端に行ってみると…


何じゃあの竪堀っ🤯


大土塁に向かって登ってゆく巨大な裂け目が、登り土塁の向こう側に見えている。

こんな、ただならぬ雰囲気の竪堀を見たのは信州の城ヶ峰城以来かも知れない…

手前側の土塁には簡単に登る事が出来るので、覗き込んでみる…


スゲェ〜🤩


語彙力喪失…


底に降り立ってみる。


下の方の真ん中に標柱が立っているのは、見学順路だろう東側の帯曲輪からも目に留まるからなのだろう。

後で見てみることにして、まずは上の方へ💨


この空堀は大土塁上の「とりでの道」の分岐近くに突き上げているのだろうが、一定の高さから上がキレイに🌿🌿


大土塁上から見下ろしたようすと比較すると、てっぺんはまだぜんぜん上💦
(大土塁上からの俯瞰)

ここから上は急傾斜で草刈りはタイヘンそうで、見学に登ってくるのもマニアぐらいで、労力をかけて整備する意味は??となっていそう…


途中の倒木にはサルノコシカケらしい🍄…


空堀の一番下は、そのまま帯曲輪に合流している…


空堀の向こう側に鎮座する二の丸の切岸。

これも縦方向に曲線を描いている…


この段を直登するとさすがに切岸を損傷させそうなので、見学順路になってるだろう帯曲輪から北に回る。

車の轍が刻まれてるな…😮


二の丸の真ん中あたりの少し奥まった斜面に、石積みが嵌め込まれていた。

これも現存っぽいが…?


二の丸の虎口は、どうもハッキリせず復元を諦められたような雰囲気で斜面になっている…

違うかもしれない…😅


ここからスタスタ歩いて二の丸に入る。


二の丸は、南の丸や三の丸より格段に広く、ソフトボールが出来そう。


二の丸の北に本丸が隣接しているが、その間にも立派な空堀が横たわっている。

やっぱり奥の大土塁に向かって、ジャンプ台のような曲線を描いて登っているのが印象的。

そして、向こう側の本丸のほうが高い位置にある。

じっさいは高い土塁の天端だった。


この空堀は、西側の大土塁の途中で終わっていて、てっぺんまで突き上げてはいないらしい。


草刈り・整備もこのあたりまでのようだが、その上端に武者走りらしい一筋の空間が走っていた。


この空間は空堀に切られていたが、踏跡が横断して本丸の方に行ける🙌

しかも、本丸側には曲輪があり、また少し低いが本丸よりは明らかに高そうなところに、赤い屋根の建物まで見える。


それにしても、ここから俯瞰する空堀がノルディックスキーのジャンプ台みたい😮


空堀上端を渡る踏跡は土が軟らかくズルズル崩れそうなので、慎重に歩く。

渡り切ると、バドミントンコートぐらいの曲輪に出た。


すぐ下の段、植林の中にに赤い屋根の神社が見えるところ。

扁額には「稲荷大明神」とあった。


この下が本丸になるが、その南端、大土塁に登ってゆく空堀の脇は、立派な土塁だった✨

この分嵩上げされてるから二の丸からは高く見えたのね😮


さて、本丸へは稲荷神社の鳥居へ向かって、石段を降りれば良いだな…


南会津 伊南 久川城 終章に続く)

 

トップページ 都道府県別索引へ

 

(2024年7月17日 記)

トップページ 都道府県別索引へ

 

久川城は南会津町の西の方、伊南川沿いの古町温泉などがある集落対岸の尾根上に構えている。

中世を通じて対岸の駒寄城を居城としていた河原田氏が、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗と対峙するにあたり駒寄城では守りきれぬと判断し、天正十七年(1589年)に築城された。けっきょく翌年の豊臣秀吉による奥州仕置で伊達氏ともども領土を没収されるまで、伊達勢の攻勢を凌ぎきった。

その後は蒲生氏郷、上杉景勝そしてふたたび蒲生氏郷の管理下となり、この間に現在見られる姿に改修されたとのこと。江戸時代に入った慶長十六年(1611年)に廃城。

福島県指定史跡。Wikipediaに記事がある→当該記事へ


この年のGWにXの名物フォロワー氏の招きで訪問したが記録が取れず、前日と打って変わって梅雨空になったこの日に駒寄城を詰城まで落としてから訪問したが、時間を食いすぎてスタートが午後3時になってしまい、日没を気にしながらの駆け足登城となった😅


車は大手虎口の枡形から登るつもりでその前に停めたが、ものすごいヤブで踏み込むのが恐ろしいほどだった。

やむなく初回と同じく北側の搦手から登ることにした。

夏場の大手登城口は草深くてトレイルが見えないほどなので、オーソドックスに搦手側から登ったほうが良い。

このようすはラストで。


ちかくの伊南川の土手に咲いていたタチアオイ。

咲いているのはまだ真ん中あたりだが、梅雨らしいジメジメ、グズグズな空模様…

北に歩いて、大手橋のすぐ北に城跡の大看板😮

ここが城跡だと一目で分かる


登城口には木の標柱が立っているので、ここから山の方へ入ってゆく。


ここには枡形があったということだが、残っていない。

階段の脇に黒い城跡銘板があり、一段高い水路の築堤の向こうに城跡の案内図が立つ。


城山への登りは水路を渡り、朱塗りが剥げかけた鳥居をくぐってつづら折れを登ってゆく。

歩きやすい道で、雨に降られても傘差しでイケそう。


5分も登ると、すぐ上に城郭の雰囲気が漂ってくる。

最後のヘアピンカーブを過ぎると、もう正面がただならぬ土木の薫り…


たどり着いたのは、城の北の玄関口になる枡形門。

幅10メートル近くもありそうな土塁の切れ目の向こう側には、枡形の奥の方になる段のようなものも見える。

動線はここで左に折られる。


土塁の脇に「枡形門跡」という標柱と小さな説明板。

城内の要部にこれが立っている。


城の北端にあたる北出丸の方から枡形を俯瞰。

長年の風霜をうけたか角は丸くなっているが、きれいな方形で、城内側ほど高くなっている。

枡形内を周囲より低くする事で、侵入してきた寄せ手を周囲の土塁上などから包囲攻撃に晒す、恐るべきキルゾーンだ。


北出丸に入る。

枡形に対して守備兵が身を隠す土塁もある。


やっぱり、城の虎口は最後の防衛線。

ガッチリ守り抜かなければというプレッシャーを一手に引き受ける緊張感が、ひしひしと伝わってくるところ。


北出丸は一枚の平面ではなく、高いところと低いところが入り混じる複雑な構造をしている。

総じて枡形に隣り合う南側が高く、北側が低い。


南北の境目の一部がハッキリとした段になっている。


枡形門から入ると動線は左に折れて、すぐ南にひろがる北曲輪の中へ通される。

北曲輪は野球もできそうなほどの広大な曲輪。


動線は一段低い横堀状になっていて、南の本丸に向かって多少曲がりながら進んでいる。


北曲輪の標柱はこの動線の向こう側、だいぶ西寄りに立っていた。


西の方は、北側は土塁もなく西の滝倉川方面に向かって落ちているようで、柵もされていた。

それに対して南側へ行くと、大きな土塁のような尾根が立ち上がって、高さ、幅ともどんどん大きくなっている😮


北曲輪からは、既に南に隣り合う本丸の土塁が見えている。

ただならぬ厳つい表情…


近寄ってみると、土塁の高さは3メートルほどもある😮

そして、裾を立派な空堀が守っていた。

東側の隅で一緒に折れ曲がる


反対の西の方に目をやると…


この空堀、西の大土塁に向かってぐーっと登ってたのね😮

せっかくなので、西の端まで登ってみる。

ここは堀切のようにえぐれ、空堀はそこへ突き上げていた。


ホントに堀切から落ちる竪堀みたいだな…😮

この堀切状は、城の西の方へは落ちていなかった。


城の西側を貫いて守る大土塁は、自然の尾根の削り残しのような感じで、天端も遊歩道になっている。


西の滝倉川方面の斜面はおそろしく急で、とても降りられそうにはなかった。

城の西側の守りはこれでほぼ完璧、大砲の斉射でもしなければ崩せないだろうし、直登するなら今の状態でも登攀具が必要だろう…


さらにこの大土塁、南に向かってジリジリ登っている😮

この大土塁の中間よりやや南寄り、下の曲輪でいうと二の丸と三の丸の間あたりに最高点がある。

ここでは「とりでの道」という案内が立っている。


そちらの方を見ると、たしかに階段が設えられて下に降りられるようになっているようだが、両側の柵が整備中らしく降りることは出来ない。


この先に二の丸と三の丸の境界を仕切る空堀が突き上げて来ているようで、ここも堀切のようになっている。


こういう、多少アップダウンのある細尾根に堀切が入っているところ、何となく房総の山城を思い出すな…😮


その竪堀状も上の方がボサに覆われていて、ちょっと降りるのは面倒くさそう…

ずっと下の方、整備されたところの土の曲線がキレイ✨


最高点を振り返る。

そこそこな高さの小ピークだ。


最高点を過ぎると、大土塁は少しずつ高度を下げていき、100メートルばかり先であっさり終わる。

土塁のもとになったらしい尾根はまだ続くようだが、🌿🌿の中に埋もれて様子がよく分からない…


ここからは、左に鋭角ターンして、竪堀状で降りてゆく。

幅2メートルぐらい、2人並んで歩けるぐらいの幅。


ここを降りてゆくと、南の丸、三の丸…と曲輪が並ぶ、この城の中心となる一帯の南端あたりに出る。

そこにも並ぶ土木の跡が、これまたスゴかった…

 

南会津 伊南 久川城 その2に続く)

 

トップページ 都道府県別索引へ

 

(2024年7月16日 記)