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富塚城は北総線小室駅から国道16号を柏方面に5kmほど進んだ東側、鮮魚街道との交差点(白井市富塚)の北側にある。丘と谷戸が複雑に入り組む北総台地らしい場所で、現地でも存在が認識されていないようす。

歴史も全く不明らしい。


ちょうど健保組合のウォーキングイベント期間も始まって、歩く理由を何とかして作りたかったところから、車ではなく北総線小室駅から徒歩で手賀沼方面へグランドツアーすることにし、その最初に訪問したのが駅から5kmばかり離れたここだった。

途中で、駅チカの新京葉変電所に入ってゆく500kVの重幹線たちが、国道16号を跨いでゆく…


鮮魚街道まで来たら東に入って、すぐに北へ進めば城は間近。

城の南側から近づいてゆくと、手前から城の南側の外を東に入ってゆく切通し道がある。


ここから城の南側を見られるか、と思って入ってゆくと、向こう側の城との間に立派な堀のような谷が広がっていた😮

今は🌿🌿だけど、ほんと堀みたいな場所…


ここから城へは入れなかったので、道に戻ってさらに進む。

そして、舗装された道が二又になって右側が城のある丘へ登ってゆくところの手前から、細い土の道が右前方へ登っている。これが登城口になる。


登道はしっかり踏まれてはいるが🌿🌿っぽい。


右側には、かなり広い凹地が横たわる。


そして、この凹地の奥から竪堀状が登っている。

細いがキレイに道に沿っているので見つけやすい。ただ、少し🌿🌿め…


写真では分かりにくいが、目の当たりにするとけっこうしっかりとした薬研の断面を見せている。


道が登りきる手前で、竪堀状は右の方へ離れてゆく。

そちらの方に城があるが、道を登りきったあたりで踏跡がそちらへ入っているので、冬季以外はそちらから入ったほうが良いだろう。

 

踏跡に入って、ほんの2〜30メートルも進めば…

 

見えて来る…

 

だいぶ薄いけど、教科書のような空堀を渡る土橋+土塁を切り込んだ虎口が😮


これを見る限り、ここが往時から虎口だったのだろう。

この中が主郭。

それにしても、木って門構えみたいに虎口の両側にうまく生えるもんだなぁ😮


空堀は、天端間の幅が5メートル強か。

四街道の山梨城あたりと比べると、一回りぐらい小ぶりか。

左側は、ヤブが濃いぃめ。


右側はくっきり見えている✨


空堀の奥の土塁は、高さ1メートル足らずになっている…

往時は人の背丈ぐらいはあったのかな?


郭内はこんな感じで、蝉しぐれ中ではとても突っ込めない😂


幸い、右側の土塁周りがヤブ少なめなので、そちらから奥へ入ってみる。

虎口から右へ伸びる堀は、主郭の北側で先ほど登城道の脇を走っていた堀から分岐してきているようだ。


北の隅っこから南へ伸びて、西側を守る土塁。


外側には平場っぽいところが広がっているが、南へ下ると5メートルぐらい一気に下がる。

ここの切岸が、なかなかに立派✨


ここには、筑波山の男体山、女体山をご神体にした神社が祀られているが、もうボロボロ…😭


このあたりで主郭から外側に落ちる切岸も、また見事✨


東側は台地続きになっているが、いちおう空堀で区切りは入れてあったようす。

丘城を区切るにしては、ずいぶん頼りない感じもするが…


内側には、しっかり土塁も盛られている。


それにしても、佐倉の大篠塚城などと比べると丘続き側の守りはいかにも細い。印旛日本医大ちかくの鎌苅館に少し似ているかな?

歴史などは全く分からないとのことだが、より古い時代の城なのか、それとも他の違いがあるのか…

 

★富塚城

千葉県白井市富塚

近くに車を停める場所無くバスの便も悪い。徒歩だと高柳、西白井、小室駅等からいずれも約1時間。

丘城?

 

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(2025年9月12日 記)

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新井城は三浦半島の真ん中あたりから西、小網代湾と油壺湾の間に突き出た半島の先端のほうを占めていた城で、源平合戦のころからの名族、三浦氏が終焉を迎えた城として知られる。三浦氏時代には町中の三崎城と一体だったとも。

城域の広い範囲が東大付属の臨海実験所となっていて入ることが出来ない。また少し前まで京急油壺マリンパークがあり、訪問日現在で水族館などの建物解体工事中。

築城時期ははっきりしないらしい。一族内での争いから明応三年(1494年)に三浦義同の城となった。永正九年(1512年)に小田原の伊勢盛時が伊勢原の岡崎城を攻め落として三浦領に侵入し城を包囲した。義同らは引橋を落として籠城しつつ水軍を動かして八丈島を制圧するなど3年間にわたって抵抗を続けたが、扇谷上杉氏などの援軍は全て斥けられて孤立無援となり永正十三年(1516年)に城は落ちた。討たれた三浦一族郎党の地で海が油の壺のように黒く染まったことから「油壺」の地名が生まれたのだとか。


この日は健保組合のウォーキングイベント期間最初の休日ということでハードな城攻めはやめにして、ぶらぶら散歩のつもりで京急線三崎口駅から徒歩で訪問した😅

 

現在位置(Googleマップで)

城の玄関口になるのは、三浦市内・城ヶ島方面への県道26号が国道134号から分かれて間もなくのところにある、引橋。


県道は築堤で一気に飛び越えているが、そこには尾根が少し落ち込んだ堀切のような凹がある。

ただ人工的に掘ったものには見えない…

 

傍らには説明板もある。


この引橋から半島の先の方に構える新井城、三崎城を中心にこの辺り一帯を要塞化して守っていたか、三浦一族😨

 

引橋からすぐで城の方へ向かう道に入ると、遺構のない住宅地が続く。

三浦半島を東西に横断するような尾根上を進むのだが、両側に住宅が並んでいて周囲を見渡せるような場所は少ない。

ここは引橋から600メートルばかり入ったところで、尾根はじりじり高度を下げている。


道は1kmちょい先で広いバス通りに出、さらに城に向かって西へ。

ちょっとだけ、北側の小網代湾が見下ろせる場所があった。


現在位置(Googleマップで)

そして、かつて油壺マリンパークのあったところが近づくところで、左側に国土地理院の検潮所の看板が見えてくる。

もしかして、ここが内引橋…


どうやら、そうらしい。

検潮所まで行く気はさらさら無いので少しだけ入ってみると、深さ3〜4メートルの空堀状になっていた。

ただ向こう側はコンクリで護岸されている。


ここから少し先に、東大臨海実験所の敷地の南側を通って海岸に降りられる道がある。

ここからは遺構が見えるので、入ってみる。


この道は遺構ではないようだが、道端の土の法面がいかにも土塁…😮


しばらく進むと、説明板が見えてくる。

ここから奥に入ってゆく横堀は、柵されているが城の姿を今に伝える貴重な土木の跡✨

奥の方で左右に走る横堀に突き当たっているらしいようすも見えるが、もちろん関係者以外立入禁止。


説明板。


このあたりから先の道、もともとの急斜面の中腹にコンクリ板を渡しただけのようなつくり😮

おかげで、油壺湾までず〜っと落ちる斜面が壊れずに残っているか✨


道の上にも、切岸らしい段。


道はそのまま尾根状になって突端まで行けるようだが、海が見えるあたりで城域は終わりのようす。

いまは相模湾に向けてボコッと盛り上がった緑の斜面を見せるばかり…


折角なので海岸へ降りて、北側へ回り込んでみるか。もちろんこちら側もトラロープなどで規制されている。

海岸沿いは水平に層の走る露岩😮


北のほうへ進むと、いかにも城塁という傾斜と高さの場所も😮

この辺まで来れば人もいなくなる。ゴミは落ちているが…


この上はかつてマリンパークだったあたり。


北端の海岸沿いは崖で通り抜け出来ないが、少し上にごく狭い抜け道が通っている。

この経路は一部波打ち際を通り抜けるようなところもあり、海中は凸凹の岩場なので、潮位が高いときは通れなくなることがあるだろう。

こんなところも通る😨


そして、無事通過できれば横堀海岸から駐車場に戻ることができる。

横堀海岸には内引橋を渡した堀切の反対側が降りてきていたはずだが、残念ながら道や民家の庭などに埋もれたようだ。


あ…

途中にある三浦道寸の墓に寄れなかった💦

 

城をひと通り見て回ったあとは城ヶ島の猫さん達に会いに行こうと思って、三浦の市役所の方に向かってトボトボ歩いて退城した。

三浦氏時代には三崎城まで一体の城だったらしいとのことだが、それらしい痕跡とかはちょっと分からなかった😅


それにしても、途中で見かけた油壺湾の有様…

 

水軍の生まれ変わりじゃねぇだろうな❗️😨


★新井城

神奈川県三浦市小網代

内引橋の手前に市営油壺駐車場あり(1日1000円)。

丘城

 

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(2025年9月11日 記)

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この日成功裡に登城した中野城だったが、麓の熊野神社が城主秋山光朝の居館だったとの記述を説明板で目にし、時間があったので訪問することにした。

館跡は中野城のある城山の東南東3kmほどの麓にあって、いまは広域農道がすぐ西を通っている。 


北側少しのところに小さな駐車場があったので、そこに車を置いて出発。

山上は気温30℃ほどで涼しかったが、麓はガチ猛暑日…🥵


現在位置(Googleマップで)

近づいてゆくと、集落の中に盛り上がる社叢林…


社叢林だけでなく地面自体も盛り上がっていて、ミニ平山城のようになっていたようだ。

北東の隅っこまで行ってから、コンクリと石段の道で登ってゆく。

境内は周囲より高く、参道の脇にも斜面が立ち上がっている。


そして、熊野神社の最高所が境内。

けっこう広さがあり、東西に長いようだが中之橋で東郭と西郭に分かれていた名残のようだ。


南から登ってくる表参道の脇に史跡の標柱が立っている。


反対側には、光朝公供養の経筒に関する説明板。

建久八年(1197年)、十三回忌に弟の光経が営んだ大法要の際に経文を納めた経筒を埋設し、それが後年発掘されたとのこと。


さて、この館の中央には南北に堀が入っていて中之橋で渡り、東西両側が曲輪になってそれぞれの南側に門があったようだ。

西側がいまの熊野神社の境内で、曲輪の門がそのまま表参道になったようす。

中央の堀は残っていないようだったが、先ほど登ってきた参道の脇南側に、何やら登ってくる竪堀みたいなやつが…😮


この下に何があるかと東から回り込んでみると、秋山天神という扁額のついた鳥居が一段上に立っていた。


先ほどの竪堀状は、ここから入っていた。


これが東郭の虎口とすると、東郭は隅っこをだいぶ削り取られているような感じ…

もちろん素人考え😅

 

なおこの秋山天神、最初に見たときはちっこい石龕にしか見えなかった…


が、ここでお会いした地元の方のお話によると、中野城もしくは雨鳴城に敗れた秋山光朝が実子をひそかに舂米(つきよね、今の富士川町)の城大工に託し、その子が成長して父の御霊を祀ったのが、この秋山天神とのこと。
凄い歴史の一コマを、この小さな石龕は密やかに語っていたか😨

さて、遺構らしいものは他に無いようなので、南から西へ回って引き揚げるか。
帰りがけに、熊野神社の表参道に構える鳥居⛩️
もとは館の西門だったか。

そして、西のほうが丘続きっぽくなっているが、そちらから眺めてもしっかり盛り上がっている✨
もともとは堀が入っていたようだけど、見つけられなかった…

だいたい、こんなところか。

これでも盛り上がった丘の上に構えていた面影が残っているようなので、1城カウントね😎

西にそびえる山にを構え、最期はそこに斃れたという武人の足跡を、思わぬ形で偲ぶことが出来た。

 

★秋山光朝館

山梨県南アルプス市秋山角屋敷

200メートル北のこの場所(→Googleマップ)に駐車場あり。

平山城

 

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(2025年9月10日 記)

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中野城は甲府盆地の西側に聳える南アルプスの前衛、櫛形山の東麓に降りてきた尾根上にある。すぐ近くに桜池があり、城から南東へと尾根が降りている。この尾根上には支城ともいわれる雨鳴城北山城が連なっている。

甲斐源氏秋山光朝の城といわれる。いまは熊野神社のある東麓の丘にかつては居館があった。源頼朝から謀反の罪で攻められ「雨鳴山」で自害したと伝わっていて、それがこの中野城のある山と言われているらしい。


この日は少し前に体調を崩して鬼の霍乱😅前日ゆっくり休み、先月登り残したこの城に11時近くになってから登り始めた。少々頭重いがそんなん知るかっ🥵


現在位置(Googleマップで)

城への登り口は、林道が桜池まわりの平坦地から北の方へ下り始めたところにある。

道標と説明板が立っているので、迷うことなく辿り着けるのが有難い😊


説明板。

鳥瞰図や縄張図なども描かれて、予習無しで登れる✨


登城道は、説明板の前から小さな沢城を渡って反対側の斜面へ。

傾斜の緩い斜面だが、直登でもなく少し回り込むように登ってゆく。


分岐らしいものはほぼ無く、整備も行き届いている✨こんな道標もシッカリ😊


道はいちど小ピークに登り、少し下ってから城山直下の登りにかかる。

その鞍部がごく浅い堀切のようにも見えたが、人手で掘り下げたような跡は全く見えず…


ここから斜度はさすがにキツくなるが、道はつづら折れなどでさほど急にならずに登れる。

そして、鞍部から10分も登れば、たおやかな尾根上に出る。この先に城がある。


前方に説明板らしいものが見えるあたりからすぐ上が、城山のピークらしい🙌


左側には谷状が登ってきている。


戦国時代の城とかだったら、すわ大手道❗️となるところだったが、この谷は虎口から西にズレた方へ登っていて、山のてっぺんに自然な感じで食い込んでいる。

 

説明板の内容。

すぐ前に虎口があるとのこと。


少し進むと、なるほど…

土塁の切れ目らしいところがある😮


もしかして戦国時代より明らかに前の城で、こんなハッキリした土木工事の跡を見たの初めてかも…😮

そして、左側の土塁っぽいやつは外側が切岸のように落ちながら、数十メートル先まで続いている感じ。


しかし、右側はすぐに終わっていた…


虎口の中も、建物を建てるための平坦地を造成するような土木工事がされたように見えるかと言われると、微妙な感じ…

正面は完全な丸い丘にしか見えぬ…😮


左側は、奥の方に横堀みたいなのが走って、その向こうに塚のようなものが立ち上がっている?


行ってみると、その塚の上に建物が立つようなスペースは無く、全体が南から東へカーブする土塁のような感じだった…


ここから眺める城内が絶景✨

北の方へ向かって続く尾根…

さて、ここからは北に城塁のある尾根が続くので、その起点になる虎口正面の盛り上がりへ。

道もそちらへ登っていて、その上が主郭らしいところ。

削平されたような、やや南に傾いているような、不思議なところ…


ここに説明板が立っている。


ここから北へ進むと北側の曲輪へと続く尾根に入るが、まずは東側を見てみる。

こちら側にも曲輪があるとのことで、目を向けると降りてゆく土塁のような小尾根が目に留まる…


これに沿って降りてゆくと、何やら曲輪のような平坦地が尾根に抱かれているのが見えてくる😮


ここもやや南に傾いているようだが、平坦地にするための土木工事はされたような感じ。

広さはバドミントンコートより少し狭いぐらいで、南側が斜面になって降りている。


この斜面の下の方を見やると、ずいぶん下に曲輪のようなものが見える。

あそこまでも城の範囲だったか😨


あそこまで降りてしまうと労力がかかるだけでなく迷子にもなりそうなので、俯瞰だけでやめて主客に戻った。

 

そして、城の北側へ続く尾根💨

 

尾根上にも道が付けられているが、多少アップダウンがある。


そしてここは、東側の斜面が見どころ。

コレ、落ちたら止まらんやろ🥶


1つ目のピークを越えた先が、細尾根チックで絶景✨


その先の小ピークには展望台があるのだが、その下もほぼ垂壁🥶


この展望台も、何十年かでゴッソリ落ちそう…💦

樹林が繁茂して展望も利かなくなってきてもいる…


北から登ってくるかなり大きな、しかし堀切と言うには浅すぎるような鞍部が入る。

尾根の西側は、東側とは打って変わってたおやかな山容😮

その向こうに小ピーク。

東側の斜面、ここは絶壁というほどではなくなったけど、相変わらず険しいな😨


そして、ここから北が平坦地っぽくなっている。

削平されたかどうかは例によって怪しいが、ここから先が北側の曲輪ということになるのだろう。


この空間、奥がものすごく広くなっている。

西に大きく広がっていて、やや傾いているが全体はソフトボール場ぐらいありそう😮


で、相変わらず東側の崩壊っぷりが凄まじい💦

ここは落ちたら命ない…🥶



この曲輪の北側には、ごく小さな帯曲輪が造成されているようだ。


といった感じの城。

土木の跡はほんの僅かだったけど、東側の険悪な崖が連なる尾根上とは、よくこんな築城もってこいの場所があったな、と思った。

こんな険しいところに非常時の備えを置かなければならず、しかも最期はここで主君の軍勢に討たれるとか、どれだけ生き辛い時代だったのか…😢


このあと、麓の秋山光朝館の跡も見てきた。

 

★中野城

山梨県南アルプス市中野

駐車場は無いので桜ヶ池周辺の路肩などに停めるしか無い。

山城

 

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(2025年9月10日 記)

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福田城は中部横断道佐久穂ICから1.5kmほど北沢川沿いを遡った北側の尾根上にある。東端の曲輪に赤い屋根の明光寺があって目印になるが、路地が狭くて車での訪問はかなり厳しい。

歴史は不明だが天正年間に福田美作守なる人物が居城としていたとのこと。尾根の南側に階段状の帯曲輪を多数設えた縄張りのようす。


この日は最初に北側の雁峰城に登ったが、城域が広くて時間を食い、なおかつ車を停める場所を探してウロウロし、登り始めが昼頃になってしまった。

 

現在位置(Googleマップで)

東側の明光寺から登るのが大手のようだが、道が狭い上に車を停めるところがなかったので、裏側の御嶽蔵王大権現のある切通しから登ることにした。


なお、周囲が工事中で登り口下の広場が立入禁止になっていたが、城のある山側の尾根にはギリギリ取り付くことが出来た。

入ってゆくと、なんと城のほうへ道が登っていた😮


道が尾根上に出ると、間もなく祠の立つ平らな小ピークがあった。

それだけの平場だが、宮坂武男先生の鳥瞰図通りで嬉しくなってくる😆


ここから先にも道らしいものが続いているが、🌿🌿の濃さが爆上がりっ💦


地面が見えず危ないので、左側の斜面の中が灌木で地面が見えるので、そちらへ移ってなおも進む。

ヤブは10メートルほどで薄くなってくるので道に戻り、なおも進むとそれなりの広さのある平場に出た。

ただ、けっこう凸凹がある。


奥へ進むと、一段下がっている。

向こうには堀切らしいものが…


この堀切だが、こちら側の曲輪の縁に大きな木が生えていて、全体を広く見渡すには南の方へ行くようにする。

🌿🌿が深いが、しっかり掘られているようす✨


底に降りてみる。

尾根線より北側は、鋭い薬研堀になっている。


それに対して、南側は浅く広い。

底が埋まった箱堀のような感じになっている…


主郭部側の壁。

高さ2メートルほどで、上に登る踏跡が付いている…😮


登ってみると、またも🌿🌿の園😂

幸い、地面は見える。


さっき越えてきた堀切を見下ろしてみる。

深く切れ込んでいるだけでなく影にも入っていて、怖いぐらい😨


さて、奥へ入ってゆくと間もなく、行く手が盛り上がってくる。

これが主郭の盛り上がりだろう。


南側はちゃんと切岸加工されたようで、それなりの傾斜を保っている。

ちょっと大人しいか…


下には帯曲輪もあるらしい。


さて主郭のほうへ進んでみると、森が突然途切れて鳥居の立つ平場に出た。

おう❗️ここから降りられるか🙌と思ったが、世の中そう甘くはなかった…


ここは上下二段になっていて、上段にはブロック塀に囲まれた祠が立っている。

神社の境内になっているらしい。


祠の左右は両方とも、かなり深いササヤブになっていた。

コレじゃ突っ込めん😂

ま、けっきょく突っ込んで進むしかなかったんだけど…🥶


ここから東の方は観音堂を通って明光寺まで階段状が続いているようだが、ここは神社の参道から一旦下山しようと思って、鳥居の下から階段道を下ってみた。

先ほど見えた帯曲輪らしい平場の下の切岸が、すぐ脇に見える。


そして、降りていった先でかなり大きな帯曲輪に出た。


まだかなり高いところにいて、集落までの道もなく🌿🌿な斜面と、さらに下にもう一段帯曲輪のようなものが見えている…

これは、ここから下ると民家の庭を通過するハメになりそうなので、ここからの下山は諦めた。


これで探索を諦めて引き返すか、それとも東へ抜けられるルートを探すか…🥶

仕方ないので、主郭の北の方へ回り込んでから東へ進むと、🌿🌿の薄いところが続いて、東の方に進むことが出来た。

主郭の東側の段は、一部崩れているのか土橋のような動線を盛っているのか、歩いて降りる事が出来た😮


ここからがまた難関だったが、北の斜面が日当たりが悪いようで🌿🌿が少なく、平坦地に出たり斜面を下ったりしながら進んだ。

途中にも階段状あるみたい…


さらにヤブを縫っていると、北のほう北のほうへと追いやられてゆく😂

それでも、しっかりとした切岸が見えたりした。


このあたりの上が平坦になっているようだったので登ってみると、そこは二段になった曲輪だった。


真ん中に小さな石龕…


上の平場には🌿🌿が生えているが、削平はしっかりしている。


奥に塚のような盛り上がりがあって、奥の方にまた石龕。


ここからは尾根の高度が急激に下がる。

下は畑のようで、柵も見えた。

後で見た蚕神社前の説明板によれば三郭になるか。ということは今いるのは二郭になる。


ここから、柵を避けるように北側の斜面を進んだが、最後が地面の見えないササヤブと野バラのコンボで、通り抜けるのに苦労した。

南側から降りられるかどうかは確かめなかったが、少なくとも眺望は良かった。

下から見上げる二郭方面。


柵の南側は刈り払われてもいた。


そして柵に囲まれた横を抜けると、広場になっていた。
左端が蚕神社、ほかは集会所や物置などらしい。

説明板が立っていた。
各曲輪とかの名前はこれでようやく同定出来た😅

さて、そろそろ帰らねば…
明光寺との間を切通しで抜ける道へ降りて、車を置いた西の方まで麓の道から戻った。
明光寺の方にもまだ城域が続いているようだが、ここはそれを区画する堀切でもあったか?

明光寺側はお寺さんの場所とのことで、外郭でもあり無理には入らず、これで退散した。

さて、帰るっ💨

 

探索できた部分は尾根線周辺のわずかな部分だけで、しかも🌿🌿の濃いぃ場所が多く、なかなかの難物だった😅

それでも、城があった頃の面影はあちこちに残っていて、冷や汗をかきながらも楽しい登城だった。

せっかく立派な説明板も立ったことだし、謎の解明が進むといいなぁ🤗

 

★福田城

長野県南佐久郡佐久穂町上

近くに駐車場所無く登城口も分かりづらい。主郭東側は遺構に乏しくヤブ深いので東西に分けるのが良い。

山城

 

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(2025年9月9日 記)