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久川城は南会津町の西の方、伊南川沿いの古町温泉などがある集落対岸の尾根上に構えている。

中世を通じて対岸の駒寄城を居城としていた河原田氏が、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗と対峙するにあたり駒寄城では守りきれぬと判断し、天正十七年(1589年)に築城された。けっきょく翌年の豊臣秀吉による奥州仕置で伊達氏ともども領土を没収されるまで、伊達勢の攻勢を凌ぎきった。

その後は蒲生氏郷、上杉景勝そしてふたたび蒲生氏郷の管理下となり、この間に現在見られる姿に改修されたとのこと。江戸時代に入った慶長十六年(1611年)に廃城。

福島県指定史跡。Wikipediaに記事がある→当該記事へ


この年のGWにXの名物フォロワー氏の招きで訪問したが記録が取れず、前日と打って変わって梅雨空になったこの日に駒寄城を詰城まで落としてから訪問したが、時間を食いすぎてスタートが午後3時になってしまい、日没を気にしながらの駆け足登城となった😅


車は大手虎口の枡形から登るつもりでその前に停めたが、ものすごいヤブで踏み込むのが恐ろしいほどだった。

やむなく初回と同じく北側の搦手から登ることにした。

夏場の大手登城口は草深くてトレイルが見えないほどなので、オーソドックスに搦手側から登ったほうが良い。

このようすはラストで。


ちかくの伊南川の土手に咲いていたタチアオイ。

咲いているのはまだ真ん中あたりだが、梅雨らしいジメジメ、グズグズな空模様…

北に歩いて、大手橋のすぐ北に城跡の大看板😮

ここが城跡だと一目で分かる


登城口には木の標柱が立っているので、ここから山の方へ入ってゆく。


ここには枡形があったということだが、残っていない。

階段の脇に黒い城跡銘板があり、一段高い水路の築堤の向こうに城跡の案内図が立つ。


城山への登りは水路を渡り、朱塗りが剥げかけた鳥居をくぐってつづら折れを登ってゆく。

歩きやすい道で、雨に降られても傘差しでイケそう。


5分も登ると、すぐ上に城郭の雰囲気が漂ってくる。

最後のヘアピンカーブを過ぎると、もう正面がただならぬ土木の薫り…


たどり着いたのは、城の北の玄関口になる枡形門。

幅10メートル近くもありそうな土塁の切れ目の向こう側には、枡形の奥の方になる段のようなものも見える。

動線はここで左に折られる。


土塁の脇に「枡形門跡」という標柱と小さな説明板。

城内の要部にこれが立っている。


城の北端にあたる北出丸の方から枡形を俯瞰。

長年の風霜をうけたか角は丸くなっているが、きれいな方形で、城内側ほど高くなっている。

枡形内を周囲より低くする事で、侵入してきた寄せ手を周囲の土塁上などから包囲攻撃に晒す、恐るべきキルゾーンだ。


北出丸に入る。

枡形に対して守備兵が身を隠す土塁もある。


やっぱり、城の虎口は最後の防衛線。

ガッチリ守り抜かなければというプレッシャーを一手に引き受ける緊張感が、ひしひしと伝わってくるところ。


北出丸は一枚の平面ではなく、高いところと低いところが入り混じる複雑な構造をしている。

総じて枡形に隣り合う南側が高く、北側が低い。


南北の境目の一部がハッキリとした段になっている。


枡形門から入ると動線は左に折れて、すぐ南にひろがる北曲輪の中へ通される。

北曲輪は野球もできそうなほどの広大な曲輪。


動線は一段低い横堀状になっていて、南の本丸に向かって多少曲がりながら進んでいる。


北曲輪の標柱はこの動線の向こう側、だいぶ西寄りに立っていた。


西の方は、北側は土塁もなく西の滝倉川方面に向かって落ちているようで、柵もされていた。

それに対して南側へ行くと、大きな土塁のような尾根が立ち上がって、高さ、幅ともどんどん大きくなっている😮


北曲輪からは、既に南に隣り合う本丸の土塁が見えている。

ただならぬ厳つい表情…


近寄ってみると、土塁の高さは3メートルほどもある😮

そして、裾を立派な空堀が守っていた。

東側の隅で一緒に折れ曲がる


反対の西の方に目をやると…


この空堀、西の大土塁に向かってぐーっと登ってたのね😮

せっかくなので、西の端まで登ってみる。

ここは堀切のようにえぐれ、空堀はそこへ突き上げていた。


ホントに堀切から落ちる竪堀みたいだな…😮

この堀切状は、城の西の方へは落ちていなかった。


城の西側を貫いて守る大土塁は、自然の尾根の削り残しのような感じで、天端も遊歩道になっている。


西の滝倉川方面の斜面はおそろしく急で、とても降りられそうにはなかった。

城の西側の守りはこれでほぼ完璧、大砲の斉射でもしなければ崩せないだろうし、直登するなら今の状態でも登攀具が必要だろう…


さらにこの大土塁、南に向かってジリジリ登っている😮

この大土塁の中間よりやや南寄り、下の曲輪でいうと二の丸と三の丸の間あたりに最高点がある。

ここでは「とりでの道」という案内が立っている。


そちらの方を見ると、たしかに階段が設えられて下に降りられるようになっているようだが、両側の柵が整備中らしく降りることは出来ない。


この先に二の丸と三の丸の境界を仕切る空堀が突き上げて来ているようで、ここも堀切のようになっている。


こういう、多少アップダウンのある細尾根に堀切が入っているところ、何となく房総の山城を思い出すな…😮


その竪堀状も上の方がボサに覆われていて、ちょっと降りるのは面倒くさそう…

ずっと下の方、整備されたところの土の曲線がキレイ✨


最高点を振り返る。

そこそこな高さの小ピークだ。


最高点を過ぎると、大土塁は少しずつ高度を下げていき、100メートルばかり先であっさり終わる。

土塁のもとになったらしい尾根はまだ続くようだが、🌿🌿の中に埋もれて様子がよく分からない…


ここからは、左に鋭角ターンして、竪堀状で降りてゆく。

幅2メートルぐらい、2人並んで歩けるぐらいの幅。


ここを降りてゆくと、南の丸、三の丸…と曲輪が並ぶ、この城の中心となる一帯の南端あたりに出る。

そこにも並ぶ土木の跡が、これまたスゴかった…

 

南会津 伊南 久川城 その2に続く)

 

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(2024年7月16日 記)