死 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

そういうわけで憂国忌(三島の命日)である今日という日もなんとか終わろうとしている。

三島は生前、楯の会メンバーといろんな店に食事に行っては卓を囲って、

「死の美学」とか「男の死にざま」について熱く語っていたそうだ。


別に三島がそうだったから、オレも語るとかいうワケではなく、オレもオレでハタチくらいの

時から、価値観のあう仲間(どうしても長渕ファン尾崎ファンになってしまうがw)と

語る事は好きだったし、昨日も「墓参り」の記事だったから、せっかくなんで、ここで

一回くらいこういうテーマを書いておこうと思う。



ストレートで単純に重いネタなんで、もし不快になりそうだったり、

あるいは、ここ少しの間で大事な人を失ったりで、いろいろ思いだしたりして辛くなりそうな方は

ここで読むのをやめて頂きたい。


そして、もし配慮に欠けた表現があったとしたら、それはお詫びするが、書いていることは

挑発でもおフザケでもなく、オレなりの真剣だということはご理解いただいたうえで

読んで頂ける方は、これから先を読んで頂ければと思う。


少し前にも友人と「死」というモノのついて、30分ほど語った。スカイプだけど。

それなりに互いの考え方を交し、価値観などの共有も出来たと思うし、新たな疑問点も

見つけるが出来たのでないかと感じた。


まだ20歳前後の時にもバイト先で、気の合う2コ下後輩(長渕ファン)がいて、職場で何気に

語って、意見が一致したことがあった。



その時、オレが後輩に言ったことは


「何かと『簡単に死ぬって言う言葉を使うな』って怒る人いるけど、死って誰にも必ず来るもの

だからオレはもっと身近なモノとして、多少は日常の中で普通に口にするほうがイイと思うんだよ」


そして、オレの投げかけに同意した後輩の答えは


「そうですよね。なんか世の中って、死という言葉を『タブー』として日常会話とかの中から

排除しようって風潮があって、それはもっとキケンなことじゃないかって思います」


という答え。


さて、皆さんはどうお思いだろうか?


誤解しないでいただきたいが、いくら日常で使うと言ってもそれは限度や状況というモノがある。


どんなに仲が良くても、会ったり飲みに行くたびに毎回「死」についての討論を持ちかけられたら

いやだろうし、その人がいくら辛い目にあっているっていっても、何度も繰り返し簡単に「死にたい」

とか聞かされたら、聞く方もうんざりするだろう。


また、例え一生に一回だけだとしても、結婚式に参加して、隣に席の人に向かって

「ちょっと死について話しませんか?」とか「僕、死のうかと思っているんですけど」とか

言ったりするなんてのは問題外である。


状況を考えなかったり、あまりにも簡単に何度も「死」と言葉を出すには問題だと思うが

日常会話の中から、「死」という言葉を「縁起でもないモノ」「タブー」として完全に排除するという

姿勢はどうなのかということを問いたい。


最近は、年齢が近かった桜塚やっくんが若くして事故死した。

ここ数年の芸能界でも、飯島愛、村田渚(元フォークダンスで成子坂)、姉妹ユニットのオネエサン

のほう。スポーツ界では巨人の木村拓也、漫画界では風間やんわり……など、オレとたいして

年齢が変わらない人達が他界していっている。


また、事故や病気でなく、いきなりの理不尽な事件に巻き込まれて、唐突の死を迎えてしまった

人たちもいる。秋葉原事件に9.11……



誰が、いつ、どこで、どういう状況で亡くなるかはわからないのだ。


これまでの歴史からの統計で、日本、または世界において、

年間にどのくらいの人が事故でなくなっている、病気で亡くなっている、

テロや無差別事件に巻き込まれてなくなっているかというパーセンテージはある程度は

はじき出され、それはわずか1年前後の間で爆発的に増減するということはないだろう。


ただ、

『パーセンテージは予測できるが、そのパーセンテージが誰のもとに降りかかるかまでは、誰も想像できない』のだと思う。


それこそ、秋葉原事件のような人為的なモノで命を落とす人が、年間で

人口の0.000001パーセントだとしよう。


この割合の低さをきけば、誰もが安心すると思うが、いくら少ないと言っても「誰か」の

もとには必ず降りかかるには違いない。


誰にふりかかるかは、それこそ「平等」である。

だが、誰もが、「この確率なら自分にくることはないだろう」と思うだろう。

だけど、そう考えている誰かのもとには降りかかるのだ。


だから明日、明後日に誰がどうなってもおかしくないということだ。


もちろん、引きこもりの人や在宅勤務の人は、その交通事故や無差別殺傷遭遇の確率は

比較的、周囲よりも低くなるとは思う。


だが、事故事件遭遇確率は低くなっても、病気発祥の確率は、他の人と同じで下げることは

出来ない。運動や健康食程度んぽフォローならできるかもしれないが、それでもなるときはなる。


誰にいつ降りかかるかわからないものとして。もっと「死」を、それこそ道端に落ちている石ころの

ように、すごく身近なものとして隣にあるものとして考えておかなければいけないのだろうかと。


普段から「死」という言葉や概念を避けている人は、いざ、予想もしないその時が来たら

意識が消えるまで、自分の人生を整理できるのだろうか。


例えば、先程の秋葉原事件とかの例。


皆さんがもし、楽しい気分で町を歩いていて、いきなり訳も分からず後ろから刺されたとする。

そして、もうすぐ絶命してしまうということはなんとなく感じたとしよう。


あくまで想像だが、普段から多少、死というものを考えている人間は刺されたあとに

自分の意識がもう数分で途切れると察した時に、おそらく少しだけ冷静に


「ああ、私は何もわるいことはしてないけど、おそらく理不尽な通り魔事件に巻き込まれて

うしろから刺されて、もうすぐ死ぬということなんだな、ついてないな。

せめて意識が途切れて死ぬまえに、犯人逮捕を願うと同時に、今ままでお世話になった人に

感謝して、去ろう」


と言ったように完全に死ぬまで多少の「気持ちの整理」は出来ると思う。


でも。死をタブー視して、日常会話から完全にう排除して生きてきた人は、いきなり後ろから

刺されても 

「え!? なに?なに!? 私、刺されたの? ちょっと何で!」

と言ったように、アタフタと何も理解できないまま、去ってゆくのではないかと思ってしまう。


また、もしオレが他界しても、オレの死を「腫れもの」や「忌まわしいもの」と捉えるんじゃないか

と思い怖くなる。


「死」をまったく口にしないほうが、いずれくる現実からの「逃避」ではないのか?

「夢」はかなわないかもしれない。

でも「死」は必ずくる。


最近「終活」とかいう言葉が流行っていて、それがどういうモンかは知らないが

オレが書きたいのはそれとは別だと思うけど。


オレは以前にこのコラムでたまに「短編ノワール」を執筆して、その多くが「死」に絡んだ

物語だったが、それは別にキワモノを描きたかったわけじゃない。

ある程度は明るさや元気の押しつけが目だつ世の中に対する挑発というのはあったが

それも含めて警鐘で書いたつもりだった。


以前にも記事で少しだけ書いたが、アメリカ始め海外の家族の食卓や、友人同士で酒を囲んだような場所で、ひとりが「自殺問題」について語りだすと、周りは真剣に耳を傾けて、意見を求めると

聞いている人間全員がどんどん意見を出してきて、みんなアツく語り出したりするようだ。


まあ、あくまで我々は日本人だし、国によって文化の違いはあるわけだから、別にマネしろとか

あっちのほうが正常だとかいうつもりはないが、それでも、家族の食卓や友人同士の飲みの場で

「死」とか「自殺」の話題を出すと、

「そんな話はやめろ」とか「暗いネタはやめようぜ」という流れになるのは日本くらいらしい。


良く言えば「明るい」「前向き」 悪く言えば「危機感ゼロ」「能天気」


でも、そういう人間に限って、身近な人間がなくなったりしたら、急に死の大きさについて語りだしたりすることもありそう。


それは人間として、ごく当然かもしれんが、身近な人間がなくなっていきなり「死」について

真剣にベラベラ語るようになるってことは、なんとなく地震や原発に対する大多数の価値観に

似ている。


起きる前までは、「今そんな盛り下がる話するな」とか「そんなこと気にしてたら何もできないよ」

とかさんざん言ってるくせに、いざ、そうなったら急に熱く語りだしたりする輩が多そうで怖い

今まで飲み会の場とかで語りたがらなかったくせに、急に「オレの意見を聞いてくれ」みたいに。


実際に起きてから……つまり、大事な人が死んでから、急にあつく語りだすようじゃ遅いと

いうか、死に対する意識への発動が遅すぎるのではないか?


ボーイスカウトで使う標語の中に「そなえよつねに」という言葉があったような記憶がある。

なにも無い平和な時でも、つねに備えておけということだったと思う。


「死」というものはいつ、誰に、どのようにふりかかるかわからない。

また誰に降りかかってもおかしくない。


そして、いつかは誰にも訪れるもそれなりに「重い」「重要」なことだ。 

地球上で唯一、平等に誰にでも与えられるもの、それが「死」


そんな「重い」ものだからこそ、ある程度は「軽く」日常会話の中に織り交ぜて絶えずその

言葉を何処かに意識して留めておけるように、また、日常の隣にあうように思っておかなければ

ならないんじゃないかとオレは考える。


言いたいこと、伝わるかなー?


オレだって、ホントはこんな宗教っぽいことや、教育論ぽいことは書きたくないんだよね……


だけどね、何かとあれば必要以上に「死ぬ」を連呼し過ぎる者も、どうかと思うけど、

「死」と言う言葉を放った人間に対して「簡単に死にたいとかいうな」「死の話なんてすんな!」

とかいう者もどうかと思う。


いわゆる両極端なんだな、これが。


でもね、

別に友人や身内が亡くなっていなかったり、社会でテロや大事故やイジメ自殺が起きて

大きな話題にならなくても、年に一回や二回くらいは仲間同士とか酒飲みながらでもいいから

真剣に「死」についてとかじっくり語ってみてもいいんじゃないか……というか、語るくらいの

風潮がこの国には必要なんじゃないかね。


「前向き」な人間とは言いかえれば、後ろを振り向けない臆病者のようなものではないのか?