Cleat からのメッセージ -10ページ目

「無思想の発見」を読んで→ 日本型ブランディング1

それでは、日本メーカーはどのようにしてブランド化に取り組めばよいのだろう?
養老氏は、日本人は思想や宗教の代わりに「世間」を善悪の基準としているという。
 では同様にブランドを世間との関係おいて作るべきか?といえばそれも違う。 そんなものがブランドとして、輝くことはありえないし、第一どうしたらよいかわからない。 ブランドの約束・価値を、顧客や社会と共有化しつつ形成するというのも実に日本的に思うが、はたしてそれが「ブランド」と認識されるのかと言えばそれもちがう。
 信用という意味で言えば、それは正しいと思う。しかしそのやり方ではパワーブランドと言われる域にまで達しないようにも思う。

創業から30年以上が過ぎ、知名度もあるメーカーはすでに、世間に知覚品質が形成されきっている。 知覚品質などと難しい言葉を使ってしまったが、簡単に言えば「その会社の格」を意味する。 トヨタはトヨタの、ソニーはソニーの、三越は三越の、それぞれ「格」を形成している

それはまず変わらない。 その会社を知っている人が稀になれば変えようがあるものの、知られているうちは変わらない。 ブランド戦略を行う会社はそれを知っていながら、それを認めたがらない場合が多い。 ゆえに会社をブランド語録でやたら飾りつける。

中には確かにその会社を表現するに相応しい言葉があったとしても、それは今まで書いてきたように「思想のような言葉」でなりたっているため「どうも嘘っぽいんだよなあ」あつかいされ、無視されるもしくはバカにされる。

私の考えはこうだ
無理して、すでに有名になったブランド(主に社名と同じ)の知覚品質を向上させようとしない。 ましてや多くの言葉(ブランドビジョンとか、ブランドスローガンとか)を表にさらけ出さないことである。

「無思想の発見」を読んで5

これまでの引用をまとめると、次のようになる

日本人の多くは・・・・
1.少なくとも自分には思想・宗教はないと思っている
2.思想なんか無いと思っているので、言葉による思想を抑圧する
3.思想・宗教を語る日本人に違和感を感じ、敬遠・無視・偽者扱いする
4.外国人が思想・宗教を語ることに違和感を感じない
5.海外で思想家として認められた日本人は、もはや外人なので思想を語っても許される
6.自分の思想でなければ、自分に責任がないので、ファッション感覚で、外国の思想・宗教を取り入れてしまうお茶目さがある。
7.形を信じている。 形に思想はいらないが、動かしがたい。 形は眼に見えるから真実だと思っている

これを日本型ブランド (メーカー篇)に置き換えてみると面白い。
多くのメーカーサラリーマンは
1.自分の会社のブランド価値は低いと思っている。 
2.自社のブランドスローガンに嘘くささを感じている。 社員はそんなことお構いなし。経営者は儲け第一だと思っている。
3.ブランド活動に違和感を感じる。 外部コンサルは外国かぶれで、コカコーラやBMWの話しばかりする
4.ナイキ、BMW、アップルといった海外ブランドを尊敬している
5.ソニーのように海外でブランド化に成功した会社は、日本の会社だけれども違和感無く尊敬している。
6.外資に勤めてしまえば、すっかり自分もそのブランドに染まってしまうし、染まっている友人を別に変だとは感じない。
7.言葉にはできてないけれど、商品を信じている。 商品は真実だと思っている。 開発・製造に手を抜くことはない。

はたして上記日本型ブランドにおける7番ができているのなら、ブランドスローガンやブランドビジョンで社員を縛ったりする必要がどこにあるのだろうか? なぜこうしたものが無ければ自分達の会社は結束力がないと感じるのだろう? 
 こうしてみると日本型ブランディングは、創業後の三代目経営者以降が、創業者の偉大さを痛感した後、 いかにして創業の精神を取り戻そうとはじめる、麻疹のようなものにも思えてきた。


〈以下次号  まだ続くぜ!)

「無思想の発見」を読んで4

今回ご紹介しているこの本は、あまりに多くのことが日本型ブランディングに使えることばかりであるものの、ブランドについて書かれた本ではないため、引用すべきところがここかしこに散らばっている。 そこから必要なものを抜き出して日本のブランド事情と重ね合わせる作業をしているため、こうしてやたらと引用が多くなってしまう。 今回も多くが引用となるが、ご勘弁いただきたい。
 前号は言葉にならないだけではなく、「思想なんてものはない」と思われている思想について書いた。(というか抜書きした) 今回はそれと宗教もかなり似た状況であることを(抜き)書きたい

(以下抜粋)

無宗教と言う宗教
 宗教については、阿満利磨氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)がある。阿満氏は日本人は信心深いという。初詣もそうだし、お盆に故郷に帰るのもそうである。要はそれを宗教だと思ってないだけだという。そして宗教を創唱宗教と自然宗教に分類して、日本人は自然宗教を信じているのだとする。「創唱」宗教とは、誰かが「創って」「はじめて唱え出した」宗教という意味で、つまりキリスト教やイスラム教のように、特定の教祖がいる宗教である。逆に「自然」宗教とは、大自然を神として拝む宗教というわけではなく、特定の教祖のいない宗教なのである。「人為があまり加わっていない」宗教といってもいい。つまりこの場合の「自然」宗教とは、「自然に発生した」宗教、つまり「ひとりでにそうなった」宗教の意味であろう。もちろん両者の境界は厳密なものではない。阿満氏はこの区分のあいまいな例として、神道を挙げる。歴史上、一部のひとたちが神道を意識的に考え、変えようとしてきたことは明らかだからである。
「日本人はなぜ無宗教か」、それを問うのだから阿満氏は「日本人は無宗教だ」と認めているようだが、結論はむろん違う。「宗教はあるが、それを宗教だと思っていない」というのである。それなら語の定義の問題だろう。そう思う人もあろう。言葉の定義と言う一般的な問題はともあれ、阿満氏は「日本に宗教はある」といわれたわけである。それで当然で、なぜなら宗教のない社会は、いまのところ知られていないからである。それなら自然も同じであろう。


宗教とブランドの関係が密接であることを説いた本は少なくない。 イコンはアイコンと同義であり、ブランドの象徴となるマーク等はキリスト教における十字架と同じ意味合いを持つ。
 この記述で面白いのは、ブランド先進国であるヨーロッパ、アメリカは創唱宗教であるキリスト教がマジョリティーの国々であり、日本は自然宗教であるという点である。

日本は思想としてブランドを語ることも苦手だし、教祖をたててブランドを作ることも得意としていないということが、前回と今回の抜粋には書かれている。何も養老氏の言っていることが正しいと言っているのではない。 ただしこの視点で日本発のブランドが成り立ちにくく、海外ブランドもしくは逆輸入型ブランド(日本人が海外で成功して、日本に逆上陸するブランド。ケンゾーはその代表格?)であればすんなり皆受け入れてしまうのと、筋が合っているのは確かだ。

(以下次号)

「無思想の発見」を読んで3

養老氏はこうも語る

(以下抜粋)
日本に思想はないということを考えていくと、さまざまな日本的特質の説明ができる。日本人が「形を重んじる」のは、思想がないからである。形に思想はいらない。しかし形は動かしがたい。同時に形は眼に見えるから、それは現実だと思われやすい。こうして司馬遼太郎の日本論は、『この国のかたち』(文春文庫)になった。司馬遼太郎は典型的日本人だから、日本思想を論じる代わりに「かたち」を論じた。繰り返すが、「ないもの」を論じることはできないからだ。


 僕は工業デザイナーの出身であるから余計にこの考え方を理解する。 日本人の多くはモノに魂が宿ると考えている。 海外在住のデザイナーに言わせるとこの思考は外国人には理解しがたいものらしい。
 養老氏はさらに続ける

(以下抜粋)
茶道なり武道なり、あるいは神道・仏道・修験道なり、日本の伝統的な「道」を、思想として説明するのは困難である。世間ではそれをよく「理屈ではない」という。理屈ではないというより、「言葉ではない」のである。基本的にはそれらは所作、すなわち身体技法である。言葉で表現しない代わりに、こういうものが発生したのであろう。
「思想なんかない」という原理は、言葉による思想を抑圧する。それなら「思想」表現は、言語以外の、他の様々な形をとるしかない。日本にいまだに禅が広く残っているのも、そのためであろう。禅では、不立文字と「文字で書く」。禅が先なのか、「思想なんてない」という思想が先なのか、そんなことは知らない。しかし禅が元祖のインドや中国を外れて、もはや「日本らしい」ものになってしまったことは確かであろう。
 現代において、この伝統的思想が問題になっているのは、当然として理解できる。現代は言葉の時代であって、日本の世間においてすら「言葉にならないものは、存在しない」という傾向が表れているからである。
「説明しなきゃ、わかんないじゃないか」と叱られる時代なのである。だから私は、「説明すりゃ、わかるのかよ」という『バカの壁』(新潮新書)を書いた。


 面白いくだりであったため、余計なところまで抜粋してしまった。 しかし日本のものづくりブランドが、ブランドフィロソフィーを明文化することに失敗してきた理由はこれでよくわかる。
 そしてまた近年「言葉にならないなら、それはブランドではない」という考えから多くの企業がCI活動、ブランド活動を行い、そしてまた作った本人達が自ら「なんか上手くいかんな~」と感じている理由もよくわかるのである
(以下次号)

「無思想の発見」を読んで2 (修正)

養老氏は日本人の多くは「自分には思想はない」と考えていると説いている。これは自分が「無宗教だ」と言っている事と通じているとも言っている。
 そしてこれらのことが、日本発ブランドの難しさと密接な関係を持っていると僕は思う

 (以下抜粋)
なぜ日本人は「自分には思想はない」と思いたがるのか? 
 一つにはそれが謙虚な態度に見えるからであろう。世間で生きていくには謙虚にみえることは、処世術として大切なことである。
「思想なんて、そんなむずかしいもの、私に処理できるはずがないじゃないですか。そんな高級なソフトは、私の脳には入っていません。」
 人によってはそんなことをいう。
 もう一つは「自分に思想はない」と思ったときから、それ以上思想について考える必要がなくなるからであろう。(中略)論理的にも「自分には思想が無い」という思想は、もっとも経済的な思想である。
養老氏は「思想がない」と考えるのも立派な思想だと言う。そして日本人の多くがそう思っているとも言う。
なぜそうなのかは実際に本を読んでいただくとよい。ここはその話しをしたいのではない。 話しのしたいのはこの先である。 

(以下抜粋)
なぜそうなるかというなら、「日本に思想はない」、あるいはむしろ「世間に思想はない」という立派な思想が、その世間にすでに存在するからである。(中略) キリスト教には新約、旧約聖書があり、イスラム教にはコーランがあり、仏教には多数の仏典があり、マルクス主義にはマルクス・エンゲルス全集がある。日本の思想にそういうものはない。だって「思想はない」という思想なんだから、文字にはならない。そのかわりに「真空」がある。l
 そういう世間で、ある考え方を主張すると、私が日本人である限り、基本的には無視される。なぜなら私が日本人だということは世間に属しているということで、世間に属しているということは、「世間という思想」を暗黙に保持するということだからである。その世間の思想とは「思想なんてない」というものだから、私の考えが思想に近づけば近いほど、無視されるという結論になる。世間の思想にいささかなりとも反する思想を持つことは許されないからである。 ただし「借り物」なら許される。なぜならそれは本質的には「自分の思想ではない」からで、自分の思想でない以上は、自分の責任ではないからである。少なくとも日本人の責任でないことは明瞭である。だから日本の世間は、思想といえば、外来思想で埋め尽くされるのである。
 
 前回僕が、企業のブランド関連発行部数を見て「こりゃだめだ」と思っていた原因がここにある。 これらブランド関連発行物の多くは、まさに「思想のようなもの」である。場合によっては「ブランドフィロソフィー」なんてそのものの名前がつけられている。

 ブランドを思想として、日本人によって書かれると、私達日本人はどのように感じるのか? 養老氏の言葉がもし正しければ、多くの社員や消費者はそれを無視してしまうだろう。あるいは強い違和感からそれを「バカ」にしてしまうのだろう。 そして僕は現に多くの社員や顧客がこれらのブランド関連発行物をこのいずれかの感慨をもってとらえているように思えてならない。

外来思想で埋めつけられるというのは特に笑える。確かにナイキ、IBMといった企業に勤める方々は、自社のブランドに関わる思想を実にイキイキと外部に語る。 マスコミもこうしたことに対して「やっぱりスーパーブランドはちがう」と言わんばかりの賞賛をもって、こうした企業思想を紹介するのであろう。

(以下次号)