「無思想の発見」を読んで3 | Cleat からのメッセージ

「無思想の発見」を読んで3

養老氏はこうも語る

(以下抜粋)
日本に思想はないということを考えていくと、さまざまな日本的特質の説明ができる。日本人が「形を重んじる」のは、思想がないからである。形に思想はいらない。しかし形は動かしがたい。同時に形は眼に見えるから、それは現実だと思われやすい。こうして司馬遼太郎の日本論は、『この国のかたち』(文春文庫)になった。司馬遼太郎は典型的日本人だから、日本思想を論じる代わりに「かたち」を論じた。繰り返すが、「ないもの」を論じることはできないからだ。


 僕は工業デザイナーの出身であるから余計にこの考え方を理解する。 日本人の多くはモノに魂が宿ると考えている。 海外在住のデザイナーに言わせるとこの思考は外国人には理解しがたいものらしい。
 養老氏はさらに続ける

(以下抜粋)
茶道なり武道なり、あるいは神道・仏道・修験道なり、日本の伝統的な「道」を、思想として説明するのは困難である。世間ではそれをよく「理屈ではない」という。理屈ではないというより、「言葉ではない」のである。基本的にはそれらは所作、すなわち身体技法である。言葉で表現しない代わりに、こういうものが発生したのであろう。
「思想なんかない」という原理は、言葉による思想を抑圧する。それなら「思想」表現は、言語以外の、他の様々な形をとるしかない。日本にいまだに禅が広く残っているのも、そのためであろう。禅では、不立文字と「文字で書く」。禅が先なのか、「思想なんてない」という思想が先なのか、そんなことは知らない。しかし禅が元祖のインドや中国を外れて、もはや「日本らしい」ものになってしまったことは確かであろう。
 現代において、この伝統的思想が問題になっているのは、当然として理解できる。現代は言葉の時代であって、日本の世間においてすら「言葉にならないものは、存在しない」という傾向が表れているからである。
「説明しなきゃ、わかんないじゃないか」と叱られる時代なのである。だから私は、「説明すりゃ、わかるのかよ」という『バカの壁』(新潮新書)を書いた。


 面白いくだりであったため、余計なところまで抜粋してしまった。 しかし日本のものづくりブランドが、ブランドフィロソフィーを明文化することに失敗してきた理由はこれでよくわかる。
 そしてまた近年「言葉にならないなら、それはブランドではない」という考えから多くの企業がCI活動、ブランド活動を行い、そしてまた作った本人達が自ら「なんか上手くいかんな~」と感じている理由もよくわかるのである
(以下次号)