自分が関わる世界は自分次第で確実によくなる。

そのために必要なのは、本質に沿って生きること。

〜「ひどい世の中」でも、希望を失わず前向きに生きるための考え方を綴っています〜

 

 

前回の記事では、食べ物の面から本質を見失っている日本人を考えましたが、他のこともまぁ同様です。

 

世の大勢は、見た目のよさや快適さ、便利さを過剰に追い求めるのに乗せられ、欲望を掻き立てられ、お金儲けに明け暮れる狂騒が続いています。

 

 

でも、かつての日本人はそうではありませんでした。「本質」がわかっている人々でした。

 

敗戦後の政財界で活躍した白洲 次郎が、「プリンシプル(原則)のない日本 」ということを言っています。

 

原則や規則、決まりをちゃんと明確にせず、守らず、なぁなぁで、要するに欧米先進国に比べて劣っていると、若い頃イギリスに留学し西洋思想を信奉していた白洲さんにはそう見えたのでしょう。

 

責任の所在を明らかにせず誰も責任を取らない、長いものに巻かれる事大主義、失敗の際の撤退の仕方を知らないなど、たしかに曖昧さによるマイナス面が目につきます。

 

しかしながら、民主主義や自由や平等の考え方についてもそうですが、西洋の方が進んでいて日本が遅れているという考え方自体を見直す時期だと思っています。

 

 

 

かつての日本では、例えば江戸町奉行だった大岡越前守の「大岡裁き」といったような形で、法や理知によるのではなく情で裁判を行うことが美談として伝わっています。

 

どこまで史実かどうかはさておき、それを美談とする文化があったことは確かでしょう。

 

しかし、近代国家ではあってはならないことであり、徹底した法治主義こそ進んだ文明の証とされてきました。

 

以前は私も疑いなくそう信じていましたが、今やそうではないと思うのです。

 

大岡裁きのような例は規範より心情を優先しているようですが、実のところ、そこに関係する人みんながよりよくなるようにバランスを取って判断が下されていると感じます。

 

情というよりはその場を仕切る長(オサ)の「徳」で収めていて、規則というプリンシパル(原則)より本質を見る「徳」を上位に置いているのです。

 

本質という視点からは、裁判や法制度は、社会が円滑に回り、人々の幸福のために存在すると考えられます。

 

その立場からは、どちらを目指すべきかは明らかです。ただ、理想はともかく歴史の流れや現実的な運用の難しさから、ある程度公平である「法で治める」やり方が採られたのでしょう。

 

しかし、現状うまくいっていませんし、本質から見ると、この先も決してうまくいきません。

 

 

 

明治の元勲である西郷隆盛は、明確に才(能力、知性)より徳と言っています。

 

徳のある人間を上に、その下に才のある人間を置いて、みんなのために能力を発揮させよと。

 

才があって、徳が低い人間は、自分のためにその能力を使おうとするからです。

 

今の大方の政治家や官僚たちを見れば、一目瞭然です。

 

東大を頂点とする学歴偏重の選抜制度では、どうしてもそうなってしまいます。

 

国民にしたって同じです。

 

宗教で脅したり法で縛ったりして強制して従わせ、普段は何とか治っていても、大災害や暴動が起きたりすると、途端に略奪や犯罪などが横行するのは、表面的に平和を保っているだけだから。

 

日本では大地震の後でもほぼ略奪が起きないのは有名な話ですが、日本人には他人を思いやる優しさがあり、略奪される側の悲しみを感じ、心が痛むからであり、つまり、徳が高いからです。

 

落ちぶれたとはいえ、腐っても鯛なわけです。

 

とはいえ、明治までの日本人はもっと本質がわかっていました。

 

明治生まれの数学者で京大の大先輩である岡潔さんは、著書に「明治生まれの日本人は、今の人生を長い旅の一日のように捉えていた」と書いています。

 

見えない本質から人生を捉えていたので、お金などには執着しなかったし、そんな人はみんなから小馬鹿にされたのです。


今は学校では基本的人権、幸福追求権などといって、個人の欲求を満たすことを諸手を挙げて推奨しています。

 

その手段として、才能や能力を伸ばすのが無条件でよいこととされ、その訓練ばかりです。

 

でも、エゴを抑える練習をしてこなかった者同士が欲と欲をぶつけ合えば、争いが起きるし、偏りがどんどん大きくなり、社会が乱れます。

 

 

おそらく今はその極大点に近いのかもしれません。引き返して調和に向かうかそうでないか。

 

とはいえ、批判して一時的満足に浸るのも、絶望して暗くなるのも、私としては面白くありません。

 

冒頭に述べたように、自分が関わる世界は自分次第で確実によくなります。

 

引き続き、この2回で述べた日本の実情を踏まえて、個人としてどうするかを考えます。

 


自分が関わる世界は自分次第で確実によくなる。

そのために必要なのは、本質に沿って生きること。

 

街中のごくありふれた景色の中にも、本質を見失ったこの国のチグハグさが目につきます。

 

久しぶりに出かけた新宿でのこと。

 

駅は相変わらず多くの人でごった返していて、テンポに慣れるまで歩くのも一苦労です。

 

JRは少し遅れていましたが、電光掲示板に10分遅れ、3分遅れなど列車ごとにきちんと表示され、状況がわかりやすく伝えられています。

 

ホームにはゴミ一つ落ちておらず清潔で、マスクをする人もそれほど目立たず、まるで平和な現代日本の日常風景が戻ってきたようです。

 

けれど、裏で起きていることを考えると、やはり空々しさを感じずにはおれません。

 

覚めた目で見ると、いろんな不自然なことが飛び込んできます。

 

 

 

表面だけはきれいに飾るが、肝心の本質部分は無惨になおざりにされている。

 

外食店は派手な飾り付けやキャッチコピーで来店を促し、味も値段の割にそれなりに美味しい(でも、食品添加物や油脂の質などを考えると健康的とは言えない)

 

売店で見かける大手メーカーの誰でも知ってるような有名なチョコレート菓子。

 

けど、発がん性物質が原材料に使われていて、欧米では告知シールなしに売れないそうだ(Xの情報)。

 

なのに、箱には「カルシウムたっぷり」などと、しらじらしい文句が印刷されている。

 

紛い物に、消費者ウケのいいどこどこ産とか○○製法、何とか成分配合などと謳っている食品も目につく。

 

通常の砂糖以上に極めて肝臓など健康に悪いという果糖ブドウ糖液糖を使いながら、パッケージには「糖質ゼロ」を謳うといった調子だ。

 

たしかに、この種の問題提起に対しては、専門家の間でもたいてい意見が分かれる。

 

それなら自分で判断して選ぼうと思っても、適正な情報開示や商品への表示がないためにむずかしいということが日本では多々ある。

 

手間も費用もかかる広汎な調査や広報こそ公共セクターの役割だと思うが、コロナ渦での動きを見ても、明らかに都合の悪い情報を隠そうとする動きが確実に見られる。

 

平成の30年を経て今や、国や大企業はまったく信頼できなくなってしまった。本当に悲しい。

 

 

 

話を戻すと、もちろん食べ物の味が大事じゃないとは言わない。食べることは人生の大きな楽しみだから。

 

でも、食の本質は、命を繋ぐため、身体を健全に養うためであることは間違いないだろう。

 

こうなってしまったのは生産者の責任のみならず、消費者のせいでもあるのは本当にそのとおりだ。

 

生産者は金儲けのために長期的に健康を損なうものを作り、消費者はお金を浮かすために多少紛いものでも、安いものを買う。

 

どちらもお金に支配されている。

 

目に見えるものしか信じず、本質である心を見失っている。

 

 

 

では、目に見えるものとは、本質である心とは、いったいなんでしょうか?

 

本質を見る目を持った日本人はどのように考えていたのでしょうか?

 

かつてどうだったかを思い出し、失った理由を考察することで、取り戻す道を探っていきたいと思います。

 

本質に沿って生きることで、自分が関わる世界を確実によりよくすることができます。

 

自分が関わる世界は自分次第で確実によくなる。

そのために必要なのは、本質に沿って生きること。

 

前の記事で、命を全うして社会に貢献することが人生の意義だと書きました。

 

そんなこと簡単じゃないかと思う人もいるかもしれません。

 

「要するに全力を出せばいいのでは?」

 

「やれるところまでやればいいわけだから。。」

 

たしかにそうです。

 

「そんなことより、もっと自由に自分らしく生きたい」

 

「自由になるお金や時間がもっとあれば、社会貢献だってできるし・・」

 

一見もっともですが、大きな見落としがあります。

 

 

 

それは「今は自由ではない」という捉え方です。

 

何か自分を縛るものがあって、そこから解放されたら自由というのが今主流の考え方です。

 

これは西洋式の自由であり、元々は絶対君主や宗教の束縛から解き放たれるという歴史の上に立つものです。

 

ですが、本質から言えば、自分の現実は徹頭徹尾自分が創っています。

 

馴染みのある無力な自分も、自分で選択するからそうなるだけです。

 

ということは、本当の意味では、誰もが自由だし、過去も今も自由で、この先も自由でないことなどできないわけです。

 

そもそも東洋で自由と言えば、後者の本質的な自由を意味しました。

 

自由という語自体、明治に作られた新しいイメージがありますが、たしか平安時代とかの古い文献にすでに出てくるそうです。

 

日本人は主体的に自由に生きる長い歴史を持っていたのです。

 

 

 

ところが、明治以降、特に、敗戦後の教育により事情が大きく変わってしまいました。

 

減点主義、自虐的な教育により、自分なんて大したことない、取るに足らないという自己評価がすっかり身についてしまうのです。

 

また、国や社会に貢献するという考えも、国家主義、軍国主義につながるとして排除されて、個人の欲求を叶えることだけが賞賛されます。

 

人は、大事な人や周りのためならできても、自分だけのためにそうそう頑張れるものではありません。

 

可能性を100%発揮するには、自分でこれぐらいだろうという枠を打ち破って限界を超えていくことが欠かせないのですから。

 

ですから、今の時代は、特に、命を全うする難しさを知り、分かった上であえて挑戦する気構えが大切なのです。