ご無沙汰しています。祇場駿矢です。

 

こちらのブログは久しぶりの更新です(汗)

 

仕事のホームページのリニューアルに注力していました。

 

それも一段落したので、こちらのブログには日々ふと感じたことや気づいたことなどを書き留めていこうかと思います。

 

 

 

さて、今日、本を読んでいての気づきです。

 

神仏に願い事って、ほとんどの人がやっていると思います。

 

でも、それって「現状では嫌」と、不平不満をぶちまけてるようなものと、筆者は言ってました。

 

目が見えること、耳が聞こえること、話ができること、

 

歩けること、ご飯が食べられること

 

どれ一つ取っても、当たり前のことなどない。

 

神仏に詣でてすることはただ一つ、

 

お礼を言うこと

 

だそうです。

 

 

 

この作者のこのお話はかなり以前から知っていて、私もお参りの時はそうしてきましたが、今日は改めて気づいたことがありました。

 

みんなが願いを持つのは、幸せになりたいからですよね。

 

けれど、願いを持つことは、不幸の種が宿るのを避けられない、ということです。

 

それは、願いが叶えば幸せ、そうでなければ不幸と、幸不幸が必ずセットになっているからです。

 

広告でおなじみの「もれなくついてくる」と言うやつです。

 

ぜんぜんありがたくないですが(笑)

 

 

 

願いが必ず叶うとは限らないことは誰しも体験済みでしょう。

 

さらに、叶ったとしても、そして、幸せになったとしても、いつまでもそれを維持できないことも、体験しているのではないでしょうか。

 

つまり、幸せになりたくて願いを持ったのに、それが不幸の原因になっている、ということです。

 

もう少し正確に言えば、ある時は幸福、ある時は不幸の、その繰り返しでしょうか。

 

人によって、あるいは、人生の時期によって、幸福多め、不幸多め、などの違いはあるかもしれませんが。

 

そうすると、もっと幸せを多くしたい、この先も幸福多めでいけるだろうか、など人との比較や先の心配がまた悩み、不幸のタネになったりもします。

 

 

 

「それじゃこの世は最悪じゃないか」「やっぱり生きていくことは、つらく苦しいものだ」と思うかもしれません。

 

けれど、これでいつまでの幸せになれない理由がわかったわけです。

 

原因がわかれば、対処のめどが立ちます。

 

幸せを「願う」のが不幸のタネをまくことでした。

 

そして、願うことの最も悪い点は、現状に対する不平不満でした。

 

現状とは、起きてしまったことです。

 

この世では、必要、必然、最善のことしか起きません。

 

どうしても、受け入れられないことは、不可避のことと言い換えましょう。

 

それが(自分の身に)なぜ起きているかというと、神と自分(ハイヤーセルフと言ってもいい)が認めたからです。

 

 

 

神は「そうすればそうなる」というルールを作って、私たちを見守っています。

 

神に感情はありませんが、神は愛そのものだから、私たちが起きることに感謝すれば共鳴して神に近づいていきます。

 

それが魂が成長するということです。

 

現状を、すべて受け入れて、しかも、当たり前とせず、感謝することは、神の意思を言祝ぐことであり、これが祈り(意思の「い」と祝詞の「のり」)だそうです。

 

 

 

もしこのようなスタンスで生きるとしたら、よいことはもちろん、一見わるく見えることも、すべては感謝できる対象となります。

 

実際に、愛そのものである神が自分のところに近づく道として、用意してくれた出来事であるのです。

 

そのことに気づいて、その道を歩く。

 

人としてこれ以上幸せなことはないように思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

これが日本人が古来から大切に守り伝えてきた、人として自分を高めていく道です。

 

私はよりよい生き方を探求するなかで、神世の昔から日本にそうした考え方がちゃんと伝えられてきたことに気づきました。

 

これからはそんなことも紹介していきたいと思います。

 

 

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おはようございます。

悟りの実践研究家、祇場駿矢です。

 

みなさんは、登山には体力が必要と思いますか? 

YESと答える人が多いと思います。 

実は私もつい一昨日までそう思ってました(笑) 



でも、違うんですね。 



ある山関係のプロがおっしゃるには、 

「マインド8割、体力2割」 

とのことです。 



それを裏付けるのが、 
今日の92歳の登山者のお話です。 

その方は毎年北アルプスの燕岳、 
標高2763m?の高所に建つ山小屋まで 
登られていたそうです。 


標準タイムで5時間半ぐらいの 
ルートを7、8時間かけて。 



そう言うと、その方は山の超ベテランで、 
常人離れした健脚だったのではないか 
と思われるかもしれません。 


でも、そうではなかったそうです。 


ごくごく普通のお年寄りでした。 


年相応に、山小屋の階段を下るにも 
手すりにつかまりながら、 
やっとのことで歩かれている。 


周りの人は、もしもの時はいつでも 
支えられるようにと、身構えていたほど 
だったそうです。 


それでも、登山の時は70代の娘さんが 
少し離れて付き添うだけで、 
すべて自力で登り下りされていた 
ということでした。 




プロの方いわく、 

「その方は、自分が登れるということを知っていた」 

ということなんです。 

これものすごく重要ですね! 




登れるかどうかわからない状態だと、 

たどり着けるんだろうかとか、 
無理なんじゃないかとか、 
途中で動けなくなったらどうしようとか、 

不安になって余計なことばかり考えてしまいます。 



すると、そもそも思考することは 
エナルギーを消耗するし、 
ネガティブな思考や感情は 
さらに体力を奪います。 


そうやって、「もう無理」 
となってしまうんですね。 




登山の場合、時間をかけて 
ゆっくりと登ることがコツ 
だそうです。 


急いで登ろうとするから、 
ペースオーバーで 
膝や足が痛くなったり 
疲労困ぱいでつらくなるそうです。 



だから、私も一連の山行では 
いかにゆっくり登るかを 
課題にしたいと思います。 




ところで、このお話、 
人生全般、なかんづく、 
悟りの道を歩く上で 
とても有益です。 


人生や悟りはよく 
登山に例えられますが、 
能力よりもマインドが大事 
ということでしょう。 



そして、 
その道は言ってしまえば 
ゴールのない道です。 


そこが本当の登山との違いで、 
読み替えが必要なところです。 



悟りの道にゴールはないけれど、 
「一歩踏み出すと確実に一段高いところに」 
登れます。 


そして、よしんば 
道半ばで人生が終わったとしても、 
あの世に帰還して神様に労われ 
来世でまたそこから歩み始められます。 


一方、歩くのが嫌になって 
立ち止まってしまっては 
何も変わりません。 


あきらめて下山するよりは 
いいですけどね。 



悟りの道を行く上で大切なことは 

「能力よりマインド」 

「なによりも歩き続けること」 

だと気付かされたのでした。 

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おはようございます。

昨日は東京は雨でした。

 

 

 

週末から強い風が吹き、

一昨日、昨日と雨が降りましたが、

 

思ったとおり

毎日通る道端の満開の桜は

それほど散ってはいませんでした。

 

 

 

よく風や雨が桜を散らす

と思われていますが、

実はそうではない

と聞いたことがあります。

 

 

 

では、桜はなんで散るのか?

 

 

 

桜は散る時が来たら

散るのだと。

 

 

 

 

もちろんそのタイミングに

風雨が重なると

あっというまに

散ってしまいますが、

 

それは桜がすでに

散花を受け容れているだけのこと。

 

 

 

良寛禅師は辞世でこのように詠んでいます。

 

 

 

「散る桜 残る桜も 散る桜」

 

 

 

私たちはみな遅かれ早かれ

逝く命です。

 

 

 

死ぬ時が来たら死ぬのですが、

逆に言えば、

死ぬ時が来るまでは

死なないのです。

 

 

 

風が吹こうが

雨が降ろうが。

 

 

 

そうであるなら、

命ある限り

精一杯の花を咲かせて

生きたいものです。

 

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