自分が関わる世界は自分次第で確実によくなる。
そのために必要なのは、本質に沿って生きること。
〜どんなに世の中がひどくても、希望を失わず前向きに生きるための考え方を綴っています〜
前2回の記事に書いた通り、本質を見据えて明るく輝いていた日本人は、すっかり目に見えるものに振り回されて曇った人々になってしまいました。
昨今のコロナ禍をめぐる分断状況を見ても、普通に考えれば悲観的にならざるを得ない状況です。
とはいえ、絶望や批判は事態をさらに悪くするだけです。
現状をしっかり認識した上で、個人としてどのように前向きに生きられるのかについて考えてみましょう。
口を酸っぱくして言いますが、世の中がどんなであっても、個人として希望を持って前向きに生きることは可能です。
具体的にどんなふうに可能か、仮定の話として、少し考えてみてください。
バイブレーション(周波数)が非常に高い人の場合、何を食べどんなふうに生きているでしょう?
食べ物については、添加物を使わない、天然原料を使うなど質の良いものは、どこでもとは言わないまでも、探せば普通に見つかります。
低所得の人ほど安さにつられ、ファストフードなど体に悪い食べ物を摂る傾向があるそうです。
逆に、お金の制約がなく、感受性が鋭ければ、たとえ頭で意識しなくても悪いものを避け、健康的な食生活になっていくでしょう。
味覚や嗅覚などの本質的な役割は、体に害のあるものを避け、栄養になるものを摂ることですから、納得がいきます。
また、騒がしい社会とある程度距離をとって生きることも同様です。
今の社会はお金のため気忙しく働き、ストレスを溜めてはお金を使って娯楽で発散し、そして食うため遊ぶためお金を得るためにまた働くというラットレースです。
それらは生きることの本質に反するものであり、磁石の同極が反発するように自然と距離ができるのも納得ではないでしょうか。
人生全般においても同じことが言えます。
翻って、私たち自身が、今の社会にどっぷり浸っている、あるいは、少なくとも関わりがあるということは、必要だからそうなっているのです。
まずはそれを思い出すことが重要です。
つまり、魂が成長するために、気付いたり学んだりするべき何かがありますよということです。
自分が気になるもの関心が向くものは、ほとんどの場合、自分の中にもあります。
(例.本質を見ない、お金のために自分を曲げる、不都合なことに気づこうとしないなど)
自分の中にも同じものがあるから、許せなくて批判したくなるのです。外を批判することで自分は正しいんだと安心し、現状を維持しようとする働きです。
1歩目として、自分の中に同じものがあることを受け入れること。
そして、受け入れたからといって、自分を批判したり自己否定する必要はありません。
否定して自分を下げるのではなく自分の特性はそのまま認めます。
誰でもできること、できないことがあって、互いに補い合い助け合い、高め合うために生きているのですから、そのままの自分で自分を生かして、他人の役に立てばいいのです。
一人の例外もなく、すべての人に必ずその人にしかできない活躍の場があります。
宇宙は完璧なので、存在を許されていること自体がその証だからです。
本来の自分として活躍するというのは、要するに、余計な我を手放して自分の本流で生きるということです。
こう書くと美しく、簡単にできそうなことに感じるかもしれません。
実際、そのとおりなんですが、「我」にとってはものすごく怖いことでもあります。
お金がないという恐れから、自分を偽る人のなんと多いことか。
上記のプロセス全般において湧き出てくるネガティブな思いや感情は、元になる不要な思い込みやエネルギーがあることを示しています。
それらを手放すことで、自分が自分がという「我」が小さくなっていき、振り回されることもなくなっていきます。
そうするともし同じことが起きたとしても、心が反応しなくなり、ということは体験する必要がないということなので、結果的に目にしなくなるという経過をたどります。
こうしたクリアリングや自己対峙について、修行のように捉えるとしんどそうに感じるかもしれませんが、実は、それ自体すごく楽しいことです。
幼い子供の頃、体験することの全てが珍しく面白く、どんなことに対してもワクワクした気持ちがそれに近いようにも思います。
人生とは、さとりとは、生きること全てが喜びであるという、ごくごくシンプルで当たり前のことに近づいていくプロセスなのかもしれません。