ドミューンx芸術動画「ポストパンデミックと芸術の使命」を見てのメモ

 

反知性主義的インフォデミック(デマの疫病)

ペストは分断を破壊したが、コロナは現代社会の分断を露骨に可視化し、加速させている。それこそが実はもっとも怖ろしい。

実はコロナそのものよりも、この情報社会の差別性、排他性、分断、利己主義、空気が暴力を生むことが露呈し、加速していることの恐ろしさ。

コロナの脅威とは人体に対する脅威というよりも、情報社会にとっての脅威なのでは。

つまり、情報社会に感染し、増殖していると言った方が正確なのでは。そこで恐怖を煽り、黒死病のような物語に書き換えることが意識無意識的に進行していて。そこに芸術の側から冷静にツッコミを入れ、情報社会における感染拡大を止める。これはフィジカルな感染拡大よりももっと深刻で、それを止めないと元の日常は戻ってこない。

 

共生というか、共死?!

「非常時」の芸術、非常時を特権化するのではなく、いつも平時と非常時がモザイク状になっているものでないといけない。

生命は文化とともに。芸術と福祉は表裏一体。

 

濃厚接触、三密を、芸術と愛の問題として誘惑していくこと。これって素晴らしいだろ?と誘惑していくこと。

ドミューンははじめからオンラインなど信じていなかった。「現場/ライブ(の濃厚さ)」と「覗き/オンライン(覗き見の濃厚さ)」「そこへのチャチャ/タイムライン上での意識交流」というコミュニケーションの三つのレイヤー。これが現実の素晴らしさだ、ということ。

(単なるオンラインの可能性、というのは、ただオナニーでよしとすること。それで終わったらダメなんだ)。

 

戦争や災害をアーカイブ化、芸術化するとき、オブジェクトとして可視化してきたが、ウィルスは人に感染するため、その痕跡が可視化できない。痕跡を外在化してデータとして観測することも限りなく難しいし(確かな感染者数も限りなく曖昧だし)、モニュメントを残すとか、悲劇が終わった後に教訓として残す、記憶として残すというオブジェクト化ができない。

みんなが、社会全体がサブジェクトになってしまう。コロナは外部を消す(この身体と一体になってくる。可視化できない)。

これに抵抗するにはオブジェクト化することしかなく、ここで芸術や文学の重要さが出てくる。

ここで、芸術の役割とは、サブジェクトではない純然たるオブジェクトを作ることではないか。

 

 

 

義理と人情の再定義。帝国主義的ユートピア主義者/実存主義的ユートピア主義/伝道主義的ユートピア主義。

ツイッターは伝道主義だが、それが暴力となり、空気として分断を生んでしまっている。これは盲点を突かれた感。(今、何をしても判断される。星野源にしても、どれだけ注意しても)。

モニュメントにしてしまってはならないのではないか(戦争や311のように。ゲルニカのように…)。ひるがえって文学的想像力の可能性。

政治、医療、科学だけが大きくされすぎていることの息苦しさ。リスクを忘れることも大事なのだが、難しいところ…。

愛知トリエンナーレが生んだ分断との近似性。

 

「隔離という病」武田徹

「死者たちの中世」

 

コロナは日本が昔から抱えていた問題を浮き彫りにしているし、各国の悪いところが浮き彫りになった。

 

大自然と超人工、それがマンダラ。

鎌倉仏教のあの知性・感性・想像力のジャンプ、爆発。

この「ロジックの爆発的な転換」を生み出してゆくこと、今、パンデミックの後の芸術の役割。

 

ここしばらく、音楽家も芸術家も科学的とか政治的な言語でしか語っていなかった。芸術的な言語で語ることの大切さ。

4/18

雨の日にこそ思考は活性化する。

非常時にこそ思考する(ゆえに芦刈君を思う。吉増剛造を思う)

 ~日常にいかに非常時をつくってゆけるか。可視化するか。それと共に生きている意識を立てるか。

そのために、私の野外公演はあった。孤絶-角も

 

救急車の音がひっきりなし。

町田さんの1時間半。入院。

コロナ、不安定性と、ひとり、ということ。

 

 

《KwtとTel》

吉増の切迫感、緊張感。反復。芸能化してはいけないのだということ。

 

細野晴臣の言う「00年代のエレクトロニカの終末感と、民俗音楽のポジティヴさ」。

彼の、ヒューマニティとノンヒューマンとの間で揺れ続けること。

映画「沈黙」でのモキチの歌

 

ボディ・エレクトロの世代と、そこに違和感ある者もいるのだということ

「私」の「肉体」や「身体」ではない、「あいだ」にある「身体」や、多層な時間をエレクトロで捕まえること。

ボン・イヴェールとテクノロジー

 

とにかく、なんでも未分化なものを生み続けること。

しかし自分に「できること・やりたいこと・やらにゃならぬこと」を見極める大切さ

 

 

 

4/17《コロナ対談「接触と隔離のあいだで」》

precocity(不安定性)はstability(安定性)の表裏

vulnerability(脆弱性)はstableな世界の内側に留まり続ける中で外部を知らないことによって醸成されるものでは?

前戯のない東アフリカのセックスもまた前戯しているわけだ

福岡伸一が言っていた、virusは水平的な遺伝子の伝達

ハラウェイ tentacular(触手)は重要

人類学思考 R=B 人と人の関係は、忌避関係と冗談関係によって構造化されている

私も母や認知症で施設に入っていて、3月初めから会いに行けなくなって、4月になって夢を頻繁に見るようになったんです、まるで明恵上人のように

contact(接触), contingency(不測の事態), contagion(伝染)

無始無終のコミュニケーション。インゴルド

無始無終のコレスポンデンスでした

 

人新世の問題(人だけが突出したアクター)/クトゥルー新世「異種通しの絡まり合い」

不安定性を自分たち自身で作り出しているのではないか

 

 

 

4/22

「自分と家とのはっきりした類似を見つけるようにすること。もしできなければ、この家が自分の双子だと思って歩くこと。」

 

 

4/23 《Radio Tougenkyo with Mari Fukudome》

・いろんなプロジェクトに参加すること(その黒子に入ってゆくこと)

・個人として、生活を作品に落とし込むことの試み

 

・コレクティヴなものも、個人の活動も、今後、変わってゆくだろう。(ゆかざるをえない、ということではなくて)

・集まるということの意味も変わってゆくだろう。今、オンラインで集まるということも、フィジカルに集まることの大切さも。

・個人では、内向きに徹底的に深めること。部屋か川原で踊る??(ありきたりだ!!)

 

・この時間を経て、退化するところと進化するところが出てくるだろう。テレパシー?霊気?夢?場所が変わらないから、思いを馳せることの可能性が拡張する?

 

・ダンサーの体から流れてくる時間と、その人の時間はつながっているだろうが、どのような時間を手にするか、という問題。

・異物を体内に入れること

 

(以下、引用)

 

「…今少し思いつくこと自分の言葉になってしまいますが

書かずにおられず書き付けてみます…

25年近く前、一雄先生の稽古が週3回から2回になりその代わり

週一回慶人氏の稽古場で始まった時の稽古は、

ご自分の大野一雄氏との舞台について

一雄氏の土台になり舞台を支えられていることへの自負からの

今から考えると耐えに耐えることから美が立ち現れるというものでした。

素材が大切、と、からだそのものへの意識、

また肉体と空間との関係、ものの質感、

肉体が触れ感じる全てのものから踊りが生まれること。

からだが触れる地との関係、地球の裏側までも感じて立つ、

一筋の上を歩くなどで伝えてくださいました。

舞台でも実際、地に繊細にギリギリの所に重心を置かれ立ち歩かれ

その歩かれる姿は、慶人先生唯一と言っていいほど

歩く中に凝縮した世界が見えてくるのでした。

日常の中に踊りがあることも本当に大切にされ、

からだそのものをどう意識し意志されるかが、

ただジェスチャーのように動くよりも重要で、

外側では動いていないように見えても、内部や外部へ目覚ましく

肉体への意識が繋がる所に踊りが存在することを伝えてくださった。

一心に向き合うことから踊りが生まれることを体現され

切なるものが滲み出て空間が変容する…

真綿の柔らかでしかし強く繊細で空間に溶けていく稽古も忘れられません。

…慶人先生のことを勝手な言葉で思わずほんの少し書いてしまいました。御容赦。

本当に稀なる純真さをも持ち続けた一心な姿は

ずっと焼きつきこれからも生き続きます。」

【3/15のセッションの報告】
参加メンバー:YK(音)、SK(音)、HA(身体)、AY(身体)
場所:K/N
 
①はじめに各々、周りを意識せず軽く動いたり音を出したり、場に馴染んだりする。
 
②(どのように進めてゆくか話したのち、「芸能」というとっかかりから)、手始めにAYがやっている神楽、HAがやっている巫女舞をそれぞれやってみせる(簡単なリズムと共に)。
 
〈終えての対話〉
・「舞い」と「踊り」の違いは何か?明快には答えづらいが、歴然とした違いは感じられる。このプロジェクトでは、「踊り」よりは「舞い」の方がしっくりくる感がある。
 
・「芸能」とは何か?そこには共同体の身体、リズム、コスモロジーがある?古くからの生活の中にある所作やリズムの様式化?
・「型」があることで身体が規定される面もある一方、逆に各々の個性/差異が際立ってくるという面もある。
とはいえ、かつて芸能が生まれたような土壌からは少なからずズレたところにあるわれわれ現代人。単に憧憬と共にそこに回帰、踏襲しようとするのではないあり方を探りたい。
 
・それぞれのバイオリズムで動いていながらも、何かを共有している必要はあるだろう。(単に場を共有している、というだけでなく)。
・何を共有するか?仮にテーマを設定してみることにする。
例えば「神楽」であれば、どの地域の舞いにも「天地開闢」や「天の岩戸開き」があるが、ここでは特定の「神話」や「物語」に回収されることのないものでありたい。〈*むしろ、それらを解体するようなもの、引き伸ばされた時間の中に立ち現れる「世界像」、「ヴィジョン」が見えてくればいいな、と〉。
天地開闢神話ではないけれど、「花が蕾の状態からゆっくりと開いてゆく」「蝉が殻を割いて羽化してゆく」「真っ暗闇の中から日が昇ってくる」というような生成の時間、旋回と開かれ、その瞬間をググググッと引き伸ばしてゆくようなものが見えてくると面白い。〈*日常の時間と死と生成がゆるやかにつながっているような…〉
 
〈*〉で括っている箇所は、AYの勝手な追記。
 
 
③「舞い」ということを少し(?)意識しつつ、(また、"身体の人"は中腰姿勢への意識をゆるく設定しつつ)、試しに神楽のゆっくり反復し続けるリズムを基にするところからセッションをはじめる。はじめにAYが神楽の所作をモチーフにはじめ、次第に変容する。AYがひと段落して、青柳が動きはじめる。途中からリズムは唐突に動的なものに変化、反復する。2人ともに別の時間と共に動いている。動的な場は、次第に整理されてゆく(?)。(約20分弱)
 
〈終えての対話〉
・「型」的なからだのあり方から始まって、そのあり様はそれぞれ徐々に変化してゆき、各々らしいからだが見えてきた。(精度や、出来のよしあしは別として)。
 
・全員同時にオモテに立つ必要もなく、何かコトを行なう必要もない。消えていたり、フッと遠のいていったり、一瞬交差したり、距離感は(演奏者含めて)たえず変化すればいい。
・全員で同じ目的なり方位に向けて注力しすぎると、どうしても宗教クサい深い空気に接近することがある。(例えば「岩戸開き」で云えば「開いてゆく」ところに大多数が注力しすぎると…)。ある種、ドライであったり、まったく無関係な坦々としたバイオリズムのもの(でありながら薄っすらと何処かつながっているような…)が並列して共存しているような状態、風通しのよさがあるのがいい気がする。
 
・リズムについても、「鎮める」ような深く静謐なリズムであれ、ある程度ドライで抜けのある、クッキリとした切断性のある音の方がいい気もする。ジメッとしすぎない方がいい。
 
・構造〜構成として、「陰/陽」、「静/動」にも近いかもしれないが、神楽でよく見られる構造として「ネリ(ひたすらゆったりとした時間の中で同じ行為を反復して練ってゆく。そこに僅かな差異が生まれてゆく) → クズシ(唐突に反転するようにして、動的な場が生まれる。渦巻くような生成と変容の場)」などは参考になるかもしれない。
(もちろん、必ずしも2つの対極の景だけでつくる必要もない)。
〈*植物でも、冬の間に極力エネルギーを小さく抑えている時期にシステム維持するためのエネルギーの流れと、領土を広げて花を咲かそうとするエネルギーの流れ、花を枯らせて種を実らせるまでのエネルギーの流れは、何かが開かれてゆくような世界像の反転があるように思える…〉
 
・琉球の唄者、嘉手苅林昌による琉球古典舞踊の伴奏におけるタイム感("音楽"だけでは生まれない、舞踊の伴奏だからこそ生まれたであろう長い息〜節の引き延ばし…)、小津映画に聴くことのできる50年代の祭囃子のタイム感。
 
・8〜10月くらいには、ある一定の水準のものとしてカタチにして、どこか持っていきたい。
 
 
…以上、あくまでもAYが覚えている範囲での記録です。補足、修正、違和感、ご意見等ありましたら、お気軽に書いてくださいまし!
 
(手始めに神楽などからヒントをもらうところから手探りで進めていますが、今後、そこも少しずつ変わってくるかもしれません)。

(2018.3.3のテクスト引用)

 

3月2日(金)横浜STにて、T.Mizukoshiさん初のソロ公演『arumonora』を観劇。これまでの数年間、Mizukoshiさんのソロダンスを拝見してきたのですが、それはどこか舞踏的な指向をもっていて、動きへの身体的没入が、つきつめるとご自身の身体そのものへの探究につながるという道筋をなしていたように思います。しかしそれがけっして舞踏にならないのは、彼女がいう「身体が物体であること」の発見、「存在の土台としての身体の物理性」が、イメージとしての「物体」「物質」を媒介しないことや、<私>という謎の探究へと向かわないことなどにあると思います。彼女は身体にもっと普遍的ななにか、科学的な探究を可能にする対象を発見しているといったらいいでしょうか。それならば、Mizukoshiさんのダンスにイメージは不在かというとそういうことはなく、イメージは身体の内側から沸き起こされるのではなく、身体が光や影に触れあうときの皮膚感覚のようなものとして沸き起こってきます。そうした身体的探究の両面作戦は、そうとうに精緻な思考と感覚の作業によってなされています。かつてアート・アンサンブル・オブ・シカゴのトランぺット奏者レスター・ボウイが、即興演奏によるグレート・ブラック・ミュージックの科学的探究という意味でステージで白衣を着ていましたが、Mizukoshiさんのダンスにもそんな印象があります。『Arumonora』は、個別におこなわれてきたいくつもの探究作業を綜合したエポックメーキングな作品になっていて、見ごたえじゅうぶん、これまでにない側面を切り開いています。詩情と科学が背中あわせに提示されるユニークな身体的探究。

 

■ 彼女のソロダンスは、ここからの数年のうちに、本作品から急速にといっていいほど深化していくこととなり、自らの感覚を媒介にした身体そのものの探究と、ダンスの作品化という、『Arumonora』の時点ではまだじゅうぶんに突き詰められていなかった2つの方向性の落としどころが、さまざまな創意工夫、さまざまな試行錯誤をともなう作品としてクリエーションされていきました。なかでも彼女が主宰するプロジェクトの発展形とも、実質的なソロダンスともいえる、サウンドアーチスト山口さんとのデュオ(2019年7月、北千住での「『 』という名の音楽〜身体表現篇〜」)は、身体と作品の拮抗を見せるすぐれた内容を持っていたと思います。

 

 

65daysofstaticよりサイモンさんのパフォーマンス

つまみを弄りながら

夥しい血管のような回線を外しては繋いでゆく

ミニマルな切断と揺らぎ

これぞ「魂の唯物論的な擁護」と云っていいだろう

神話も旋律も和声もない

質感と切断的リズムだけがある

物質的な揺らぎはどこか

生命以前の律動の始原のようにも感ぜられる

逆説的に神話的世界像を想起することも可能だろう

ポールさんが参加しゆっくりと移行する

あちらが切断ならこちらは持続

とはいえミニマルな絶え間なき変容の様相ではなく

個体個体にフォルムがある

終末論的な焦燥感

 

 

 

「或る詩人の或る時の或る場所に於ける情調(にほひ、いろあひ、ひびき)を伝へるのはリズム、ーーその詩のリズム、彼のリズムのみが能くするところである。日本の詩に於けるリズムについて考ふべし。」

 

「うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。」

【書籍】

中沢新一×小澤實『俳句の海に潜る』

中沢新一『精霊の王』『熊楠の星の時間』

鶴岡真弓『ケルトの想像力』

 

沖浦和光『旅芸人のいた風景』

沖浦和光×野間宏『日本の聖と賊(中世篇)』

 

吉本隆明『西行』『最後の親鸞』

白洲正子『老木の花』

 

 

保立道久『老子』

加藤常賢『中国の修験道』

 

赤松啓介『性・差別・民俗』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす』

 

ニーチェ『ツァラトゥストラ』

江川隆男『アンチ・モラリア』『』

田崎英明『無能な者たちの共同体』

市川良彦『革命論』

 

土方巽『全集(1)』

宇野邦一『土方巽』

 

夢野久作『あやかしの鼓』

 

 

【音源】

1『日本のハーモニー』

2『日本のフェスティバル』

3『日本のダンス・ミュージック』

4『日本のワーク・ソング』

5『楽器玉手箱』

6『日本の音風景』

7『南海の音楽(奄美)』

8『南海の音楽(沖縄)』

『日本の旋律(1)〜(5)』

『日本の祭り(祭り囃子篇)』

『日本の祭り(祭り太鼓篇)』

『日本の太鼓』

 

 

『世界民族音楽大集成 特典盤1、2』

 

 

「十歳で神童、二十歳で妻子、三十でただの人とよく申します。直樹は病身のおかげであれだけ出来るのですけん、なるべく学問から遠ざけて、身体ば荒っぽく仕上げてください」。

謎がなければ面白くない~魅惑、誘惑するものであること

謎とか予感~恐怖・憧れ・恍惚・エロティs~連続性

 

死ぬこと=ほどけてゆくこと=エントロピーが増えていくこと

反・巻込

 

形にある意味→記号以前の意味(分かってしまったら、謎がなくなる…)

土方巽は、上でも下でもない中間領域を見せてくれる~やはり腰がないといけない

 

大地への亀裂、裂目…、

天(プラトン・信仰)/中間の高さ(草・ルイス・キャロル・信じる)/大地(ニーチェ・アルトー…)

大地とファシズム(または持続の世界)=大地に埋没すること(死)=普遍的生成変化

→ここを、はっきり分けるのではなく、陰陽と気の世界(東洋的~古代的)…動的なままに捉えること

 

(同じ「イメージ」でも、それがどこに届くイメージなのか…脳なのか、腹なのか…、

 

 

身体の複数性 と 一つの意識

意識していないところを攻めるWS 身体にはどうしても表と背後(身体のくr)ができてしまうこと

→頭でなく身体で捉えてゆくこと

「頭→身体」ではなく「身体→頭」というのが本来である

身体で考える、とはどういうことか

 

言葉にも、予感(別の予兆が含まれている)かどうか

自分でも(頭では)分からないような予兆が含まれている状態

 

踊ることとエタニティ…、快楽に、予感に溺れず、それをどこまで泳いで行けるか、持続させられるか

 

なぜ、かたちは思考する、と言えるか… あることはあることの影響で起きている。全ては記号である。

 

欲望が突き抜けてしまったからこそ死んだ…、(太陽への、死への、エロスへの、

 

意識は身体に遅れる 身体は複数のレイヤーや予感を含みつつあるが、意識は一つのことしか思考でき

ない

身体の記憶(①個人②文化③生物、etc

 

踊りとは、身体が裏に持つ記憶とか歴史にアクセスする力、呪術的な力を持っている

~それは、「私」という個人の記憶だとかには還元できない。が、それはこの個人の身体を通して

~そしてそれは、共有できるものだろうということ ~そこへの、「信じる」ということ

 

岡潔

安田登「あわいの力」

ピダハン

退歩のすすめ

内臓と身体について、改めて同問題にするか…