(2018.3.3のテクスト引用)

 

3月2日(金)横浜STにて、T.Mizukoshiさん初のソロ公演『arumonora』を観劇。これまでの数年間、Mizukoshiさんのソロダンスを拝見してきたのですが、それはどこか舞踏的な指向をもっていて、動きへの身体的没入が、つきつめるとご自身の身体そのものへの探究につながるという道筋をなしていたように思います。しかしそれがけっして舞踏にならないのは、彼女がいう「身体が物体であること」の発見、「存在の土台としての身体の物理性」が、イメージとしての「物体」「物質」を媒介しないことや、<私>という謎の探究へと向かわないことなどにあると思います。彼女は身体にもっと普遍的ななにか、科学的な探究を可能にする対象を発見しているといったらいいでしょうか。それならば、Mizukoshiさんのダンスにイメージは不在かというとそういうことはなく、イメージは身体の内側から沸き起こされるのではなく、身体が光や影に触れあうときの皮膚感覚のようなものとして沸き起こってきます。そうした身体的探究の両面作戦は、そうとうに精緻な思考と感覚の作業によってなされています。かつてアート・アンサンブル・オブ・シカゴのトランぺット奏者レスター・ボウイが、即興演奏によるグレート・ブラック・ミュージックの科学的探究という意味でステージで白衣を着ていましたが、Mizukoshiさんのダンスにもそんな印象があります。『Arumonora』は、個別におこなわれてきたいくつもの探究作業を綜合したエポックメーキングな作品になっていて、見ごたえじゅうぶん、これまでにない側面を切り開いています。詩情と科学が背中あわせに提示されるユニークな身体的探究。

 

■ 彼女のソロダンスは、ここからの数年のうちに、本作品から急速にといっていいほど深化していくこととなり、自らの感覚を媒介にした身体そのものの探究と、ダンスの作品化という、『Arumonora』の時点ではまだじゅうぶんに突き詰められていなかった2つの方向性の落としどころが、さまざまな創意工夫、さまざまな試行錯誤をともなう作品としてクリエーションされていきました。なかでも彼女が主宰するプロジェクトの発展形とも、実質的なソロダンスともいえる、サウンドアーチスト山口さんとのデュオ(2019年7月、北千住での「『 』という名の音楽〜身体表現篇〜」)は、身体と作品の拮抗を見せるすぐれた内容を持っていたと思います。