悪魔への対抗手段 〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “神秘劇「秘儀参入の門」の終章をごらんになればおわかりになりますが、ルシファーとアーリマンは人間の目に見えないとき、最も有害な働きをします。誰かがアーリマン的な力に苦しめられているとしましょう。どうすれば、アーリマン的な力から逃れられるでしょうか。

 最良の方法は、アーリマンの絵を描き、部屋の中に掛けておくことです。

 アストラル的に苦しめられているものに対して、それを物質的に表現するのが最良の策なのです。アーリマンの像を目の前に据えていれば、アーリマンに服従することになると考えるのは誤りです。反対です。事物を可視的なものにしなければなりません。アーリマンの像の前を通り、無意識にアーリマンの像を見ているうちに、アーリマンの姿が残像となって自分の中に存在するようになり、神経質になるということはありません。アーリマンを目に見えない形で自分の中に担うと、神経質で、激しやすくなるのです。

 暖房室の煙突は建築的によくできていて、今日の粗雑なアーリマン文化に属するものだといいたくなります。人類が、今日のアーリマン文化に関わるものを建築しようと決意するまでは、アーリマン文化の害は斥けられません。現代文化の芸術への関係、精神科学の現代文化への出発点を作ることが、何にも増して重要なのです。”

 

(R・シュタイナー「シュタイナー 芸術と美学」(平河出版社)より)

 

(西川隆範「シュタイナー用語辞典」(風濤社)より)

 

*文中の「暖房室」というのは、人智学の殿堂「ゲーテアヌム」にある暖房館のことです。シュタイナーはアーリマンに対抗するため、あえて「ゲーテアヌム」を最もアーリマン的な建築資材であるコンクリートで建造しました。そういえば、戦前に出口王仁三郎聖師が天恩郷に建てられた神素盞嗚大神の最高神殿「月宮殿」の本体も鉄筋コンクリート製でしたが、単に頑丈だからというだけでなく、同じような霊的な意味があったのではないかと思います。

(暖房館)

 

*昔読んだ漫画家の永井豪先生のインタヴュー記事に、『週刊少年マガジンに「手天童子」の連載を始めるや、ほぼ毎晩、鬼が襲ってくる悪夢をみるようになり、原因不明の高熱が出たり、スタジオでも怪現象が起こったり、何人ものアシスタントが体調不良になってしまったのでお祓いを受けた。どうやら闇の世界の連中は、自分達のことを描かれるのを嫌がっているようだった』という内容のことが載っていたのを思い出しました。やはり、「悪霊は可視化されるのを嫌がる」というのは本当のようです。また、私が最近読んだ漫画で、ちさかあや先生の「あやかし浮世絵導師」(KADOKAWA)というのがあるのですが(原作:大志充、脚本:坂巻浩史/熊谷純)、江戸時代に葛飾北斎ら浮世絵師達が、闇に潜んで悪さをする魑魅魍魎を絵に描いて封じ込めるというストーリーで、なかなか面白い作品でした。ちさかあや先生は、かつて「コミック乱」誌で「豊作でござる!メジロ殿」という江戸時代の農法を紹介する漫画を連載されており、私もファンなのですが、この「あやかし浮世絵導師」や水木しげる先生の作品などを読んでおけば、もしかしたらそれだけでも魔除けになるかもしれません。

 

 

*昔、ヨーロッパを旅行していたとき、中世に建てられた大聖堂の雨樋にある「ガーゴイル」という悪魔の像が気になりました。外壁にとはいえ神聖な教会に悪魔の像があるということに疑問を感じていたのですが、もしかしたら当時のローマ・カトリック教会は、『悪魔に対抗するためには、悪魔の像を造って人々の目に触れさせねばならない』ということを知っていたのかもしれません。

 

*部屋に悪魔の絵を掛けておくとよいと言っても、悪魔の絵だけでは部屋の雰囲気がとてつもなく悪くなりますので、やはり聖なる存在の絵や像も必要です。大天使ミカエルを描いた伝統的な絵では、彼は悪魔を踏みつけにしており、また聖母マリアも蛇を踏みつけていますが、このような絵こそ、部屋に掛けておくにふさわしいもののように思います。あと、毘沙門天も天邪鬼を踏みつけていますが、同じように悪魔を踏みつけているチベット仏教の憤怒尊の絵や像、聖ゲオルギウスの龍退治のイコンなども良いと思います。

 

 

   「大天使聖ミカエルへの祈り」 (ローマ教皇レオ13世作)  

 

       大天使聖ミカエルよ。

       戦いにおいて私たちを守り、

       悪魔の凶悪なはかりごとに勝たせてください。

       神が悪魔に命じてくださいますよう、

       伏してお願いします。

       ああ、天軍の総帥よ。

       霊魂をそこなおうとして、

       この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、

       神のおん力によって、

       地獄に閉じ込めてください。

       アーメン。 

 

*映画「ヴァチカンのエクソシスト」のエクソシストのモデルとなったガブリエル・アモルス神父は、『教皇レオ13世によって作られたこの祈りは実にすばらしい祈りであり、それを唱える人たちすべてに大きな恩恵をもたらしてくれる』と語られています。

 

*天台密教の「降魔札」として知られる「元三大師(角大師)」は、奇怪な、鬼のような姿をしていることで有名ですが、これも同じ理由かもしれません。ひところ流行った江戸時代の妖怪「アマビエ」も、『疫病を退散させるためには自分の姿を描き写した絵を人々に見せよ』と語ったと伝えられていますが、こちらも単なる迷信とは思えませんし、実際にアマビエの絵にはコロナ対策にある程度の効果があったのではないでしょうか。

 

・エドガー・ケイシー 「悪魔は存在する」

 

 “……この命と真理の御子は、人間がこの物質界において悪に優る善の力へと上昇するために道を説き示し、先導し給わんとして、物質的・肉体的存在となり給うたのだ。それ故に、人格を備えた救い主が存在するように、人格を備えた悪魔も存在するのである。(262-25)”

 

(ヒュー・リン・ケイシー編「精神革命ガイド・ブック」たま出版より)

 

・霊縛の話 (悪霊の嫌がる「霊界物語」の拝読)

 

 “昭和二年の秋からボツボツ拝読させていただいていた霊界物語によって、現界の他に神界、幽界があるということを知らせていただきながら、実体としての把握がなかなかでき難かった私にも、折あるごとに神さまは目にもの見せて下さいました。昭和三年の初夏のころ、大阪の北畠に住んでいた私の家へ近所の三十七、八才の奥さんが神さまの話を聞きたいと度々通ってこられました。

 ある日、私は階下の奥の間で霊界物語を拝読していると、その人が来て同じ室で父と話しながら、時々顔をしかめ、私の方を見て、「ねえちゃん、頼むからその本読むの止めてちょうだい。頭が痛くてかなわん」と言います。私は不審に思いながら、一間隔てた台所へ行って、また続きを小声で拝読していると、突然飛鳥のようにその人が私の傍までとんで来て、「やめと言うたらやめんかあ」と握りこぶしを振り上げて打ち掛かってきました。この時、奥の間から父の大喝一声「ばかっ」と辺りの空気が振動する位の声がとんで来ました。すると、てっきり脳天を叩かれると思った私の前へ、そのおばさんが棒立ちになり、振り上げた手をそのままに固まってしまいました。そして涙をぽろぽろ流しています。

 私は座ったまま呆気に取られてじっと見ていますと、父が奥の間から「もうよろしい」と言いましたが、おばさんは動けません。そこで父は神さまにお願いし、「許す」と大声で申しましたら、やっとおばさんの身体は自由になり、平身低頭、何度も謝って、ご神前のある二階へ行く階段の下まで行って、何かぶつぶつ言い、早々に帰って行きました。

 後で父に聞くと、おばさんが血相変えて立ち上がって来た時、とっさに「聖師さま」とお願いするとグッと下腹がふくれて、ひとりでに大きな声が自分の口から出たのだそうです。それから「奥の間にいながら台所へ来たおばさんのありさまが手に取るように判ったが、ふしぎやな」と言って神さまのおかげを何度も何度も感謝しておりました。またこのおばさんは別の日に、自分の腹の中には狸がいて、何時も自分と色々な話をするのだと言っていました。私は当時十才でしたが、「まるで高姫さんのような人やな」と思っていました。後で聞くと私を叩きに来た時、奥の間から大きな火の玉のような光が飛んできて、おばさんの身体にぶつかり、動くことが出来ぬようになった、と言っていました。真(まこと)の神さまのお言葉をいやがる、聞きたがらない霊界があるということを、この時はっきりと見せていただき、有難くて訳のわからぬ涙がぽろぽろと何時までも出て来た事を覚えております。ともあれ、神さまはいつ、どんな時でも、私らの身をご守護下さっているということは、筆舌にたたえ尽くせぬ喜びでございます。”

 

(「おほもと」昭和47年9月号 中井和子『霊縛をうけた婦人』より)

 

・宣伝歌の力

 

 “宣伝歌の『朝日は照るとも曇るとも』という簡単なことば……ことばでいえば「なんだこんなもの」といってるが、あの声が響くと、悪霊のかかったものは逃げてしまいます。

 昔は聖地でも霊的現象が多かった。悪霊のかかった連中は、宣伝歌の声を聞くと非常に恐がった。だから、苑内では青年が毎日毎日宣伝歌を歌っていました。今はそういうことはなくなってしまいましたが。やはり神の意志からでたことば……言霊というものは同じ口から出るけど、自分の意志、想念から出たことよりもはるかに力がある。霊界に響く力があるということを、私たちは常に心がけておかなければなりません。霊界物語は少しずつでもよいから拝読する必要があります。拝読を続けて、自分の気持ちを聖師さまの意志、想念と合致するように心がけることが大切です。”

 

       (「おほもと」昭和48年6月号 大国以都雄『天界に通じる法』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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