地蔵流し供養と印形作法 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私が地蔵菩薩の信仰の由来を申せば、私が少年時代に遡るのであります。私の本師順盛上人は齢九十にして、今から七年前に郷里下総古河の在野木村満願寺に於いて入寂せられましたが、此の本師上人の感化に依って、私の地蔵信仰は植付けられたのであります。予が十一二歳の頃、私の為に土焼きの地蔵尊を附属されて、其れを朝夕念ずる様にと勧められ、また、今も尚手許にありますが、妙定院の名が印せられてあります、小型の地蔵尊像を授与されたものを、私は子供ながら、自分で表装して、それを守札として大切にして置いたものである。然るに、中年の頃より、東西に漂浪し、学生時代に入っては、殆ど信仰なぞにたづさはることもなく、無我夢中に日を暮らして、遂に三十年も過ぎ去ったのであった。年三十一歳。

 明治四十年五月始めて、自己に夢覚めて、九州、四国遍路の旅路に上り、以来、私の性格は一変して、遂に信仰生活に入り、或は坐禅、観法、出来る丈の修行方法を講ずることに苦心したのであった。

 大正三年の暮、私は下野小俣鶏足寺に住職して、翌年の夏桐生川に小学児童の溺死せるを弔ひ、且つ今後に於いても溺死者のなからんことをと、も一つは、汽車轢死者を弔ふ為に、仝(どう)年旧盆会の翌日即ち十七日に於いて、大和長谷寺塔頭法起院に住せる布藤智英尼の押捺し来たれる地蔵尊像一万体と、わが老師が蔵せる地蔵尊像の印影に依りて、押捺せるもの数千体とを桐生川に流したるに、同川上に於いて、溺死せる者も滅し、轢死者も全く途絶えたる因縁より、予は毎年恒例として、同川上に於いて一会の施餓鬼と、地蔵流し供養を修して、今日尚行なって今では、小俣町唯一の年中行事となって居るのであります。

 夫れより、私は、大正九年尼港事件が起こって、其の六月侍従武官の一行が見舞われるに際し、各宗代表の一行九名の中に加はって六月二十一日東京を発し、小樽から進んで、二十八日に間宮海峡を経て、尼港残虐の跡を弔った。其の時予は一万体の地蔵尊影と、外に加持土砂(雲照律師の加持せしもの)一袋を携へて渡航し、六月二十九日、三十日に亘って、追善供養を行ひ、ひそかに、件の地蔵尊を黒竜江上に流し、且つ土砂を流したのであった。然るに、三十日の夜俄(にわか)に大風起こりて、死骸の浮上がりしもの、三百以上に及び、殆ど全部の死骸が浮き上がったごとき感がある。為に七月一日に帰京すべき日程を変更して、二日に帰途に就く様な事になった。其の間、有難く感じたのは、死骸を陸軍の方で火葬に附すとき、丁度一行の各宗代表は立ち会って回向した。其の時、案内役の國分中佐が、死骸の彼方を指して曰ふには、

 『彼の死骸を御覧下さい。彼の死骸の多くは、皆鼻血を流して居ります。昔より、臨終に遇へなかった身内の者が来た時には、其の死者は鼻血を流すと聞いて居りましたが、貴下方が、来て下されて、斯く御回向をしてくだされた御陰で、死骸も喜んで、鼻血を流したのでせう』と。語られた。成る程、死骸の多くは鼻血を流して居った。さりとて、支那人の死骸も、露西亜人の死骸も相当に浮上がったのであるが、別に一人も鼻血を流した者なぞはない。此の様な次第で、実に驚いたのである。

 次に、私が、此の地蔵尊に関して去る大正十二年の春でありました。東京興正会で、原田祖岳老師のすすめで、二十七万枚を押捺してあるのを用ひて、それを下毛小俣鶏足寺の地蔵流しに供養することとして、其の年の盆会の恒例に十万体丈を流して、残り二十七万体を日光に持参して、華厳瀑畔に於いて流さんとしたのであった處が、同年九月一日の関東大震災であったので、直ちに其の尊影十七万体を携へて隅田川、被服廠、其の他各地の死骸に供養し、進んで、横浜まで行って、到る處の死骸におまつりして、心ゆくまで供養、回向したのでありました。夫れで、日光行きの地蔵流しは自然延期しましたが、大正十四年の夏因縁が熟して、日光山に於いて、二十七万体の地蔵尊像を流して、藤村操以来の投身者の菩提を弔って、且つ将来投身者を防止せんことを祈願した。翌十五年八月二十八日また登山して偶々勝道上人の廟所に参詣して帰途聞く處によると、数日前、華厳投身者が華厳の滝に投せんとして、遺書を両親に送り、自分は滝壺に飛び込んだが枝にひっかかって姓名を拾ひ、山上より降ってきた處、両親が山に登ってきたのにひ、非常に喜びあった話もあるほどで、投身者の数も大分減じたとの事である。是等も地蔵流しの反影であると信ずるのである。

 夫れから其の年、田中太吉翁と松崎整道居士(同居士は墓相の大家)と三人日光からの帰途に於いて、華厳瀑畔に地蔵尊を建立して、藤村操以来の投身者の霊を祀り、今後の投身者を滅絶しようではないかと、相談がまとまりて、遂に昭和二年五月二十八日を以て、中禅寺湖畔歌ヶ濱に於いて、建立開眼式を行なった。それが今日の『華厳地蔵』であって、其の建立については日光輪王寺門跡今井徳順僧正は、地域を開放して本願を成就せしめられた。また此の建立に関しては、原田老師及び興正会の工学博士中川荘助氏夫妻を始め、東京功徳海地蔵講員其の他有縁無縁の方々が多大の盡力をしてくださった結果である。其の際に於いて不思議と思はるることは、霧降の滝に醬油樽ほど大蛇が現はれたことであった。其の大蛇なるものは、丁度私共が歌ヶ濱に於いて地蔵流しをして居った頃であったと思ふが、帰途此の話を聞いた。のみならず翌日の新聞に委しいことが伝へられた。私は帰京の上此の事を権田老大僧正に話すと、老師の云ふには、日光には、昔より大蛇が居るとの事であるが、其れは貴下等の浄行に感じて現はれたのである。貴下が是迄の仕事のうちで、今度の地蔵尊建立は一番功徳のあった仕事であると語られたほどであった。夫れに、其の当日同じく参詣して居った信者の中、兼松高一医学博士の奥さんは、其の年の四月に卵巣に腫物が出来て、主人も医大に行って、手術する都合であったのが、中川博士夫人の勧めに依って、地蔵尊影を押捺しつつあったが、愈々入院すると云ふ日になったら、その卵巣の腫物はきれいにいつのまにか失せてしまったと云ふことであった。此の話は右本人から直接きいたのであった。

 其の後、日光華厳地蔵尊のお祭りは、毎年七月上旬に行なはれ、松崎整道居士が東京功徳海地蔵講多数随喜の善男善女と共にお地蔵流しの功徳を継続せられて居られる。同居士は其の外にも隅田川上流荒川筋に於いて春秋の彼岸年二回に亘りて施行せられ昨年春は一千万体余のお流しを三年間に成就した。また新田義興の古戦場である玉川矢口の渡しに延命地蔵堂の法楽と共に毎年一回お流しをなされて居ります。また、右の中川博士の関係して居る興正会では、昭和二年以後玉川に於いて地蔵尊影流しを行なひ、『圓満地蔵』と云ふ石像を建立して毎年地蔵流し供養をして居って昨六年の秋に於いては百二十七万体を流したのである。そうして皆其の信者は、何れも特殊の御利益を蒙って居るのである。

 東京市外成蹊高等女学校長興田正造氏の嚴父は故郷の飛騨高山に於いて尊体お流しの浄業者である。時あたかも日露の戦役に際し、戦死者の霊に手向けるため、木の葉に尊影を刷って流されたとの事である。それは木の葉なれば玄界灘まで完全に流出するとの信念から、幾俵ともなく沢山供養せられたとの事である。

 所謂知識階級者間にありては、兎角斯様な行事を迷信扱いにして一向に顧みられないのが近代の世相であるが、昨年八月初旬奈良の法隆寺に於いて、夏期講習会の催しがあった。来会者は関東関西の教育家が多かった。法隆寺貫主佐伯定胤猊下は是等の人々に尊影刷印の浄法を授けられ、凡そ十万体の捺印を勧められて大いに法益を施されたとの事である。また近江の琵琶湖では毎年夏期大阪の山口玄道氏が主催で、水死者の供養の為に、お流しの行事を営まれて居る。此の外にも足利、桐生、其の他随所に斯様な行事が年々盛大に趣きつつある。”

 

 “さて地蔵尊像一万体印行及び其の河水に浮かべてお流しをする由来は、今より二百年前、江戸の小石川に居られた田付氏が、或る時地蔵菩薩の霊夢に依りて、感得した地蔵尊の印像を以て其のお告げの通り、一万体を、両国橋より河水に浮かべ、妻女の重病を癒したのが始まりであります。そうして、其の版木を下谷の高岩寺に納め――(高岩寺は今日の巣鴨の「とげぬき地蔵」である)――其れから全国に弘まったのであります。最も関西方面の起源は別にある事と思ふ。

 わが密教にては、水施餓鬼の法に此の地蔵流し供養をいたします。大和長谷寺の塔中に能満院の海如和上と申すは、地蔵菩薩の三昧を発得せられたと伝へられ、明治十六年頃迄御存生であられましたが、矢張り地蔵尊影を押捺して河水に浮かべられたと申しますが、私の老師順盛上人も、地蔵尊影を押捺して、常に河水に流されて居ました。”

 

 

(大和長谷寺化主・小林正盛「延命地蔵経のお話」(森江書店)より)

 

 

・「地蔵流し」のやり方

 

 

(大阪徳風会「家運とお墓 運の直る話」より)

 

 

・枇杷の葉療法の起源

 

 “昔から全国津々浦々のお寺で、枇杷の樹を植えて、病気で悩む人びとを枇杷の葉で治癒してきたことは前に述べました。

 その中で金地院の河野大圭禅師の療法が有名です。

 生の枇杷の葉を火で焦げない程度にあぶり、二枚合わせて両手で10回ぐらいすり合わせ、これを一枚ずつ両手に持って、熱いうちに患部を摩擦する

という最も原始的な方法です。

 この方法が、わが国に枇杷葉療法としてはじめて伝わった当時のやり方であったといわれています。

 これがだんだんと各宗派の寺々に拡がり、宗派によって「南無阿弥陀仏」あるいは「南無妙法蓮華経」と枇杷葉に墨で書き、また子供の病気には、お地蔵さまのお姿を描いて、祈りを込めて治療したのです。これは先にも述べましたように、精神的に大きな効果をもたらす上に、科学的には墨は炭素ですので熱の吸収をよくして、枇杷葉の薬効成分の蒸気化をはやめ、その薬効を高めるわけです。

 河野大圭禅師はこの療法によって、実に二〇万人以上にも及ぶ難病者、奇病者を救われたと伝えられています。”(P116~P117)

 

 “昭和八年、東洋医学の権威としてよく知られる大塚敬節先生もその評判を聞くに及び、その実際を確かめようと、河野禅師に会われました。

 そのときの印象を、先生は次のように述べておられます。

 「私の治療していた婦人の腹水が、たった一回、びわの葉でお腹をなでただけで消えてしまったこともあった。禅師の治療法は、びわの葉に墨でお経の文句を書き、それを火鉢であぶりながら、まず患者の腹をさすり、次に、それぞれの患部をさするのであった。一人の患者の治療に要する時間は、二、三分であった。

 この場合、びわの葉の効果の他に、禅師の精神力が病気の治癒に大きく働いているように私には思えた。ところが、私はその後、ガンの患者で、胸部がひどく痛む者にびわの葉に墨を塗って火であぶり、患部をあたためるだけで疼痛の軽くなるのを見た。もちろん、ガンが治ったわけではなかったので、その患者は死んだけれども、あの激しい痛みがびわの葉で軽くなったことは不思議であった。」(大塚敬節著『漢方と民間薬百科』主婦の友社刊より)”(P111~P112)

 

(三津間正 / 神谷富雄「ビワ葉療法の秘密」(KKロングセラーズ)より)

 

*ここに紹介されているように、枇杷の葉療法には、葉に御経や名号、地蔵菩薩のお姿等を書いて、火に炙って患部に当てるというやり方もあるらしく、どうやらそれが本来のやり方だったようです。終わった後で、御経や仏様のお姿を書いた葉をそのまま棄ててしまうとは考えにくく、おそらく流し雛のように川に流したのではないかと思います。

 

・地蔵菩薩は主神のご分霊

 

 “時により処によりて、神人の身魂は各自変現されたるなり。何れも豊国姫命の分霊にして、国治立命の分身なりける。

 少名彦は幽界を遍歴し、天地に上下し、天津神の命をうけ猶太に降誕して、天国の福音を地上に宣伝したまふ。

 天道別命は天教山の噴火口より地中の世界に到達し、これまた数十万年の神業を修し、清められて天上に上り、天地の律法を再び地上に弘布せり。之を後世「モーゼ」の司と云ふ。

 天真道彦命も同じく天教山の噴火口に飛び入り、火の洗礼を受けて根底の国を探険し、地上に出生して人体と化し、エリヤの司と現はれてその福音を遍く地上に宣伝し、天下救済の神業に従事したり。

 また高皇産霊(たかみむすびのかみ)神の御子たりし大道別(おおみちわけ)は、日の出神となりて神界現界に救ひの道を宣伝し、此度の変によりて天教山に上り、それより天の浮橋を渡りて日の御国に到り、仏者の所謂大日如来となりにける。神界にてはやはり日出神と称へらるるなり。

 また豊国姫命は地中の火球、汐球を守り、数多の罪ある身魂の無差別的救済に、神力を傾注したまへり。仏者の所謂地蔵尊は即ちこの神なり。

 天教山は後にシナイ山とも称せらるるに至りぬ。併し第一巻に表はれたるシナイ山とは別のものたるを知るべし。

 弘子彦司は一旦根底の国にいたりしとき、仏者の所謂閻羅王なる野立彦命の命により、幽界の探険を中止し、再たび現界に幾度となく出生し、現世の艱苦を積みて遂に現代の支那に出生し、孔子と生れ、治国安民の大道を天下に弘布したりける。

 然るに孔子の教理は余り現世的にして、神界幽界の消息に達せざるを憂慮し給ひ、野立彦命は吾が身魂の一部を分けて、同じ支那国に出生せしめ給ひぬ。之老子なり。”

 

(「霊界物語」第六巻 第23章『諸教同根』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング