「故郷喪失者」 〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “稀有の霊学研究家高橋巌氏は、シュタイナー人智学における民族に対する態度について、「シュタイナー思想の民族や血族共同体についての考え方の非常に特徴的な点はこういうことなのです。つまり、私たちの一人ひとりが、もし、この共同体を自分を救済してくれる場所だと考えるとすると、民族の問題は国家権力と結び付く、むしろ私たちが自分からそこに自分の力を流し込もうとすることができれば、民族の問題は神秘学の最高の課題となる、ということなのです。……民族を自己救済の手段にはしない、ということです。……それからもう一つ、人智学からいって大切な問題は……人生のある時期に、共同体から自分が完全に切り離された、という体験を持たないと、霊的に先へ進めなくなるのです。……誰でも一度ハイマートローザーにならないと、民族の問題は見えてこない、と言うのです」(『現代の神秘学』(角川書店)と、している。ハイマートローザー、故郷喪失者という道を秘儀参入者は通っていくのである。

 このことに関しては、シュタイナーは『民族魂の使命』で、「故郷喪失者というのは、故郷から発する 特定の感情や感覚のニュアンスを交えることなく、人類全体の偉大な使命を受け入れる人のことです。このことから、神秘的-神秘学的な進化のある段階において、自由な視点を持つ必要があることがおわかりいただけると思います。個々の民族精神の使命として、民族の土壌から、民族の精神から人類全体の使命に具体的に寄与するという偉大な行為に対しても、自由な観点を持つ必要があるのです。」と、語っている。だが、故郷喪失者は必要な段階ではあるが、最終段階なのではない。シュタイナーは、つづいて、「故郷喪失というのはひとつの回り道なのです」、「故郷喪失という聖地にいたったあとで、民族の本質に帰る道を見出し、人類進化において土着のものとの調和を見出すための回り道なのです」としている。

 日本人なのだから日本を愛するということではなく、偏狭な民族主義から脱して、自分という個体が冷静に世界の霊性に向かい合ったあとで、主体的に民族にかかわっていこうとするのである。強大な日本の民であることに酩酊する主観的な愛をもって民族エゴイズムに陥るのではなく、人類的な視点から日本を見て、日本に客観的な愛を注ぐことが大切なのである。”(P101~P102)

 

 “……二十世紀には、ルシファーとアーリマンがカウンターバランスをとることをやめ、挟撃してくると、シュタイナーは見ていた。

 つまり単純な、精神性への指向や、素朴な物質文明、貨幣経済、情報化、〈知〉の産業化賛美は、むしろそれとは逆の本質を持つサタン、デヴィルの誘惑であることが多いということではないだろうか。安易な新宗教、新々宗教への入信や、自己発見の旅やセミナーへの参加が、かえって真の精神性、霊性からの逃避であったり、素朴な物質文明や貨幣経済への信頼によって、公害や環境破壊を招き、かえって地上の富を喪失しているなど、その事例は枚挙にいとまがない程である。

 これらは割合に、よく分かることがらであるが、たとえば一時ブームとも呼ぶべき状況になった反原発運動などにも、一種の「安易な新々宗教」といった側面があったり、逆に新々宗教が盛んにすすめる「健康法」や「健康食」「サプリメント」などに、盲目の科学信仰、合理主義への素朴な追従などが見られたりもする。シュタイナーもよく言っているように、やはり「事はそれほど単純ではありません」ということであろう。

 そうしたなかで、シュタイナーは「故郷喪失者」になることを薦めている。シュタイナーが「故郷喪失者」というときは、神秘的-神秘学的な進化のある段階に達した修行者を指すテクニカル・タームとしての用法であり、単純に故郷を喪失した者をいうものではない。

高橋巌氏は「現代の神秘学」のなかで、

 「人生のある時期に、共同体から自分が完全に切り離された、という体験を持たないと、霊的に先へ進めなくなるのです」「ある時点で、自分の国の国民性が嫌いになり、たとえば、日本人である自分がたまらなく恥ずかしくなったりするようなときがあります。自分は日本人でなく人間であり、世界市民なんだ、別に日本人として規定されようとは思わない、そういう感じ方をしたことがないと、民族の問題は見えてこないのです」

と述べておられる。

 この場合、神秘的-神秘学的な修行を前提とするシュタイナーの用法における「ハイマートローザー」(故郷喪失者)なのかどうかよくわからないのだが、シュタイナーが述べていることのなかでもうひとつ重要なのは、「故郷喪失者」の持つ積極的な意義である。「人生の或る時期に、共同体から切り離され」たその体験が尊いのでもなければ、「ある時点で、自分の国の国民性が嫌いになり……日本人として規定されようとは思わ」なくなったそのことに意義があるわけでもない。シュタイナーは、『民族魂の使命』の中で、次のように述べている。

 「故郷喪失者というのは、偉大な人類の法則を認識し、把握するときに、民族が生きる場所から発するものすべての影響を受けない人間のことです。故郷喪失者というのは、故郷から発する特定の感情や感覚のニュアンスを交えることなく、人類全体の偉大な使命を受け入れる人のことです。」

 つまり、シュタイナーは、神秘的-神秘学的な進化のある段階において、具体的、個別的なことがらに拘泥されない自由な視点を獲得するように、民族魂の使命を考察し語るうえでも、ひとたび「故郷喪失者」にならなければならない。故郷喪失という聖地に行ったのちに、民族の本質に帰る道を見いだすこと、そのことが人類進化において土着のものとの調和を見いだす道なのだ、ということを述べているわけである。

 そうして、なぜ、いま、民族魂の使命について語ることが重要であるかというと、それは「いままでよりもはるかに人類全体の使命のために再結集するというのが人類の近未来の運命」(『民族魂の使命』)であるからだと言うのだ。

 六六六のときの三度目の繰り返しである現在、たしかにサタン=アーリマンとデヴィル=ルシファーが教導して人類を挟撃しているような現象が多く見られ、ペストならぬエイズが、現在の黒死病のように不気味に蔓延しはじめている。東西冷戦構造こそ終結したものの、東ヨーロッパ・旧ソ連邦のみならず、アメリカやアジア、中南米などに、かえって小さな紛争や民族問題が激増している。

 東西冷戦構造の終結は、平和の訪れを告げるものではなかった。近代における国民国家の成立、国際機関・コミュニケーションの発達、それにボーダレス・エコノミーの推進は、けっして民族問題を過去の歴史へと追いやりはしなかった。だから……、まるで天地開闢のそのときのように、地球は、もういちどドロドロになるのだろうか。

 シュタイナーは言っている。「いままでよりもはるかに人類全体の使命のために再結集するというのが人類の近未来の運命」である、と。

 現在の民族紛争の激発は、人類が再結集するための前哨戦であると言うのだ。”(P149~P152)

 

(松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房)より)

 

 

「偏狭な民族主義は人類を退化させる」

 

 “シュタイナーは、現代史の中に二種類の霊的な力が激しく衝突するのを見ていた。一九一七年十月二十六日の講演で、次のように述べている。

 「光の霊たち」は「いま人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている」。それに対して「闇の霊たち」は「人種的、民族的な関連、血に根差した古い衝動」を現代によみがえらせようとする。「人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません」

とシュタイナーは警告した。”

 

 “民族主義を意識的に煽っている人間たちがいる、とシュタイナーは考えていた。彼らを駆り立てているのは、特定の民族至上主義や愛国心ではなく、「純粋な破壊衝動」である。

 

 (高橋明男「〝光の霊″と〝闇の霊″の激突」より)

 (「歴史読本臨時増刊 特集・超人ヒトラーとナチスの謎(‘89-3)」(新人物往来社)に掲載)

 

*他国で開催される、スポーツの国際大会などでは、しばしばその国の選手にとって過度に有利な判定が下されることがよくあります。中には明らかに不正なものがあり、それを審判だけでなく運営側までもが荷担して、あからさまな不正が平然と行なわれることに驚くこともあります。しかし、これも故郷喪失者になったことのない連中にとっては当然なことで、自民族を超える視野を持たず、超越的な存在に意識を向けたこともない者たちには身内を贔屓することが正しいのであり、もともと『公正な立場から判定を下す』能力というものがないのです。これからの世界では、霊的に進化する民族と、先に進めずに退化する民族とに別れるということですが、いったん故郷喪失者となった者たち、民族を超える視点を獲得した後に再び自分の帰属する民族への帰還を達成した者たちの果たすべき役割とはどのようなものなのか、このあたりのことも、「霊界物語」にはちゃんと書いてあるようです。頭ではわからなくとも、ただ読んでさえいれば、膨大な文章の要素の中から新しい一文が創り出されて、それが意識に上ってくるかもしれません。

 

*戦後、長きにわたり日本人を支配した「自虐史観」は、世界に例を見ないもので、あのドイツにすらこのような異様な「自虐史観」なるものはありませんでした。多くの日本人が、素直に祖国を愛することすらできなかったのは実に悲しいことでしたが、今はもうかなり洗脳は解けておりますし、もしかしたらこれは更なる霊的進化のために必要な『回り道』のプロセスだったのかもしれません。日本人のすべてをいったん「故郷喪失者」にすることで、将来の世界平和実現の御用をするための資質を獲得させるための『神の計画』だったのかもしれません。

 

・「大本神諭」 大正八年十二月十八日 

 

“古き神代(かみよ)の有様(ありさま)を早く世界の人民に解いて聞かさぬと、日本の神國の人民が天地を経綸(しぐみ)する主宰者(つかさ)であり乍ら外國の人民と同じやうになりて了うて居るから、第一番に日本の人民が我身霊の(わがみたま)天職を覚りて、日本魂(やまとだましひ)に立帰りて、神世からの尊い因縁を覚りた上世界の人民を助けてやらねば成らぬ天来の大責任者であるぞよ。世界に大混雑が起るのも悪い病が流行るのも、日本の人民の上下の身魂が曇りて天までも曇らして、日本魂の働きが出来ぬからの事であるぞよ。……此世に生まれて来た日本の人民は特別に神界の仕組に使ふやうに生まれさしてあるのであるから、今の日本の人民は天地の使命が中昔(むかし)の世の人民とは一層重大(おも)いのであるぞよ。同じ地の世界でも日本の國ぐらい結構な國はないぞよ。其の結構な日本の國に生を享けた神民は猶更この上もなき仕合せ者であるから、世界萬國に対する責任が外國の人民よりは何十倍も重いので在るから、自己本位(われよし)の精神では日本の人民とは申されんぞよ。”

 

・国魂(くにたま)による世界の再編成  (神意に基づいた平和論)

 

 “「民族自決」の言葉が第一次欧州大戦の平和会議で日本から提案されたとき、一応否決されたが、既にそれより以前に、出口聖師は、

―― 国魂を源流として民族というものが発展したのであるから、国魂を混合したり、無視したりしたら、世界は治まるどころか混乱する。真の平和な世界をつくろうとすれば、国魂によって民族は自決し、国魂に基づいた国家の形成ができなくてはだめだ。将来民族問題は大きく紛争を繰り返して、如何な大国が力をもって統治しようとしても、どうにもならぬことになる――

と主張されていた。

 『わしは平和の世界をつくるには垣をとれといって来た。その垣というのは一つは民族と民族の垣だ。優秀な民族だの、劣等民族だのと、時代の盛衰によって征服されたり、征服したり、民族の発展期のものと眠りにおち入ったものとを表面から見て批判し優劣をきめるようでは平和は来るものではない。神性の解放、魂の解放によって、相互が平等に、互いに尊重し合うようになれば平和の世界は期せずして出現する。わしの平和論は根源を神性に発しているのだから、近代思想などから結論される平和論とは本質において異なっている』

といっておられた。

 そこで、

 「神意によるみろく世界の構想は、それでは国魂の国家形態でなくてはならないのですね」

と念を押して尋ねてみると、

 『そうだ、国魂を無視して、いかに国家形態をつくり、力で統治していても、いつかは反抗して争うことになる。世界に流布されている思想も、その国魂の反抗や不平等から変形的に発生するものが思想の形をとって現われたものもあるから、その点を注意して見ないと、思想だけを見たのでは判らないところがある。だから歴史というものも、国魂の動きと関連して見るようにしなくては真実をつかむことはできない』

ということであった。

 国魂ということになると、これは容易ならぬ問題であって、世界の創造の歴史にさかのぼってゆかなくてはならなくなる。しかし、そうした研究資料というものは無いといってよいのだから、どうにもならないことになる。

 「国魂の歴史を研究するには、どういう文献によったらよいのでしょうか」

 『それは古い宗教書によることになるが、それだとて断片的だ。そこでわしは霊界物語で国魂の配置や、そのかんながらの性格や、動き方について比喩的に発表しておいた』

 「霊界物語に国魂のことは出ていますが、なかなか判りません」

 『知識的に見ても判るものではない。神的英知によったら判る』

 神的英知ということになれば、普通人としてはあり得ないことである。不可能に近いのであきらめるより仕方はない。そこで、

 「研究は不可能ですね。われわれには神的内流はないのですから」

 『ある。信仰信念によって身魂を浄化向上させ、天的な相応の状態になれば、おのずから英知は輝いて来る』

 「そうすると、みろく世界の構想も、真の世界平和のあり方も、すべて宗教的根源から研究しないと判らないことになるのですね」

 『そうだよ。みんなは宗教的宗教的というが、神の創造した世界で神の守護にある以上、神意、神則を見ないで、世界の構成や発展が判るはずがないじゃないか。しかし神ということが判らぬから宗教的にゆかなくてはならないだけのものであって、神の世界ということが判っているものには、宗教的とか信仰的とかいう言葉が、いかにもつけ足したように感じられる。要は宗教的に進んで行くことが真実をつかむのに早いだけであって、神の世界ということが確かになっている者には、みろく世界も、平和世界も、メシヤの降臨する世界も一つで、国魂によって人類はその位置を得、互いに協力一致すれば、それが神代なのだ』

 「そうですか、元の神代にかえすぞよといわれるのは」

 『元の神代の元ということには国祖という意味もある。現代は神をないものにして、人間主体となっている。元切れて末続くと思うなよという神諭もあるが、すべての元、根源に一応帰一して、そこから一切の眼鼻をつけなくては、神的の順序が違うのだよ。外流ではものはなりたたない。内流が外へと流れて形体ができるという根本がつかめておれば、わけなく理解されるじゃないか』

 「知恵や学では世は治まらぬというのですなあ」

 民族問題については、霊界物語の山河草木の卯の巻にも出ていることであるが、出口聖師の民族論も、国家再編成というみろく神世の構想も、神的秩序による根源からいわれるのであって、平和論のごとき、時には誤解を招いたこともあるが、時代思想から批判すると間違いが起きるのもうなずけるのである。”

 

      (「おほもと」昭和32年8月号 大国以都雄『出口聖師と現代社会』より)

 

 

・「神国としての日本の使命」  

 

 “……覚也はさらにこんなことを尋ねている。

 「日本はなぜ戦争を起こしたのですか」

 これに対して聖師は、

 「いまの日本のえらい人たちは、『われよし』で自分たちが一番正しく、えらいと思っている。それで戦争が起きるのだ。日本ばかりではなくアメリカもソ連も他の国の人々も、この『われよし』を改めないかぎり戦争はあとをたたない。」

と答えられた。覚也はさらに、戦争に敗けたあとの日本はどうなりますか、とも問うてみる。

 「いま、戦争を起こしているのは、ほんとうの日本ではない。また、ほんとうのアメリカでもない。日本に巣くう、もっとも悪い日本の一部と、アメリカのそれが戦っている。そして『われよし』主義の日本が敗ける。こんなめでたいことはない。早く敗けてほんとうの日本に生まれ変わることだ」

というのが聖師の答えであった。この時代に日本が敗けるというだけでなく、それがめでたいとは実に剣呑な放言で、警官がきいていようものなら、またまた監獄へ逆もどりだ。それでも聖師はおかまいなしに談論風発をつづけられ、

 「ほんとうの日本は、世界人類愛善の旗のもとに、世界平和を打ち建てる宿命を神からおわされているのです。好むと好まざるを問わず、自然にそういう使命の道を歩かざるを得ない」

 なるほど神国日本という真の意味はそういうものなのかと覚也は感じた。”

 

(島本邦彦「大地の叫び 島本覚也の生涯」(酵素の世界社)より)

 

*出口ナオ開祖のお筆先には、はっきりと「悪魔が日本の国を盗ろうとしている」と出ています。エドガー・ケイシーも、「人格としての救世主が存在するように、人格としての悪魔もまた存在する」と言っていますが、ルドルフ・シュタイナーも、かつてカスパー・ハウザーの身に起こったように、意識的に人類に敵対する力が存在することを語っています。現在、この力が世界、そして我が国に対してどのように作用しているのかを見究めねばなりません。シュタイナーは、悪魔アーリマン、ソラトは主として唯物論のなかで作用すると言っており、政界や財界、司法界、マスコミや教育の現場などに多数存在する反日左翼活動家たちの動向には特に注意すべきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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