一神即万神 (一神教と多神教) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・一神即万神

 

 ”半可通論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云って居るが、斯かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主大神と称え奉り、其の他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にドコまでも我神道は一神教であるのだ。”

       (木庭次守編「新月のかけ」)

 

・一神教と多神教   〔シュタイナー人智学〕


 “ユダヤ人の使命である一神教については、シュタイナーは『民族魂の使命』で、つぎのように説明している。

 「アトランティス後の時代に、はるかなインドから、広大なアジアを通ってヨーロッパまで、さまざまな霊的存在、さまざまな位階の存在を認める見方が形成されていった、ということができます。
 この多数性肯定主義に対立し、それを補うものとして単一主義があります。一神教に霊感と衝動を与えるのが、セム民族です。彼らの本性、血の中に一神教を代表するものが存在しているのです。
 偉大な世界存在を見ると、先に進むことができず、いつも、『ただ一柱の神が世界の基盤になっている』と、強調するしかありません。一神教は最終的な理想しか示せません。一神教は決して現実的な世界理解、具体的な世界観に導くことができません。しかし、アトランティス後の時代に一神教の流れも存在しなければならなかったのです。セム民族が一神教に活力と衝動を与えるのです。抽象的な厳格さ、抽象的な仮借なさをともなって、一神教がセム民族のなかに現われたのです。セム民族が一神教を代表します。ほかの民族は一神教の影響を受けて、さまざまな神的存在に統一をもたらす衝動を得ました。一神教の衝動は、いつもセム民族からやってきます。ほかの民族は多元論の衝動を持っています。
 このことを心にとめておくことは非常に重要です。古代ヘブライ人の衝動の作用を研究すると、今日でもユダヤ教のラビに極端な一神教の要素があるのがわかります。世界原則は単一的でしかあり得ないという衝動を与えるのが、この民族の課題なのです。ですから、『ほかの国家、民族、時代精神は分析的な課題を持っていた。世界原則をさまざまな存在の中に組み込んで表象するという課題である。たとえば、インドでは抽象的な一はブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァの三神に分解された。キリスト教では、一なる神は父、子、聖霊の三位に分解された』と、いうことができます。ほかの民族はすべて、宇宙の根底を分析し、宇宙の根底の個々の部分に豊かな内容を与えるという課題を持っていました。ほかの民族はすべて、愛情を持って現象を包括することのできる豊かな表象に満たされたのです。セム民族は多数性を無視し、単一性に没頭するという課題を持っていました。この衝動から、思弁の力、総合的思考の力が考え得る限りもっとも大きく成長していきました。」
 
 一神教か多神教かという議論ではなく、それぞれが有している意味を知ることが大切なのである。霊的な存在を身近に感じていると、霊的な存在について思考する必要が感じられない。霊的体験が豊かにあって、思考力を鍛錬する方向に向かわないのである。
 脳を使って思考することによって、魂は自我という中心点、統一の力を得る。こうして得られた内的な統一から、一神教が生まれる。これは、旧約聖書ふうにいえば、ノアが見えざる神を示唆したことによって、人間に思考力が芽生え始め、アブラハムにいたって、一なる創造主を探求するようになった。一神教は、思考力による統一的世界観であり、この能力が生じるためには太古の霊視力が消えて、見えざるものについて思考するという過程が必要だったのである。太古の霊視力を振り払い、一神教的な方向へと向かう思考力を形成することが、地上に生きる人間の進化のもっとも大きな課題であった。
 
 ただし、多神教の方が、実は神界の現実に則しており、その意味で正しいのである。一神教は永遠の真理なのではない。世界の根底の統一性を開示する存在が自我の力を人間に与えるとき、一神教という思想が生まれるのである。その意味で、一神教は非常に重要なものなのであるが、これからは一神教によって強められた思考を保ちながら、数多くの神々に向かい合う時代に来ている。たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。”

  (松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房))