世界最終戦争の予言 〔石原莞爾〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「世界最終戦争論」   石原莞爾(1889~1949)

 

 “今日のように陸海軍などが存在している間は、最期の決戦戦争にはならないのです。それ動員だ、輸送だなどと間ぬるいことではダメであります。軍艦のように太平洋をのろのろと十日も二十日もかかっては問題になりません。それかと言って今の空軍ではとてもダメです。また仮に飛行機の発達により今、ドイツがロンドンを大空襲して空中戦で戦争の決をつけ得るとしても、おそらくドイツとロシアの間では困難であります。ロシアと日本の間もまた困難。更に太平洋をへだてたところの日本とアメリカが飛行機で決戦するのはまだ遠い先のことであります。一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行なわれる時が、人類最期の一大決戦の時であります。すなわち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大勢力のものができねばなりません。

 飛行機は無着陸で世界をグルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首都や主要都市は徹底的に破壊されている。その代わり大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間で終る。それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降るとみて笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。”(P50~P51)

 

 “戦争についてもその最も重大なる事すなわち「戦」の人生に於ける地位に関して王道文明の示すところは、私の知っている範囲では次のようなものである。

1   三種の神器に於ける剣。

  国体を擁護し皇運を扶翼し奉る力、日本の武である。

2 「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊を持すべし」

   「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし」(涅槃経)

3 「兵法剣形の大事もこの妙法より出たり」(日蓮聖人)

  このような考え方は西洋にあるか無いかは知らないが、よしんばあっても今日の彼らの文明に対しては恐らく無力であろう。戦争の本義はどこまでも王道文明の指南に俟(ま)つべきである。しかし戦争の実行は主として力の問題であり、覇道文明の発達せる西洋が本場となったのは当然である。”(P119~P120)

 

 “……人類の歴史あって以来、戦争は絶えた事がない。しかし今日以後もまた、しかりと断ずるは過早である。明治維新までは、日本国内に於て戦争がなくなると誰が考えたであろうか。文明、特に交通の急速な発達と兵器の大進歩とによって、今日では日本国内に於ては戦争の発生は全く問題とならなくなった。文明の進歩により戦争力が増大し、その威力圏の拡大に伴って政治的統一の範囲も広くなってきたのであるが、世界の一地方を根拠とする武力が全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを迅速に屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一される事となる。

 更に問題なのは、たとえ未曾有の大戦争があって世界が一度は統一されても、間もなくその支配力に反抗する力が生じて戦争が起こり、再び国家の対立を生むのではなかろうかという事である。しかしそれは、最終戦争が行なわれ得る文明の飛躍的大進歩に考え及ばず今日の文明を規準とした常識判断に過ぎない。瞬間に敵国の中心地を壊滅する如き大威力は、戦争の惨害を極端ならしめて、人類が戦争を回避するに大きな力となるのみならず、かくの如き大威力の文明は一方、世界の交通状態を一変させる。数時間で世界の一周は可能となり、地球の広さは今日の日本よりも狭いように感ずる時代が来る事を考えるべきである。人類は自然に、心から国家の対立と戦争の愚を悟る。かつ最終戦争により思想、信仰の統一を来たし、文明の進歩は生活資材を充足し、戦争までして物資の取得を争う時代は過ぎ去り人類は、何時の間にやら戦争を考えなくなるであろう。

 人類の闘争心は、ここ数十年の間はもちろん、人類のある限り恐らくなくならないであろう。闘争心は一面、文明発展の原動力である。しかし最終戦争以後は、その闘争心を国家間の武力闘争に用いようとする本能的衝動は自然に解消し、他の競争、すなわち平和裡に、より高い文明を建設する競争に転換するのである。現にわれわれが子供の時分は、大人の喧嘩を外套で見る事も決して稀ではなかったが、今日ではほとんど見る事ができない。農民は品種の改善や増産に、工業者は優れた製品の製作に、学者は新しい発見・発明に等々、各々その職域に応じ今日以上の熱をもって努力し、闘争本能を満足させるのである。”(P277~P278)

 

“なお近年、全体主義を人類文化の最高方式の如く思う人も少なくないようであるが、私はそれには賛成ができない。元来、全体主義は余りに窮屈で過度の緊張を要求し、安全弁を欠く結果となる。ソ連に於ける毎度の粛正等はもちろん、ドイツに於ける突撃隊長の銃殺、副総統の脱走等の事件も、その傾向を示すものと見るべきである。全体主義の時代は決して永く継続すべきものではないと確信する。思うに今日の世界の大勢は各国をして、その最高能率を発揮して戦争に備えるために、否が応でも、また安全性を犠牲にしても、全体主義にならざるを得ないのである。だから私は、全体主義はスポーツ選手の試合前の合宿のようなものだと思う。

 合宿生活は能率を上げる最良の方法であるけれども、年中合宿して緊張したら、うんざりせざるを得ない。試合直前の短期間にのみ行なわれるべきものである。

 全体主義は、人類が本能的に最終戦争近しと無意識のうちに直観して、それに対する合宿生活に入るための産物である。最終戦争までの数十年間は合宿生活が継続するであろう。この点からも、最終戦争は我らの眼前近く迫りつつあるものと推断する。”(P279~P280)

 

 “最終戦争と言えば、如何にも突飛な荒唐無稽の放談のように考え、また最終戦争論に賛意を表するものには、ややもすればこの戦争によって人類はただちに黄金世界を造るように考える人々が多いらしい。ともに正鵠を得ていない。最終戦争は近く必ず行なわれ、人類歴史の最大関節であるが、しかしそれを体験する人々は案外それほどの激変と思わず、この空前絶後の大変動期を過ごす事は、過去の革命時代を過ごす事と大差ないのではなかろうか。

 最終戦争によって世界は統一する。もちろん初期には幾多の余震をまぬかれないであろうが、文明の進歩は案外早くその安定を得て、武力をもって国家間に行なわれた闘争心は、人類の新しい総合的大文明建設の原動力に転換せられ、八紘一宇の完成に邁進するであろう。日本の有する天才の一人である清水芳太郎氏は『日本真体制論』の中に、その文明の発展について種々面白い空想を述べている。”(P283)

 

“近頃、宗教否定の風潮が強いのに乗じ、「『最終戦争論』に予言を述べているのは穏当を欠く。予言の如きは世界を迷わすものである」と批難する人が多い由を耳にする。人智が如何に進んでも、脳細胞の数と質に制約されて一定の限度があり、科学的検討にも、おのずから限度がある。そしてそれは宇宙の森羅万象に比べては、ほんの局限された一部分に過ぎない。宇宙間には霊妙の力があり、人間もその一部分を享けている。この霊妙な力を正しく働かして、科学的考察の及ばぬ秘密に突入し得るのは、天から人類に与えられた特権である。”(P291)

 

(石原莞爾「世界最終戦争[新書版]」(毎日ワンズ)より)

 

*満洲国建国に関わり、後に東条英機と対立して中央を追われた石原莞爾については既に多くの本が出版されていますが、本書は彼の著書「世界最終戦論」「戦争史大観」を収録したもので、『序文』の東京国際大学の福井雄三先生の「本書に寄せて――石原莞爾の今日的意義を問う」の内容もまた非常に参考になるものでした。ここに引用させていただいたのはほんの一部にすぎず、他にも彼の卓越した「戦争論」について詳しく述べられておりますので、真剣に世界平和を願っておられる方にこそ、まずは戦争について正しく知っていただくためにも、ぜひこの本を読んでいただきたいと思います。

 

*もともと石原莞爾は子供の頃から破天荒な人物で、陸軍幼年学校時代にはシラミをペットにしたり、図画の教官から出された写生の宿題に、自分のオチンチンとキンタマを画用紙一杯にデカデカと描いて「便所ニテ我ガ宝ヲ写ス」と題して提出し、あやうく退学になりかけたりなどの様々な奇行でも知られていますが、そのような常識では収まらない人物であったからこそ、数多くの功績を上げることができたのでしょうし、また誤解されることも多かったのではないかと思います。私が特に驚いたのは、彼が核兵器の出現を予言していたことや、対米戦争開戦後「サイパン島さえ守れたら日本は負けない」と、いち早くサイパンの重要性を見抜いて島の要塞化を主張していたことです。実は出口王仁三郎聖師も戦時中にサイパンがいかに重要であるかを語っており、「……サイパン戦は大東亜戦争の天王山や、彼我の切っ先がちょうどふれあったところで、ここで先に一太刀あびせたほうが最後の勝機をつかむのんじゃ」(「巨人 出口王仁三郎」)と言われているのです。しかし軍部は、「絶対国防圏」と言いながらも必要な戦力をレイテ島などに分散させてしまってサイパン部隊を玉砕させ、それで米軍の日本本土爆撃が可能となったために、我が国は戦争遂行能力を急速に失って遂に敗北してしまったのでした。もし石原莞爾の言が用いられていれば、太平洋戦争の結果は違ったものになっていたかもしれません。

 

*もちろん、石原莞爾が満洲における謀略「満洲事変」の張本人であったことなど(しかし、その後の日中戦争に於いては不拡大を、そして後には中華民国からの全面撤兵を主張)、彼に対する批判もあるのは承知していますし、人間である限りは過ちもあったと思います。しかし、石原批判の連中の多くが、彼ほどの軍事的知識も無ければ最前線の現場に身を置いたこともなく、さらに彼のような「宇宙間の霊妙な力を働かせる」境地にも達していたとは思えず、むしろ石原よりもレベルが低すぎたために彼のことが理解できなかっただけのようにしか思えません。もちろん、軍事力の行使は出口聖師が最も嫌われたことで(「神様は人殺しはお嫌いや。大本は戦争には協力せんわい」)、その点など私も石原莞爾のすべてを肯定する気にはなれません。しかし出口聖師も正当防衛までは否定されておらず、特に世界情勢がきな臭くなっている現在、ただでさえ全体主義国家が隣国である日本の国民は国防についてもっと真剣に考えるべきであったと思います。そして、出口聖師が「これからは言霊戦や」と言われていたように、戦争には外国からの軍事力による侵略だけでなく、言論戦、思想戦などもあります。もし我々が「栗のイガが内側からはじけるように」日本が内側から壊れていくということもあり得るということを認識しておれば、今のような事態は避けられたはずでした。今からでも何らかの対抗策がとられねばなりませんが、現在個人のレベルで出来ることとしては、つまり軍事力以外のことですが、まずは「平和のための祈り」があり(エドガー・ケイシーは「祈りによって戦争を阻止することは可能」だと言っております)、そして他には相手国内外の民主主義勢力や宗教勢力への支援などがあると思います。特にこれまで一貫してチベット問題の平和的解決を求め続けているダライ・ラマ亡命政権の活動は、同じ仏教国としてもっと多くの日本人が関心を持ってしかるべきです。さらにこのブログで繰り返しお伝えしておりますが、「霊界物語」の音読もまた、最終目標であるミロクの世実現の為に欠かせないものであり、世界を浄化する力があります(出口聖師は「読めば神風が起こる」と言われているのです。

 

*石原莞爾が、日蓮上人及び法華経に深く帰依していたことはよく知られており、彼の予言的な能力にもそのことが関係しているのかもしれません。その日蓮上人が「一天四海皆帰妙法」を説いていたのはよく知られておりますが、実際に「法華経」を読んでみますと、これは本来は世界平和を説くものであって、それこそヒステリックなまでに「法華経」以外の教えを排斥するようなものではなかったはずです。宮沢賢治も熱烈な法華経信者でしたが、彼のような人物こそが真の法華経信者の姿です。また、石原は第二次大本事件の最中に、皇道大本について「あれこそ本当の愛国団体であるのに、なぜ彼らを弾圧するのか?」と発言しており、満洲国建国の中心人物として、大正時代にモンゴルに渡って「明光国」という独立国を建国しようとした出口聖師にはかなりの関心を持っていたらしく、彼が満洲国政府内の満人の紅卍字会信徒達と親しく交流していた話も伝えられています。

 

 

「法華経」の融和思想

 

(「妙法蓮華経安楽行品第十四」から)

 文殊よ。わたしの滅後、末法の世に法華経を説こうと願うならば、安らかさにおいて語りなさい。好んで人や他の経典の欠点を語ってはなりません。他の教えを説く人に対して高慢であってはなりません。他の人の良さ、悪さ、長所や欠点を口にしてはなりません。
 その人が声聞(しょうもん)の修行者であれ、その名をあげて非難してはなりません。名をあげて称賛してはなりません。また、嫌悪の心をもってはなりません。‥‥‥

 “文殊よ。菩薩の道を行く求法者であって、わたしの滅後の末の世に法が滅びる時において、この経を受持し読誦しようとする者は、嫉妬・諂誑(てんのう)の心を懐いてはなりません。法華経を説き広める者は、ねたみ、怒り、おごり、へつらい、あざむき、いつわりの心を離れて常に質直(しちじき)でありなさい。仏道を学ぶ他の人を軽蔑したり、侮りの心をもって、その長所や短所を論じてはなりません。
 相手が出家であれ在家であれ、男であれ女であれ、声聞・縁覚・菩薩のいずれの道を求める者であれ、その人を悩ませ、その人が疑惑にとらわれるようなことを語ってはなりません。いたずらに議論して論の優劣を競うようなことがあってはなりません。‥‥‥
 

 (「図説 法華経大全 妙法蓮華経前二十八品 現代語訳総解説」(学研)より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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