最後は宗教戦争 (世界平和のために祈る) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 “大東亜戦争がすんで、これからどうなりますかと伺うと、「これからえらいことになるぞ」と言われる。これから先えらいことになる?それはいつ頃ですか。「いつ頃になるやろうな」ということでした。ところが、ある時聖師とお話している中に、また次に戦争はありませんかという話をしかけると、「なるかも知れぬ」と言われる。その時はどうなるのですか。こんど原爆が落ちたら全滅ではありませんか。「今のような状態ではわからん。大国、最後は宗教戦争だ。中近東方面の宗教が動き出して戦うようなことがあったら注意せろよ。悪くすると、それが世界的なものの導火線になるかもわからん」……だから注意せよと言われる。いままでは国家と国家の戦争やったが、最後の審判は神と神との審判になる。だから注意しておれよ、と言われた。

 ところがこの頃、中近東方面では非常に宗教の動きが激しい。これは、たいへんなことになりはせんか、と思うのです。その時、私はさらに、もしそういう大戦争になってしまった時は、また原爆が落ちましょうかと伺ったら、ジーッと考えておられて、……だが、そうさせてはならぬ。だから、わしは早く天に還って、それをとめたいと思う。今は誰にも言うなよ。もし、その気配が起きたならば、信者の人に話しておいてくれ」ということでした。

 私は、中近東の情勢をずっとみておるが、容易ならん情勢になりつつある。悪くすると悪くするな、こう思う心が非常に強いのです。なるべくこれを避けるように、そういう審判的なものにならんように、祈らねばならんと思って密かに祈っておるのです。そういう形勢があるように思う。

 皆さん、共に世界のために祈る。それが大本の一つの使命であろうと思います。小さなことを言っておいてはいかん。大本の使命を使命としてやらねばいかん。……”

 

       (「いづとみづ」No.46 大国美都雄『聖師の教えを継ぐ者こそ大本信徒』より)

 

 

・エドガー・ケイシー   「祈りで戦争を止めることは可能」

 “ケイシーの千年期の予言のうち、1940年6月に語られたふたつのリーディングのなかでは、集合意識に飛躍的な効果を与える境界値の人数が特定されている。ケイシーは二十世紀の世界でこれほど多くの動乱が起きる理由について、人々が神を忘れ去ってしまったからだと言っている。このような状況はあるべきことではなく、どこかの国や地球全体が背負っている宿命といったものでもない。さらに続けて彼は、たとえただのひとりでも祈る人がいれば、ひとつの都市を救うことができると言明する。

 また、同じリーディング(3976-25)のなかのもうひとつの予言では、第二次世界大戦を間近にひかえた当時、ケイシーは六十四人の集団に向かって、彼らにはアメリカの運命を変えるだけの霊的な力があると断言している。

 

 「ここに集う六十四人が祈り、その祈りにしたがって生きるなら、アメリカを侵略から護ることもできる… それがあなたがたの望みであるなら」

 

 最初の予言では、ひとつの共同体や都市の未来を変える境界値は、旧約聖書で語られた十人さえいらないとしている。おそらく、神の意志に沿う人間がひとりいればよいということだろう。ふたつめはさらに挑発的でさえある。これはケイシーの公開リーディングを聞きに来た六十四人の聴衆に向けられた言葉だった。ここには、国家全体の未来に及ぶ影響力がどのように作用するかが示唆されている。ちょうど、アメリカの領土が侵略の脅威にさらされているときだった。この時期、すでにヨーロッパや東アジアでは第二次世界大戦が始まっていたことを考慮に入れておく必要はあるが、それでも合衆国が参戦するまでにはまだ一年と半年の猶予があった。したがって、一九四〇年六月の時点でのケイシーの予言は、かなり大胆なものだったと言える。たとえ六十四人であっても祈り、神の構想に沿うように生きるのであれば、アメリカ国民の未来(侵略を受けること)を変えられるというのだ。しかし、どうやら意識の臨海質量は達成できなかったらしい。その後、二年もしないうちに真珠湾が空襲を受け、アメリカ国民はその領土が侵略されたのを知ったからである。

 ここで非常に興味深いのは、その日公開リーディングに出席したひとりの人物の報告である。それは、リーディングが終わったあとに、メンバーの間で交わされた話を伝えるものだった。この席では、「それではどのような祈りがふさわしいのだろう?」あるいは「皆がそろって祈りに参加するには何時ごろがよいか?」といった疑問はまったく出なかった。かわりに、人々は声をはりあげ、「攻撃を受けるのはいったいどこだろう?」と言い交わした。こうして恐怖が忍び寄り、ケイシーの言葉にこめられた希望の兆しを黒い影で覆ってしまったのだった。

 それから四十年以上もたった今のわれわれからすれば、この一団の人々は愚かにも見え、恐怖に取りつかれて自分を見失なってしまったようにも見える。また、彼らがなぜ兆しとして見えていたはずのものの意味を見落としてしまったのか、なぜ目の前に差し出された魂を向上させる好機をつかみそこなってしまったのかと疑問にも思える。しかし、考えてみれば、われわれも今、おうおうにして同じ様なことをしてはいないだろうか?原理や数は今も変わりはない。状況はやや違っているかもしれない。第二次世界大戦の勃発も終戦も過去のことになった。それでも今日、われわれの世界には同じような脅威の予兆がいくつもある。そして、現代でもやはり、アメリカ規模の国家に変化をもたらすのには六十四人の人間がいればよいのである。

 それでは今のわれわれの反応はどうか?最初に地震に見舞われる地域はどこかと気をもむだけだろうか?経済恐慌がおきたら、その結果どんな暴動が発生するかを懸念するだけだろうか?われわれの目の前にはまだ、集団の意識をいっきに発酵させるわずかなパン種となる機会が見えている。これはひたむきな人々の小さな集団が未来の進路に途方もなく大きな影響を与えることができるという力強い概念である。それは、われわれに約束の感覚と責任への挑戦を授ける思想である。そして「臨海質量」の魔術が人間意識の領域に働きかける作用がはっきりと見て取れるなら、われわれはなにがしかの希望を抱いて、その責任をすすんで担うことだろう。”

 

      (マーク・サーストン「21世紀ビジョン」中央アート出版社より)

 

 “「仕えるべき神を今決めよ。我と我が家は活ける神に仕えん」。この言葉を実行する人が十分にいれば、古来の約束が満たされ、覚醒が起き、若者は夢を見、老人は幻を見、娘は真理の御霊を知り、誰もが平和の王子の到来を知るようになるでしょう。これこれのことは神の御手の介入である、自然界の法則である、正義の審判の結果であると語る人々が各国にいる間は、破壊は海に制限されます。(3976-26)”

 

       (「エドガー・ケイシー名言集 知恵の宝庫」中央アート出版より)

 

 

 

・メジュゴリエの聖母マリア (1988年、幻視者の一人ヴィッカへのインタビュー)

 

 聖母が最も強調されたメッセージはなんですか。

 

 「平和のために祈ることです・・・。これはいつも、聖母が力説されるメッセージです。」

 

 どうしてでしょうか?

 

 「祈りはとても力強いものだ、戦争を押し止めることさえできる、と言われます。でも世界平和のために祈るに先立って、心が、家族が平和でなければなりません。私たちの心が落ち着き穏やかであれば、聖母が与えてくださる他のすべてのメッセージを理解できるでしょう。」

 

      (ウェーン・ウェーブル「メジュゴリエ ザ・メッセージ」中央出版社より)