経済学徒と数学とモデル | 秋山のブログ

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菅原氏が指摘したことについての反論は大凡書いたので、ちょっとまとめとして。

 

こちらが教科書に書いてあるようなことのどこが間違っているのかのを具体的な根拠をあげ議論しているのに対して、教科書等を貼り付けることと、罵倒やレッテル貼りがほとんどだったが、中には面白い指摘もあり、久しぶりに教科書を読み返す切っ掛けにもなった。議論というのは相互に有意義なものであり、かつ楽しいものである。巷に溢れる経済学批判に反感を覚える人間は、是非議論して自分が正しいことを示したらよいと思う。

 

しかし経済学(新古典派)批判をしている他のブログで、反論する経済学徒の書き込みをみることもあるが、クリティカルな反論はみたことがない。罵倒してそのまま逃げるパターンも多い。教科書に書いてあることや、ノーベル経済学書受賞者等の言ったことを、基本的事実と考えて、そこから演繹しているようでは、その基本を否定するような議論には対応できないだろう。その結果、教科書への理解力がないなどと言い出すのは必然かもしれない。

 

ちょっと面白いと思ったのは、菅原氏が私のことを数学ができない奴扱いする発言をしたことだ。これは以前、私が経済学が間違っているという先入観から書いていると書き逃げした”「本物」の科学者”氏が書いていたこととも繋がる。彼の言うところによると、医師は大学以降の数学をあまり勉強しないので、数学ができないらしい。何かの主張が正しいかどうかは数学ができるかどうかは関係ないはずだが、そもそも彼は勘違いしているように思える。経済学では確かに高校では出てこない高度な数学的手法を利用したりもしているが、その利用法は難解ではない。経済学を学ぶことで、一体数学におけるどんな能力を突出させることができたのだろうか。経済学に入っていって成果を残した数学者はたくさんいるが、経済学を学んで数学的成果に繋げる人間は現れ得ないだろう。

 

以前、経済学者のセドラチェク氏の方法論に関して批判したことがある。セドラチェク氏は、経済における様々な事象を、類似するもの、例えば躁鬱病などに置き換えて実用的な理論を作るといった間違った方法論を持っていた(セドラチェク氏は見事に家計と国家財政を同じように扱っていた)。このような置き換えには、実証によって確実な検証がなされない限りは、全く価値はない。トリクルダウンの説明での馬と雀のように、素養の低い人を納得させることはできるだろうが、全てのことに共通する根源的な原理が存在するといった考え(例えば経済は惑星の運動と共通のものを持っているとか)を尊重するのは、科学ではなく、信仰である。

ところが、菅原氏のブログのおかげで、近代であれば物理学者も似たようなことをしていたという事実を知った。そして私はさらに、サミュエルソンもセドラチェク氏と同じようなことをしていたのを見つけたのである。引用する。

『耳を疑うと言えば、サミュエルソンの経済理論は、実は薬学や物理学に触発されたものだった。サミュエルソンは、例えばメンデルの遺伝的動態の理論のような、経済学に転用できそうな考え方を求めて何十年もの間、医学ジャーナルを読んでいた。熱力学の原理に基づいた平衡という考え方も、サミュエルソンによって経済学に応用された。』

サミュエルソンは、経済が物理と同じように扱えるはずであるという信仰をもっていたために、大胆に経済学を数学化することができたのである。しかしモデルは実証されて初めて正しいと言い得るし、実用性を持つ。経済学の最も基本的な考えである、需要と供給による均衡があり、その均衡点で価格が決まるという考えも、ごく一部の市場でしか成立しない。価格で需要者が供給者に変化する、ほぼ純粋な交換市場である債権や為替の市場くらいである(それらも安定はしていない)。他の市場もそれと同様の形になっているということを主張するために、様々な理屈が考えだされたが、もちろん実証などできていないのである。菅原氏は、経済学者は完全な市場などないことは十分理解していると主張したが、完全でなければ完全と仮定しておこなわれる研究が無価値である(ほぼ完全と考えるのは完全と考えるのと同じことである)ということ以前に、例えば労働市場など多くの市場は構造自体がそのようなものにはなっていない(需給バランスによる価格変動の圧力は存在する)。プリンストン大学のリチャード・レスター准教授は、製造業の企業経営者が、商品を売れるだけ売ろうとし、需要の水準に合わせて労働力を増やしたり減らしたりしていることを明らかにしたが、このことから分かるように、労働市場をモデル化するのであれば有効需要を考慮したモデルを構築しなくてはいけないだろうし、熱力学を模したモデルでは正解に辿り着かないことも分かるだろう。

均衡という思想を維持するために、(主流派)経済学は多大な労力を払ってきた。データを使うこともなく現実と一致しないことに対する様々な理由付けをおこなってきた(間違っていれば、反論するデータを出してくることは困難だろう)ことから、データよりも著名な経済学者等の意見を重視する習慣がついた。自分のやっている経済学の権威を維持するために、もしくは一部の支援者の利益のために、形だけの精密化難解化を追究した。さらには、根本原理を否定するような論文の掲載を拒否する(証言は山程ある)など政治的にも活動した。経済学は統一化され、よいパフォーマンスを示しているなどと喧伝した。

 

誰かの主張だからとか、何かの書物に書いてあるからという理由で信じ、それを前提に考えるのは信仰である。科学の前提となるのは客観的な事実しかない。残念な経済学徒(もちろん実証を大事にする経済学者もいて徐々に増えつつあるようだ)が信者と揶揄されるのはそのような理由からだ。極めて当たり前の指摘である。それに対して、反経済学の思想におかされている云々の反論は、所謂オウム返しというものだろう。