裁量労働制改悪失敗 | 秋山のブログ

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裁量労働制対象拡大法案を安倍内閣が断念した。これについて書いてみようと思う。

 

断念せざるを得なかったのは、厚労省が出したデータが不適切であったことを野党に追及されたからだが、この手のプロパガンダはしばしばおこなわれている。今回厚労省がおこなったのは、一般労働者に関しては「1カ月で最も長く働いた日の残業時間」を使い、裁量制の労働者には「1日の平均的な労働時間」というものだ。同じような例は多々あるが、全く同じパターンが財務省による勤務医と開業医の収入の比較だ。雇われて賃金を貰っている労働者と、大規模事業者が一定の率存在し事業の費用まで含まれている開業医の収入を比べるというとんでもないものだが、医師会の抗議も無視して、各新聞に普通に掲載されている。何かを比較する時には条件を揃えるというのは基本中の基本のはずだが、まず恣意的としか思われないようなことがこの国でもおこなわれているのだ。

 

それはともかく何故この法案を安倍内閣が通そうとしたかである。この断念に対して不満を抱いている人間からの要望というのは普通に考えられることだ。日テレNEWS24及び日本経済新聞(2018年3月1日)をみると、日本商工会議所と経済同友会の幹部が文句を言っている。つまりは企業経営者の意向を受けての法案提出ということになる。まあ、国民の人気だけでは政治家もできないということは、理解できないこともないが。

 

この法案の理由として実にくだらない理由がつけられていた。能力のある労働者が望んでいるというのだ。能力が高い労働者なら、こんな改悪などなくても現状の精度で存在する問題などなんとかするであろうし、この改悪によってどんなことが起こるか想像もできるだろう。

実例は医療にある。勤務医は中堅以上になった時に、所謂名ばかり管理職となって、タダで長時間の残業をおこなってきたのだ(それに対して多くの医師が立ち上がり運動することによって、若干の改善が見られるようになった)。その結果が過労死等の問題である。同じことになるのは明らかだろう。

 

生産性を上げるために必要だという主張も目立つ。生産性という言葉は多義的であり、世間一般の人は理解しているようで理解していない可能性がある。そもそも使っている人自体も疑わしいところだ。企業経営者の団体が主張していることを誤解のない言葉に置き換えれば、一人の労働者の労働時間を上げられるようにすべきと言っているのに等しい。しかも賃金を上げないでというものである。この場合の生産性の意味は、単純に一人当たりの生産量か、または一人当たりの利益ということだろう。

日本人の生産性が低いという指摘は、他国と比較するための条件を合わせることを全く怠っている意味のないものである。尺度となるのは売れたモノの価格であるが、同じモノが全く異なる価格で売られて単純には尺度になりようがない。重要なのは内需産業であるのに、比率としては小さい輸出産業を優遇するための円安政策の結果でもある。

人手不足や少子化の話も出ているが、しばしば説明しているように、生産性(一人当たりの生産量)を上げた分だけ賃金を上げなければ、全体として見た場合需要不足に繋がり、商品の価格低下、賃金のさらなる低下と、所謂デフレスパイラルに陥ることになる。すなわち生産性の低下を生じさせることにもなるし、現在生産性が低いことになっている原因の一つでもある。いかに素晴らしい商品を作ろうが、買う人間がお金を持っていなければ買えないのだ。この重大な原則を理解していなければ、間違った答えしかでないだろう。

 

今回野党は久しぶりにいい仕事をしたが、はたして理解して主張しているかどうかは、疑問の残るところではある。