ポスト・ケインズ派経済学は体系化しているか | 秋山のブログ

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「ポスト・ケインズ派経済学」から。

 

主流派経済学の悪質なプロパガンダ(主流派経済学の理論は最早動かしがたい確立した体系で、経済学の世界で異論は存在しないとか、反対している人間は反対しているだけでまともな体系をなしていないとか)に反して、ポスト・ケインズ派はP48『代替的な経済理論の構築をめざしてきた』。もちろん、その中の学派によって若干見解が異なるのも確かである。何故ポスト・ケインズ派では見解の相違があって、盛んに議論がなされる一方、主流派では大凡一致した見解で議論もなされないのかと言えば、学問としての取り組み方の違いだと思われる。ポスト・ケインズ派は学問として当たり前のことを大事にしていて、現実との一致を重視し、議論によって理解を深めようとしている。それに対して、主流派のやっていることといえば、現実と理論が合わなくなれば、その理論が正しくなるような理屈を考えるというのがそのやり方だ。硬直性(ケインズの主張だと誤解されているが、調べてみれば違う)しかり、自然失業率しかり、長期なら成立する云々しかりだ。フリードマンの道具主義も、その場しのぎレベルの誤魔化しに過ぎない。抽象化と非現実を混同させた詭弁なのである。道具として有用になるためには、現実との一致はむしろ必要なことであって、自然科学において現実の裏付けのないモデルが道具として有用だったことはない。

主流派経済学が公理として大事に守っているのは、経済におけるあらゆることが単純な需要と供給の関係にモデル化できるということと、見えざる手によって自然に最適な状態に達するということである。しかしこれらのことは、信念とか思想の類であって、古の経済学者がそう考えただけの話で、データによって導き出されたものではない。実証研究の結果もかんばしくはない。それに対してポスト・ケインズ派は、もう少しだけ複雑にモデル化しているだけであるが、それだけで格段に現実と一致するようになる。例えば労働市場であれば、雇用者が商品の選別のように労働者を見定めて賃金に照らしあわせて雇用を決めるなどというのは非現実的であり、売り上げを予想しそれを作るための必要な人数を雇うというのが現実の適切な理解であろう。また別の例を上げれば、商品の価格は生産者がコストに利益を上乗せしてつけるのが基本的構造で、希少性による価格の変動はそれを若干修飾するものに過ぎない。

 

ポスト・ケインズ派の根幹の理論に関しては実際のところ、流派が違っても共通認識がある。サールウォールによって提示されたものを引用しよう。

P48『(1)雇用と失業は,労働市場ではなく,生産物市場において決定される,(2)非自発的失業が存在し,それは有効需要不足によって引き起こされる,(3)総投資から総貯蓄への因果関係が存在する,(4)貨幣経済は物々交換経済とは全く異なる,(5)貨幣数量説は根本的に誤っている,(6)資本主義経済は起業家の「血気」(animal spirits)によって導かれ,それが投資決意を決定する。』

既に書いたように、主流派経済学が考えるように経済は単純な交換によってなりたっているわけではない。それを示したのが(4)である。そして有効需要の概念から正しいモデルを考えたのが(1)と(2)だ。

生産物市場における需要の大きさと供給力を比較して、その差によって失業が生まれるという考えは現実と一致するだろう(セイの法則は当然誤りだ)。方便に過ぎない自然失業率を持ち出してくる必要もない。(3)は貨幣が借り入れによって生じるものであるという事実から、正しいことが分かるだろう。貯蓄から投資が生まれるという主流派経済学者の多くが持っている誤りは、家計の日常の行動と混同した誤りである。実際の因果関係を逆に捉えた理論に基づく政策は、経済の成長を抑制する方向に働くだろう。(5)の貨幣数量説も、主流派は因果関係を誤解している。貨幣の量と物価はよく相関するが、それは実体経済の循環における経済主体の収入の変化が、貨幣の量とも物価とも相関しているという機序である。貨幣の量から直接物価が上がるわけではない。(6)の意味は、明確ではないが、投資が金利によってのみ決定されることの否定で、起業家の利益の予想によって決まるということであればその通りだろう。

 

ポスト・ケインズ派の経済学は、十分に体系化している。ポスト・ケインズ派経済学で、マクロ経済学の教科書を作ることもできるであろうし、現実社会の経済的な出来事を十分に説明することもできる。今後ポスト・ケインズ派の経済学に必要なことは、特に一般の人にその事実を提示して、そのような正しい経済学があることを広く知らしめしていくことに他ならないだろう。