サミュエルソンの不思議 | 秋山のブログ

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サミュエルソンやフリードマンが経済学史にはのっていなかったのは、それらが経済学の現代であるということだろうか。しかし今見れば滑稽にすら見える近代以前の経済論議、例えば人口論争といったようなものと、彼らの主張は五十歩百歩のようにも思える。ケインズを復習する際に、サミュエルソンが出てきたので、少しだけまわって見てみた。参考になりそうなものをピックアップしておく。-別の思想史-Wiki-himaginaryさんのところ-

サミュエルソンを天才と評価する声は多く、それを裏付けるような逸話はたくさんある。しかしそれによって理論の是非を考えることは、極めて非科学的な思考であるだろう(そんな愚行は世の中で山ほどあって、比較優位はサミュエルソンに評価されなければ、あまり価値の無い概念に留まり、実社会に害を及ぼすことも少なかっただろう)。
サミュエルソンの負の遺産は、経済学においておかしな数学の利用法を強化し、間違った方法論を推し進めたことである。間違っても、経済学を科学にしたわけではない。
彼の方法はこう書かれている。『あらゆる経済学の問題において (1) 変数を減らして、最小限の単純な経済関係だけを残す。 (2) できればそれを、制約つき最適化問題として書き直す。』とのことだ。この文章だけで、彼の方法に大きな問題があることが分かる。経済の現象として、最適化が起こっているということを前提にしているのだ。自然界の中でも天体の運動のように均衡を考えられるものもあるが、生体におこるような複雑な現象はほとんど均衡などしていない(誤差ではなくて均衡自体ない)。複雑な経済においても均衡や最大化、最小化がおこっていると考えられる根拠はどこにもないのである。そして均衡がおこっていないもの(均衡点の存在は均衡することを意味しない)に対して、均衡を前提にしたモデルを作れば、間違った数式で力学の計算をすれば必ず間違った答えが出るように、正解にたどり着く可能性はない。
変数を減らすということに関しても、多くの場合あまりにも単純化しすぎであろう。精密なモデルとは、誤差や省略する変数への対処を十分おこなったものであって、大胆な切り捨てをおこなえばその後に何を行おうが精密にはならない。数学的な美しさは、真実や実用性と全く関係がない。

サミュエルソンは、経済学の前に数学と物理を学んだとされているが、実学たる物理の基本を学んでこなかったのだろうか。一つ一つの法則、数式の裏に、長時間に渡る膨大な観察や実験の裏付けがあるということを。
物理学には、数式で話を進められるだけの先人の遺産が多くあったため、現実と理論の橋渡しをする実証の重要性を理解しないで終わってしまったのかもしれない。