成長理論を考える | 秋山のブログ

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経済成長理論を考えてみよう。それをしなければいけない理由は、ソローの成長理論と、それの改良型の成長理論、すなわち主流派経済学の成長理論が全く無価値であるからである。

(以前も経済成長理論について書いたことがあるが、ポスト・ケインズ派等新たに学んだことで、以前より多少はまとまっていると思う)

 

成長理論における資本とは設備資本のことである。設備を整えることにより人はより多く生産できるようになることを考えれば、よく分かるだろう。設備資本は通常、その時点の知識技術に基づいて、労働者全員が利用できるような量用意される。生産は需要予測に応じておこなわれるものであり、設備資本は(労働力もだが)その量を生産するために必要な分用意される。(設備資本の量は結果である)

ところがソローは、資本の増加が労働力の増加を上回った時に、投資1単位あたりの利益が減少するので投資は減少し、一方実質賃金の上昇によって労働力が増加するため、資本と労働力の増加は一致していくと主張した。しかしそのようなことが起こる投資は証券投資などの投資のことであり、設備投資はそのようなものでは全くない。つまりソローの主張は曖昧な定義による混同が原因の、誤りであるということだ。(遠因としては、何でも均衡のモデルで表現できるとか、とにかく数式化すればいいという思想があるだろう)

 

成長理論においてソローが犯したもう一つの罪は、成長の要因を資本、労働、技術進歩の各要因に分解したことである。生産における貢献度はそれぞれを分けて、明確に求めることなど本来はできない。しかし主流派経済学者は単純に、既存のそれぞれの取り分(多くの場合大きな搾取が存在する)を使ってその貢献度を求めている。これは市場の失敗によっておこっている格差を肯定する結論に繋がるだけだろう。どれだけレントシーキングをしても、それは正当な貢献度に由来すると肯定される。(ソローがノーベル経済学賞をもらった理由はむしろここにあるのかもしれない)

 

主流派の中からもあるソローに対する批判として、技術進歩と貯蓄率が外生的に与えられているということがある。

ラムゼーが資本収益率を組み入れて貯蓄率を求める改良をおこない、さらにフォンノイマン等により多部門モデルといった改良もおこなわれているが、所詮「総投資から総貯蓄への因果関係が存在する」というポスト・ケインズ派が主張している真実(貨幣の本質を理解していれば理解できる)に気付かずに、因果関係を逆に捉えている話であり、価値はない。

技術進歩をモデルの内部で説明しようとした内生的成長理論に関しては、評価できる程の知識はないが、経済成長の源泉を供給側にあるとしているようである。ポスト・ケインズ派は経済成長における需要の重要性に着目する。短期のみならず長期においても、成長経路は総需要によって方向付けられるというのがポスト・ケインズ派の主張である。これはペティクラークの法則で、明確に観察される事実だと思うがどうだろうか。

 

もちろん需要が成長の方向を決めると言っても、供給力の増大を無視していい訳はない。そこで供給側の要素を考えてみよう。

人口や労働の量の増減は、日本の県レベル以上の人口があればスケールメリットはほとんど無視できるので、成長という意味での重要性はほとんどない。一人あたりの消費の増加、厚生の増加に繋がらないからだ。人口が重要になるのは、成長率に反映されて、その分利子率を大きく取りうることくらいだろう。

一人の人間が生産できる量が増えるための要素を考える。まず、道具や設備は生産できる量を大幅に増やすだろう。しかしこれらは蓄積されて大きくなっていくものではない。知識技術の進歩に伴い、比較的速やかに不足なく準備される性質のものである。次に、道路や港などのインフラの整備も、生産を増やすために重要な要素である。こちらは、やや長期的に整備されていくものだ。設備資本の蓄積という言葉を使うならば、これを指すことが相応しいと思われる。教育や訓練、そして作業を通した熟練によって人々の能力が上がることも考慮しなくてはいけない。他に、上げるものとしては、分業等作業構造を改良したりするのもあるだろう。

こうして要素を1つずつ考えてみれば、知識技術の進歩に依存するもの、環境整備等のように間接的に作用するものに分けられるだろう。すなわち国が成長するにつれ増えていくものは、知識技術とインフラであり、特に前者が重要である。途上国に当てはめてみれば、これはよく分かることだろう。

なお、資本蓄積の状況を調べるということで、資本ストックが調査公表され、利用されている。しかし工場などの大型の設備資本はほとんどの場合、大きな生産能力の余力を持っている。すなわち一次同次は全国レベルで集計したところで成り立たないだろう。また設備資本の価格も不規則に変化する。イノベーションが絡めば同じ業種であっても全く別の設備であって設備の価格と生産能力の増大させる割合は変化してしまうわけで、長期の観察では全く比例しないだろう。重要なデータであるが、利用には注意が必要ということである。

 

それでは成長における需要の重要性を考えてみよう。前述したペティクラークの法則が示す通り、国の成長を観察すれば、第一次産業がまず発達し、食料等の需要がほぼ飽和に達する。第一次産業に従事していた人間の何割かが第二次産業に移り、今度は第二次産業が発達する。そして次は第三次産業といった形で、国の産業は発達していく。ここで重要なのは、次に人々が必要とする何かが見つかるかということと、生産を向上させた人々の収入が十分に上がって新たな産物を購入する余裕ができるかということである。これらのどちらもがなければ、生産能力の向上は、搾取と失業を生むだけになる。つまり政策として、新たな需要を生みそうな産業を育成すること、現在需要が飽和していない有力な産業を重視することが需要飽和対策として必要だろう。また、金利や配当を低めに誘導し、労働運動を保護し、賃金の上昇を促すというのが、搾取対策として必要になる。

ここで、ひとつ問題になる点がある。現代社会において、全ての分野で生産能力が同じ割合で増大しているわけではないということだ。例えば、ほとんど生産能力が増大しない産業Aと増大する産業Bがあって、Bで発生した失業者が新たに産業Cを始めたとする。Bに残った人々がその分幸いにも収入を増加させ、Cの商品を購入できるようになって、産業Cでの生活が可能になったとしても、そのままではAの人々はCを購入できないことになる。そう考えると、全ての人間が経済成長の恩恵を受けるためには、増大しない産業においては、若干の価格の上昇をもって収入を増やすか、成長の恩恵を受けている分野から税金等を使って再分配する必要があるだろう。ただ自産業を成長させようとするモチベーションを下げない程度におこなう必要もあるだろう。

また、発展の方向性が、量ではなくて、質の改善に向かっているというのが、現代の傾向であるという留意点もある。例えばLEDが発明された分、白熱電球、蛍光灯が少なくなるのも質の変化だろう。望ましい発展ではあるが、経済成長という形には繋がりにくいかもしれない。価格が大きく上がることがない一方、投資家の取り分が大きくなりがちであるからだ。

 

それではまとめてみよう。

生産は、需要の予測に基づいておこなわれる。需要において重要なのは、需要が飽和していないかということと、消費者にそれを購入するだけの収入があるかということである。

設備資本も、労働力も、その予測に基いて準備される。設備は建設に時間がかかることもあるが、生産時には準備が完了しているはずのもので、蓄積されていくものではない。(設備資本の量は、需要予測の結果に過ぎない)

一人あたりの生産能力を増大させるものは、知識技術である。設備は知識技術に従属するものである。

生産能力の向上で、需要増大に繋がる。これは供給すれば需要が生まれるということではなく、適切な分配があって初めて実現する。

交通網等の公共施設や、国民の教育水準などは、蓄積されていく生産を向上させる要素である。

経済を成長させるための政策としては、余剰な人員を、知識技術を増大させる研究等に使ったり、公共施設の整備に使ったりした上で、賃金等の搾取がないかどうか監視、介入をおこなっていけば、実現する。