貨幣の本質 | 秋山のブログ

秋山のブログ

ブログの説明を入力します。

「内生的貨幣供給理論の再構築」を参考にして。

 

この著書では信用貨幣についての貨幣論を主に論じられている。信用貨幣で考える限り、金属主義や商品通貨説が正しい可能性は皆無であろう。そして現代は信用通貨が圧倒的に主役だ。従って現在それらの考えを尊重する必要もないだろう。一方、近代以前の経済ならばそれらが正しかったかと言えば、金銀や米がお金の役割を担っていたことによる勘違いであって、負債の解消(債務のやり取り)をおこなう経済の道具である(イメージとしては、消費者が生産者から何かを買って商品を手渡された。消費者は生産者に対してその瞬間においては負債がある。その後、お金を払って負債を解消する)ということは変わらない。近代以前は国に対する信頼度が低かったり、国自体が通貨管理の知識技術が乏しかったために、貨幣自体に価値がある必要があっただけである。貨幣自体の価値が重要でないことは、貨幣としての価値と貨幣として使われるものの価値が必ずしも一致しないことで分かるだろう。

 

以前、貨幣とは何かという話で、物々交換からその後債務関係が生じ、貨幣が使われるようになったということを書いたが、ホートリー(P25)も物々交換から説明していたようだ。そこから導かれる結論は、貨幣は流動性、計算性、貯蓄性を持つ債務証書のようなものであり、俗っぽく表現するならば第三者にも通用する借用書といった感じになる。

 

貨幣の本質を理解していれば、ISバランス論が全く馬鹿げていることも理解できるだろう。そもそも恒等式から意味のある法則を導き出そうという発想が数学音痴と言える話であるが、この理論をそのまま信じている経済学者がかなりの率で存在することが嘆かわしい。貨幣に関して学ばずに、もしくは貨幣について考えずに、極めて素人的な貨幣の理解(イメージで捉えると金属主義に陥りやすい)の上で、ISバランスを鵜呑みにしているということである。このことからも多くの経済学者が外生的(マネタリストは間違っているが、金属主義の外生性とは異なる)に貨幣を理解していることが分かる。

 

ところが主流派経済学では、あえて曖昧にしているようにすら思える。『交換の手段』『価値の保存』『価値の尺度』を持つものを貨幣と定義するのは、あたかも分かれた角を持つものを鹿と定義するようなおかしな定義の仕方だ。これは貨幣が借り入れから発生するものであるという事実、それはすなわちその気になれば主権国家はいくらでも供給しうるということであるが、その事実を隠して、有限なものであるという間違った認識に人々を押しとどめようという意図があるのではないだろうか。

貨幣を有限なものにしておきたい理由を考えるとしたら、現時点で貨幣を多く持っている資産家のためということになるだろう。事業に必要な金をいくらでも銀行の信用創造、または日銀から安い金利で供給されたら、グローバルな資産家は日本の国民から搾取することができなくなる(海外資産家が日本の株を持つということは、日本人の労働から毎年年貢を取り立てることと同じだ)。安倍総理は嘗て、おそらくは現在も勘違いしていると思われるが、総理が望む海外からの資金の流入は直接投資であれ、間接投資であれ、日本にとってほとんど価値はない。投資が価値を持つのは、そこにそれに伴う知識技術の流入があるからであり、途上国以外では目立った効果は観察できないだろう(逆に資本の流出も、技術が失われる場合と、通貨安が問題になる場合のみ問題である)。

 

マクロ経済学の教科書を書くのであれば、最初の方で正しい貨幣の理論を取り上げるべきである。定義はもちろん「負債の解消(債務のやり取り)をおこなう経済の道具であり、流動性、計算性、貯蓄性を持つ債務証書のようなもの」であるが、現在の信用通貨は借り入れによって発生するものであること、使用によって消滅したりせずに持ち主を変えるだけであること、返済によってのみ消滅するものであることは、強調する必要があるだろう。