ポスト・ケインズ派経済学 | 秋山のブログ

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この本もゴールデンウィークから読んでいる本である。

 

この本はポスト・ケインズ派経済学とは何かということに関して、たいへん分かり易く書かれている。

今回は参考にしてポスト・ケインズ派経済学について書こうと思う。

 

ポスト・ケインズ派という言葉は意外と知られていない。ニューケインジアンという言葉はすぐに出てくるので、有効需要の原理こそ正しいと気付いても、ケインズの誤りを正して適切な経済学を打ち立てようとするグループにはすぐには辿り着かない。スティグリッツ教授などニューケインジアンにも新古典派経済学の問題点を指摘し、正しい指摘をしている経済学者はいるが、体系的な経済学の作り直しをおこなっているわけはない。今までスティグリッツ教授や塩沢教授の書籍から知識を得て経済学の再構築を考えてきたが、私の考えたものの多くはポスト・ケインズ派経済学で既に主張されているものなのである。

 

ケインズの名声は強烈である。ケインズは投資家としても大成功を収めており、経済学が机上の学問だという指摘も容易に蹴飛ばすことができるだろう。何よりもケインズ経済学(現在見れば修正すべき点は多々あるが)はそれに基づいた政策によって当時資本主義社会に大きな恩恵をもたらした。最も偉大な経済学者の名前として、サミュエルソンフリードマンを上げる人間がいるが理解に苦しむ(アダムスミスならまだ理解できる)。彼らの経済学に則った政策が成果をあげたという事実はない。フリードマンに至っては真逆の結果が観察されている。話をもどせば、新古典派がいかに否定しようとも、ケインズの名声は否定しきれないので、ニューケインジアンを名乗って、ケインズの名声をも利用しようとしたということであろう。実際のところ一部の例外を除いて、有効需要という最も重要な概念がニューケインジアンの辞書から抜けているようだ。他にも、賃金の硬直性が失業の原因であるという考えも、P16『ピグーをはじめとする新古典派経済学者たちの見解で』あるにも関わらず、ケインズの見解とされていたりする。

 

歴史的経緯を見れば、ケインズ経済学は米国においてサミュエルソンらによって新古典派総合という形に変えられてしまった。その一方で、新古典派総合を似非ケインズ主義であるという批判を行ったジョーン・ロビンソンなど、ケインズ経済学を発展させようとした人々がいて彼らはポストケインジアンと後に呼ばれることになった。

その後米国ではスタグフレーションを経験することによって、フリードマンが台頭し、反ケインズ革命といった事態に陥り、ケインズは脇に置かれることになった。新古典派経済学がそれ以降、主流となっている。彼らの主張する経済学は、格差の拡大と成長の鈍化をもたらしており、リーマン・ショックのような信用を失墜する出来事もおこっているのに、プロパガンダや政治的働きかけによってその地位を維持している。前述のニューケインジアン云々という話もその一つだろう。リーマン・ショックの後、ケインズを見直そうという動きがあったが実現していない。それは新古典派がケインズの理論の核の部分を曖昧にして取り入れて、より正しい理論になっているかのように装っているからかもしれない。彼らは今や経済学は一枚岩で理論体系として動かし得ないものであるかのようなプロパガンダをおこなった。現実と照らし合わせれば、圧倒的に一致するポストケインズ派経済学に関しては、主流派経済学に対しての批判しかしていないとか、一貫したシステムがないという批判をおこなっている(ポストケインズ派経済学自体がいくつかに分かれているのは確かである)。

何よりもポストケインズ派が台頭していかずに、異端派として少数勢力になっている理由は、学問的な勝敗の結果ではなく(新古典派は負けた論争に関してさもなかったことのように振舞っている)、政治的なものだ。p44『主流派の側からの過酷な差別と排除に直面して』、P44『多くの国において異端派の経済学者が大学に職を得る』ことができなくなっているのだ。米国における参照基準の制定などまさにそのためのものであろう。

 

資産家が自分たちに有利な政策を実現させるための経済学である、新古典派経済学が勢力を拡大しやすいのは確かだろう。しかしあまりにも多くの人間が、新古典派経済学の現実との一致率の低さ、説明力の低さ、予想力の低さを、経済は複雑だからこんなものだと思い込み、誤りの再生産をおこなっている。こんなことは自然科学ではとてもありえないことだろう。

この著書を読んでいて、その原因でないかと思えた点がいくつかある。気になった箇所を引用しよう。

P7『経済学という学問は,不完全な理論がより優れた理論に順次取って代わられるという形で単純に進歩してきたわけではない。市場主義のパラダイムが設計主義のパラダイムに取って代わられたのちには,市場主義の考え方が以前よりも頑健な理論的枠組を備えて復権し,さらには(中略)という具合に螺旋的な進歩を遂げてきた。』とある。市場主義も設計主義も、理論ではなく思想である。モデルでも法則でも、現実と一致するかどうかによってその評価が決まる。ところがそこに思想がしゃしゃり出てくることによって現実と一致しなくても正しいなどという馬鹿な話になったりもするのだ。例えば測定技術の進歩などで、誤っていると思われていた法則が正しくなることもある。しかし、証明されるまでは、科学においてそんなものは相手にしてはいけないのである。

経済学史というアプローチを過大評価しているのも気になった。P5『結節点をなしている画期的ないくつかの著作をひもとき,その歴史を追体験することなしには,先人たちの知的遺産を正しく継承し,それを発展させてゆくことができないのである』とある。もちろん、経済学史は、理解を深め、理論を整理するのに大変に役立つことは確かであろう。しかし著名な経済学者自体の研究は、嘗て多くのマルクス経済学者が『マルクスの権威への盲従から,小さな文面にも大きな啓示が隠されているかのごとき字句解釈とそれにそった理論の探索』(リカード貿易問題の最終解決P242)をおこなったように、個人への崇拝に繋がりかねない。いかなる経済学者も完璧な経済学の体系を提示できているわけではないので、誤りもまた取り込みかねないだろう。エビデンスに基づく正しい理論の選別こそ、体系作りのために取りかかるべきことで、経済学史によるアプローチはそれを補助するものであるべきだ。

ポスト・ケインズ派経済学は、経済学の間違った寛容性を反省し、経済学の宗教的側面を否定し、サミュエルソンに代表される数学の誤った利用法を捨て、正しい科学的方法論を導入すべきだと思う。その理論が現実といかに一致しているか次々と示すことによってのみ、新古典派経済学を退場させることができるであろう。