ケインズに関して再び | 秋山のブログ

秋山のブログ

ブログの説明を入力します。

ケインズに関しては以前も書いたことがあるが、ケインズに関して経済学史に詳しくまとめられているので、また勉強しなおして考察してみた。(調べたところまとめのもとになっている書籍が見つかった。失墜の経緯に関してはこちらの方がよい)

ケインズの失墜に関しては、どうもその後継者によるものが大きいようである。ケインズの後継者は、ケインズの考えも踏襲しようとしながら、均衡、さらには一般均衡で理論を組み立てた。ケインズ自身も均衡に騙されていた部分もあるので、ケインズにもその責任はもちろんあるが、ケインズは均衡に関して否定的なニュアンスが強い。

非自発的失業に関して以下の説明がある。
新古典派は二つの大前提を持っていると言う。
『第一公準:個々の企業の利潤最大化行動→労働需要の決定
第二公準:労働者の効用最大化の行動→労働供給の決定』
モノの均衡と同じように労働を考えている。賃金の額で減る需要と増える供給で均衡すると考えているのだ(実に安直である)。ケインズはこれに対して、『賃金率に応じて個々の労働者は労働時間を決定できない』という理由と、実質賃金は決められないという理由で、第二公準を否定した。しかしながら、賃金の上昇は実証上労働需要を減らさない。それはまさに有効需要に関連のある需要予測に基いて企業は人を雇おうとするからである。つまり第一公準も間違っているということだ。『労働市場ではなく、消費と投資からなる需要の大きさが雇用量を決定する』とケインズも指摘している(正しい)ので、ケインズはどちらも否定していると思われるのだがいかがだろうか。(ケインズ派の労働市場のモデルとして需給曲線があることを考えると、後継者はケインズの意図から離れていったようにも思える)

ケインズの考えから作られた国民所得勘定の恒等式による一連の考察は、設備投資と投資の混同、合成の誤謬等、いろいろ問題がある。
恒等式において、貯蓄と一致している投資は、借金しておこなった消費のことであり、借金する経済主体がなければ経済全体としては貯蓄し得ない。
一方、「消費と投資からなる需要」における投資は、現実的には主に設備投資であり、雇用同様需要予測によって決められるものである。

『投資が不足していることが非自発的失業の大きな理由』とケインズが考えたとあるが、これはいろいろな考え方ができる。非自発的失業は、その時に購入することが出来る商品を生産するために、働くことができる人全員は必要ない状態になることによって起こる。例えば格差が大きければ、富裕層は収入の一部しか消費しない一方、低所得層は消費を我慢しなくてはならず、需要を同じ状態に保つためには、投資という形でお金が使われ消費者の収入を補充しなくてはならない。そのことを言っているのかもしれないし、生産性の上昇に対して余った人員が新たな仕事を見つけ総生産量が増えるためには、増えた総生産に対応するための消費者の収入増が必要になるが、投資で供給すべきものであるから、それを言っているのかもしれない。ケインズがそこまで考えたかどうか分からないが、投資不足が失業の理由と表現することは誤解を生む可能性が高い。直接的な失業の理由は、消費者の収入不足と格差に他ならないだろう。

利率によって投資の量が支配されているという考えは、新古典派もケインズも同じようである。違うのは貨幣の量が変化することによって利率が変化するかどうかという点である。証券を買い取ることによって貨幣の量を増やし利率を下げると言うが、それは証券を買ったことによるものであって、純粋に貨幣が増加したからとは言えないだろう。
少し前の日本では日銀が直接利率を決めていたものを、現在は市場を介して間接的におこなっているが、それでも日銀が決めていることに違いはない。中央銀行の力が弱かった近代以前は、融資者の意志も金利を決める上で重要だっただろう。
もちろん投資の量を決めるのは、メインは有効需要であって、金利はブレーキに過ぎない。

流動性の罠の状態であれば、財政政策をというケインズの提言は、結果としては正しい。とにかく有効需要を増やすことが重要だということである。しかし流動性の罠がどのような機序でおこったどのような状態かという話になれば、説明としておかしく、現在に当てはまるとするのは、少し軽率だ(ケインズは機序の説明を誤っただけで、有効需要不足の状態を意味していたとしたら現在に当てはまるとも言える)。

物価に関する理論をケインズはあまり追究しなかったように見える。物価上昇を説明するためにサミュエルソンらが担ぎだしたというフィリップス曲線は、経済の全体像を掌握していない実に単純なもので、もともと理論の主軸に据えるようなたいしたものではないが、スタグフレーションを説明できないためにケインズの経済学を失墜させることになった。フリードマンの指摘は馬鹿馬鹿しい内容である上に、フィリップス曲線の否定を持ってケインズ経済学を否定できるわけでもないが、実際に多くの人間がフリードマンの経済学に乗り換えたわけで、それは嘗て多くの人間がマルクスに飛びついたように、経済学が最も改めなければいけないところ、教祖を求めて見つけた教祖を盲信するといった宗教的な性質を物語っているように思われる。