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ゆうがおはじめて物語②〜かんぴょうには歴史とロマンが詰まりすぎ。麒麟が真田丸で関ケ原を戦う
の続きです
徳川家康が「北極星を背に江戸を守る(諸説あり)」と日光東照宮で眠ることになり
江戸から東照宮に将軍、大名が社参するときは
往路は日光街道を通り、復路は日光道中壬生通りを通ったそう(日光西街道)
日光西街道、通称「蘭学通り」毎年7月に山車が練り歩く「八坂祭」が開催されますが
今年はコロナの影響で中止です
ちなみに佐野市にある私の実家近くには
京都(天皇の勅使)から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った「例幣使街道」があります
三代将軍家光が亡くなったときは
壬生にある興光寺で仮通夜がとりおこなわれたそうです
そんなわけで江戸時代、壬生は重要な拠点となっていましたが
壬生町史を見てみると
壬生藩って当時特産品もなく結構ビンボーだったみたい
重要な場所だけど特産品のない(←ヒドイ)壬生藩に
国替えで水口藩からやってきたお殿様がなかなかの名君でした
国替えで壬生藩領主となった鳥居忠英公でしたが
壬生藩にはこれといった産物がなかったので
前の領地の水口(現在の滋賀県甲賀市水口町)から
かんぴょうのタネを取り寄せ黒川周辺で栽培したところ
黒川の西側は成功せず、川の東側にある藤井村の名主篠原丈助が成功させた
ということらしい
栄転とはいえ産物も少ない僻地に飛ばされてもそこでやさぐれなかった鳥居のお殿様、エライ!!江戸時代の半沢直樹だね!!←来月始まる!うれしい
しかし東と西で生育が異なっていたのが興味深い!!
ユウガオの実(ふくべ)の生産に成功した東側の藤井村、今の藤井地区は
篠原商店の創設者篠原元治(もとじ:屋号マルモの由来)さんの出身地
藤井にはそれこそ
篠原だけで村ができそうなくらい篠原姓が多い地区
ずーーーーーーーっとたどれば篠原丈助さんにたどりつく!?かも
余談ですが今回のタイトル
~歴史とロマンが詰まってる。江戸時代の半沢直樹
と悩みましたがシノハラつながりで篠原丈助に軍配があがりました
そういうわけで
壬生町にかんぴょうの生産が始まったのだそう
水戸光圀が日光輪王寺にかんぴょうを献上した記録も残っているよう
鳥居家お献立帳には
壬生藩鳥居家の奨励作物である「干瓢」は1ヶ月間に9回も食膳にのぼり、いつも残さずに食べた記録もでています
参考文献
壬生町地域資料デジタルアーカイブ
壬生町地域資料『第5回企画展 瓢とくらし』
また風土的にも
かんぴょう生産が栃木県で定着したのは風土に因るところも大きいと考えられています。
夕顔は浅根性で横に広がって伸びる性質があり、排水のよい軽い土を好みますので、保水性が高く水はけもよい土壌(関東ローム層)に覆われたこの地は、かんぴょうの発育に何より適していました。また、このあたりは夏の名物といわれるほど雷が多く発生し午後に雨が降ります。これが地表を冷まして暑さに弱い夕顔の根の伸長を促し、実(ふくべ)を太らせる恵みの雨となってくれるのです。
水はけのいい関東ローム層という地質と
雷の発生が多いこの土地ならではの気候が
ゆうがお(ふくべ)の生育にうまく合致したようです
ちなみに今日は「カミナリ記念日」なんだそう
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去年雷様剣士ダイジと一緒に撮影しました
壬生町周辺には雷電神社がたくさんあり
先日記事をあげたら「カミナリの多い地域だから・・・」というコメントをいただき
なるほど!って思いました
ご近所で見つけた雷電神社はたいてい大きな社ではなく
その地区に住む人たちが日々手を合わせるような小さなお社
らい様という呼び名からも
雷と人々の生活が密接だからなのかと思いました
壬生町周辺散歩で見つけた雷電神社
壬生町の雷電神社
下野市の雷電神社
壬生町で開催されるマルシェは「ライデンマルシェ」
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