神父や助祭のほうが女にだらしがない
司祭は独身制だから、さぞかし綺麗な生活をしていると勘違いしてしまう。実際にはタバコもお酒も女も自由なのではないかと思う。ただ、本人が自覚していないだけである。それが素晴らしいかどうかは別として、教会の中のことをしているうちに無感覚になって行ってしまう。教会の活動を一緒にしたり、巡礼旅行に行ったり。私も奥さんのほうからやきもちを焼かれていると想像もしていなかったので、それを助祭などにあてはめると、助祭なんて離婚しているも同然の家族なのである。ご奉仕熱心で、修道会に入りたいという希望の方は結構いるかもしれないけど、結婚していると神父にはなれない。だけど、助祭という道があるらしく、お子さんが大きくなったら助祭になるとか?ところが、教会のご奉仕をほかの女性たちと一緒にやっているだけでも気に入らないのが奥さんである。立場を替えると本当にそう。いくら教会のボランティアだからといって、あちこちに仲の良い女がいて、遊んでいるとなったらどうだろう? 一緒に二人で海外旅行へ行ったり、現地のほうに女性のパートナーがいて一緒に旅行したり。神父だったらそれが当たり前のようで、相手がシスターなら、シスターのほうが喜ぶらしい。ただ、特定の相手というのがダメなのかもしれないけど、その代わりにそういう遊びには必ずシスターたちが同伴していたり、普通だったら考えられない。夫が助祭になって、家にも帰らない上に、いつも女を同伴して旅行に行っていたらどうだろう? 普通は離婚ではないだろうか?それを当たり前にやってのける世界なので、信者からすると神父や助祭のほうが女にだらしがなく見える。逆に、普通の信者のほうが一般社会のモラルがあるので、そんなことをしたら大変だ、奥さんが怒る、離婚になる、ということがわかると思う。男性社会において、他人の奥さんを同伴して旅行に行くなんて考えられないのでは?仕事ということもありますけどね。そのせいで、カトリックは他人の奥さんをパートナーにするから、イスラム社会では嫌われている。勝手に他人の奥さんになれなれしいとか?食事も別の世界なのに、わかちあいと言われて皆で食事するというのも厄介な話でしょうし、常識が違うから仕方がない。マラキ 2. 10-16若い時の妻を捨てるからだ・・・現地妻の発祥は修道会らしい。