《前編》 より
【昏礼】
古代の人々は、日中はこの世で、夜はあの世と看做していた。婚礼は「黄昏てから、あの世の側でも行われるべき魂靈(たましび)の結び」だったのかもしれない。「婚礼」の元は「昏礼」であり、さらにその元は「昏靈」だったのかもしれない。
魂靈(たましび)自体も、音読みにすれば「こんれい」と読める。
最近では、婚礼といえば女へんのついた「婚」を用いますが、本来は女へんのない「昏」が用いられていました。この「昏」という文字は『ひぐれ』という意味ですが、婚礼という、男と女が結ばれる儀式を行うのがひぐれ時であったから、「昏」という儀式となったのです。(p.134-135)
なぜ婚礼は、黄昏時から始められたのだろう。その理由は書かれていない。古代の人々は、日中はこの世で、夜はあの世と看做していた。婚礼は「黄昏てから、あの世の側でも行われるべき魂靈(たましび)の結び」だったのかもしれない。「婚礼」の元は「昏礼」であり、さらにその元は「昏靈」だったのかもしれない。
魂靈(たましび)自体も、音読みにすれば「こんれい」と読める。
【 "祭(まつる)" "奉る" "まつろう" "帰順する" 】
音読みで“さい”と読めば、冠婚葬祭、つまり死者の祭祀を意味する。しかし、訓読みの大和言葉で“まつる”と読めばどうなるのでしょう。神を“まつる”ことであり、神を“まつるワザ”を意味します。日本列島に仏教、儒教の考え方が伝わる以前には、“まつる”対象となるのは神様だったわけです。
《参照》 『神さまが教えてくれた幸福論』 神渡良平・小林正観 (致知出版) 〈前編〉
【祈りや願いの本質】
音読みで“さい”と読めば、冠婚葬祭、つまり死者の祭祀を意味する。しかし、訓読みの大和言葉で“まつる”と読めばどうなるのでしょう。神を“まつる”ことであり、神を“まつるワザ”を意味します。日本列島に仏教、儒教の考え方が伝わる以前には、“まつる”対象となるのは神様だったわけです。
そして“まつる”という言葉に“奉る”の意味が、“まつろう”、服従すること、帰順することが内在していることを知らねばなりません。祭るというと、何か人間が神様をまつりあげているように感じますが、あくまでも主人公は神様です。これは神様に人間が服従して帰順し、神様の御心のままに生きることを意味しています。それだけに日本における政治のことを“まつりごと”(政)というのです。(p.147-148)
祭政一致は前近代的な迷信じみた手法と、多くの人は思っているのだろうけれど、神なる存在は時空を見通してすべて正しく判断している。現代でもそれをとりなすシャーマンさんが実在している神国日本なのに、政(まつりごと)ならぬ日本国政は、「闇の権力」や「天下り官僚」の意に則するばかりである。《参照》 『神さまが教えてくれた幸福論』 神渡良平・小林正観 (致知出版) 〈前編〉
【祈りや願いの本質】
【“けがれなき服従” のワザ】
日本列島に住み、豊四季の自然(あめつち)のなか、育てられてきた魂靈(たましび)です。“けがれなき服従” のワザ、まつりを求め続けているようです。(p.154)
【物に霊魂を宿らせないワザ】
お弁当を食べて、割り箸を折る人と折らない人がいるけれど・・・
《参照》 『帯と化粧』 樋口清之 装道出版
【水引(みずひき)の思想】 【魂振り】
お弁当を食べて、割り箸を折る人と折らない人がいるけれど・・・
「昔の日本人は、使ったお箸をそのまま捨てると、そのお箸に自分の魂靈が移っていて、そのお箸がもし粗末に扱われると、自分自身に禍が降りかかると信じたのだよ。だから、そのお箸を折ることによって魂靈が宿れないようにして捨てることを考えたのさ。
からかさおばけややぶれちょうちんなど、日本のおばけのことはよく知っているだろう。人に使われなくなったものがそのまま捨てられると。おばけになって動き出すのも同じ考えなのさ。だから、お茶碗でも、なんでも自分の使ったものは捨てる時は必ず壊して捨てたものなのだよ。魂靈の国だからこそ、物に霊魂を宿らせないワザも知っていたのさ」 (p.161)
「魂が宿る」という発想を心得ていれば、日本文化はむしろ理解しやすい。それほど古代から中世にかけては「魂」を基盤とした考えが「常識」だった。「ムスビ」の日本文化は、何を結ぶかといえば「魂を結ぶ」のである。からかさおばけややぶれちょうちんなど、日本のおばけのことはよく知っているだろう。人に使われなくなったものがそのまま捨てられると。おばけになって動き出すのも同じ考えなのさ。だから、お茶碗でも、なんでも自分の使ったものは捨てる時は必ず壊して捨てたものなのだよ。魂靈の国だからこそ、物に霊魂を宿らせないワザも知っていたのさ」 (p.161)
《参照》 『帯と化粧』 樋口清之 装道出版
【水引(みずひき)の思想】 【魂振り】
魂靈の国の現代のシャーマンさんたちだって、「魂振りの技」を普通に使っているはずである。
【「お」の文化】
ところで、箸の同音に端、橋などがあるけれど、
日本人は箸(はし)を、ただ“はし”と言わずに、“お箸”と言います。 ・・・(中略)・・・ 。
“はし”に敬語の“お”をつけているわけです。人間の生命をつなぐ食事に対する感謝が言葉の形となっています。ご飯を装う道具をお杓文字、器をお盌、お汁を装う道具をお玉、 ・・・(中略)・・・ 皆々、この心なのです。
日本の礼の文化は、「お」の文化といってもよいほどです。「お」をつけなくても、言えるのですが、なんとなくぞんざいに聞こえてしまいます。この理屈なく日本人の感覚で「お」をつけない音の響きがぞんざいに感じているうちは、日本の礼の文化もまだまだ生き続けているように思います。(p.164)
最近のテレビでは、女芸人さんたちが、「おいしい」ではなく「うま~~~い」と平気で言っている。礼の文化も恥の文化もあったものではない。日本文化を紊乱する失礼・無礼・無恥な日本人女性達である。“はし”に敬語の“お”をつけているわけです。人間の生命をつなぐ食事に対する感謝が言葉の形となっています。ご飯を装う道具をお杓文字、器をお盌、お汁を装う道具をお玉、 ・・・(中略)・・・ 皆々、この心なのです。
日本の礼の文化は、「お」の文化といってもよいほどです。「お」をつけなくても、言えるのですが、なんとなくぞんざいに聞こえてしまいます。この理屈なく日本人の感覚で「お」をつけない音の響きがぞんざいに感じているうちは、日本の礼の文化もまだまだ生き続けているように思います。(p.164)
ところで、箸の同音に端、橋などがあるけれど、
日本語の“はし”とは、じつは“はさ”と同じで、間ということの意味です。要するに“はし”とは、これと同じ意味で点と点の間を表わしているのです。“はしら”と言えば、天と地の間を支えているものを表わします。
もう私たちが食事のときに使う道具をなぜ“おはし”というのかおわかりでしょう。一本と一本の間にある命の糧をとるのでおはし(はし)というのです。(p.167)
もう私たちが食事のときに使う道具をなぜ“おはし”というのかおわかりでしょう。一本と一本の間にある命の糧をとるのでおはし(はし)というのです。(p.167)
【日本人の魂靈が宿るところ】
【 「品がいい」 は最高の褒め言葉 】
日本人の大切な魂靈は私たちが守り抜いているワザの集積以前にすべての人々が当たり前に身につけている品にこそ宿っているのです、なんとか日本人の品のよさを守り抜きたいものです。(p.165)
《参照》 『美人のお作法』 友常貴仁 (インデックス・コミュニケーションズ)【 「品がいい」 は最高の褒め言葉 】
【甦る力を得るための術】
《参照》 『美しい日本語の風景』 中西進 淡交社
【わび:わびる】~【あやむ:あやまる】
「日本人の躾」とは専ら「魂の次元での躾」を言っているはずである。正しく素直に躾られればいいけれど、そこを外れて、口先で言い返すような愚かさを身につけてしまうと、日本神霊界に集う高貴な存在たちから根本的に相手にされなくなってしまうのである。
子供のころから “失” をおかせば必ず、
「ごめんなさい」
ということを躾ます。悪いことをしたときも、
「ごめんなさい」
とあやまります。(p.214)
自分が悪いと知ったとき、徹底的にあやまり切って、再び甦る力を得るための術でもあります。中途半端は許されません。また、意識的にすることは許されないのです。それだけに物心つく前から無邪気のうちから躾なくてはなりません。(p.216)
「わびる」も「あやまる」も「死ぬほどのこと」であればこそ「甦り」が許されるということだろう。「ごめんなさい」
ということを躾ます。悪いことをしたときも、
「ごめんなさい」
とあやまります。(p.214)
自分が悪いと知ったとき、徹底的にあやまり切って、再び甦る力を得るための術でもあります。中途半端は許されません。また、意識的にすることは許されないのです。それだけに物心つく前から無邪気のうちから躾なくてはなりません。(p.216)
《参照》 『美しい日本語の風景』 中西進 淡交社
【わび:わびる】~【あやむ:あやまる】
「日本人の躾」とは専ら「魂の次元での躾」を言っているはずである。正しく素直に躾られればいいけれど、そこを外れて、口先で言い返すような愚かさを身につけてしまうと、日本神霊界に集う高貴な存在たちから根本的に相手にされなくなってしまうのである。
姿勢・呼吸・心のはたらきをコントロールする源は、魂靈です。自然(あめつち)と結ばれた自らの魂靈の聲のなすまま、生きられるようになる秘術こそ、当家の家伝の秘中の秘ともいえるでしょう。(p.222)
<了>
友常貴仁・著の読書記録