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 まさにこの書籍の表紙の絵のような世界が記述されている。日本的なる四季を愛する人々は、必ずやこの書籍を愛蔵版として蔵書することだろう。
 四季を、桜狩り、蛍狩り、もみじ狩り、冬ごもりに集約して記述している。

 

 

【魂靈(たましび)】
 “たましび” とは 「魂(たま)し靈(び)」 で、 “たま” は美称で、 “し” は気息(いき)を表し、 “び” は奇(クシビ)を表しています。そして、生活の原動力となる神秘の力を示します。生あるときは体内に宿り、死すれば体外に離れ、古来、人死すれば身体は地に帰し、魂靈は天に帰すとされ、心は別のもので、心のはたらきをつかさどる神秘の力とされてきました。
 ・・・中略・・・。
 大和ことばで “たま” という音は、美しきものの総称です。 “び” というのが神の秘められた力を称するもので、もとは靈(チ)と言われ、それが靈(ミ)と転じて靈(ビ)と音されるようになったのです。
 ですから、・・・中略・・・ “たましび” とは、 “おおすばらしき未知の力よ” ということで、大切な秘伝の言魂靈なのです。靈魂(れいこん)とはちがいます。ましてや “たましい” ではないのです。(p.24)
 また、以下の様にも記述されている。
 日本人は、その日本語をなんの理由(さわり)もなく、ごく自然に身につけています。もとの意味など考えなくても、その言葉の響きで、何かを感じとれる魂靈をもっているのです。
 しかし、俗にいわれる大和魂などによって、真の日本の魂靈が誤解されやすくなっているようです。本当はこの宇宙すべての、ありとあらゆる事象の聲が聞こえる人間こそ、日本魂靈(やまとたましび)を心に納める人なのです。(p.37)
 この書籍には全編にわたってこの “魂靈” という言葉が記述されている。最初にこの本を読み始めた日の夜、本当に魂靈に導かれたのだろう、めったに夢など見ない私が、桜の夢を観た。

 

 

【関東を “あずま” という由来】
 無事、東国を平定して帰路につく途中、碓日の坂より関東平野を望んだ日本武尊は、海に身を投げた弟橘媛を偲び、
「吾妻はや」
 と詠嘆しました (“はや”というのは深い詠嘆を表す語)。
 これより、関東のことを 「あずま」 と呼ぶようになったと語り継がれています。ふだん、なにげなく使っている、関東を意味する 「あずま」 という言葉も、このような由来があるのです。(p.21)
  《参照》  『大使が書いた 日本人とユダヤ人』 エリ・コーヘン 中経出版 
            【弟橘媛(おとたちばなひめ)】

 

 

【山高神代桜】
 その日の深夜、私は夢に現れた白鳥が 『八尋白智鳥』 として登場していることを知りました。
 ・・・中略・・・。この白鳥が、夢に現れた桜吹雪の中を悠々と飛び、弟橘媛の魂靈宿る、富士の裾野のさくら木へと導いたのです。・・・中略・・・。
 このさくら木に弟橘媛の魂靈がやどるという事実は、私しか知りえないことでしょう。一般には、日本武尊のお手植えのさくら木であるということだけが、伝承として残っているにすぎません。(p.22-23)
 この白鳥とは、日本武尊がなくなった時、白鳥となって飛び立った鳥のことである。すなわち、その日、日本武尊が著者を導いた弟橘媛の魂靈が宿る桜木とは、山梨県北杜市にある山高神代桜である。
 しかし、現在この木は、幹にコンクリートを詰めて殺されたも同然の状態になってしまっている。真っ当な見識のある樹医にかかっていたら今も美しい花を咲かせているはずなのに、何故その程度の配慮すらしなかったのか。山梨県観光課のトップは万死に値する罪を犯している。山梨県は何課であれドン底の無能集団である。
     《山梨県の無能ぶり:参照》
       『少年と父親』 冬野良  山梨日日新聞社
       『美しき日本の残像』  アレックス・カー  新潮社  《前編》
         【日本のビジネス空間】

 

 

【歌の父母】
 難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春ベと咲くやこの花
 この歌は、現在でも、百人一首のかるた大会の競技が始まる前に序歌として必ず歌われる歌であり、桜の魂靈を歌う最上位の和歌として見落とすことができない一首です。かるたを本式に競技する人たちでも知る人は少ないのですが、この歌と次の歌は古来、「歌の父母」 とされているのです。
 安積山(あさかやま)影さえ見ゆる山の井の 浅くは人を思ふものかは    (p.63-64)
 この後に、「歌の父母」 を最初と最後の一文字に隠した31首の和歌が紹介されている。曾根好忠(十世紀後半の歌人)が秘密をこめて遺した歌だという。

 

 

【歌合(うたあわせ)の判詞】
 歌合とは、天皇が題を下され、選ばれた当代一流の歌人が左右に別れ、歌の優劣を競うこと。
 逢うこのと絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし   藤原朝忠
 君恋ふとかつは消えつつ経るものを かくても生ける身とや見るらむ  清原元真

 判詞(勝ち負けの理由)は、「左右の歌いとをかし、されど左(藤原朝忠)の歌、ことば清げなりとて左をもて勝ちとなす」 というものです。 “ことば清げ” ということで勝てたわけです。大和ことばは、 “ことが清げ” も重要な要素でありました。
 たしかに、何度も声を出して、この両者の和歌を詠じてみますと、朝忠の歌の方が心に響いてくるのです。素晴らし言の葉は、魂靈に響き、なんとなくよろしいのです。
 漢詩中心の上流社会の教養から、この歌合のように国風文化が甦りつつある世界で “左近の桜” が甦ったのです。大和人は大和人、そして大和人の心の表れは、漢詩ではなく和歌(やまとうた)であるという自覚が甦った時代です。 (p.78)
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <前編>

 

 

【妻に贈りし詩】
 聖武天皇が、ある春の日に、春日大社の御神体である三笠山の八重桜を愛でに行幸されました。あまりに美事な、その八重桜の咲き姿に詩を作り、妻の光明皇后に贈りました。
 
 日日春季  山山美花
 不見玉女  夕夕恋歌

 さあ、この漢詩を詠じてみてください。なかなか技巧的なのです。
 「此詩一句三字也。句ごとの上の一字を二度読む也」 との指示があります。

 春季(はるのすえ)日々に昌(さかん)なり
 美花山々に出(いだ)す
 玉女覓(もと)むるに不見(みず)
 恋歌夕夕(ゆうべゆうべ)に多し

 と詠じます。 (p.82)
 感心しているだけではいけない。
 こういうのは読み方をきちんと暗記しておかないと教養にならない。
 でも、きっと忘れるだろう。

 

 

【日本人の “さくら色“ 】
 日本人(やまとびと)の花の愛で方も、中国思想が強く影響しているうちは、桃・李・梅です。桃色・白・赤を愛でているのです。しかし、だんだん日本人の心に甦りの力が湧いてくると、色と赤、そしてその中間の桃色、この均等な3つの点から心が離れていくのです。
 とくに、白と赤の間の桃色の好みに、強い日本人(やまとびと)的個性が現われてきます。
 桃の桃色が、日本人の心に適わなくなるのです。平安時代ともなりますと、八重桜の桜色が好まれるようになります。桃色と桜色の違いを認識する世界こそ、日本人の心の世界なのです。
 ・・・中略・・・。
 私でも、平安人(へいあんびと)の愛でた八重桜は、よくよく楽しんでおりますと、重く感じてくるのです。・・・中略・・・。日本人の心は、軽みを求めはじめます。
 情感の強い心は、・・・中略・・・一重に咲く可憐な姿にだんだんと心がひかれていきます。・・・中略・・・。この桜の色には、 “薄紅色” の上に淡きと冠をしました。
 淡き薄紅色の誕生です。
 平安末期から鎌倉時代へと社会の中心的存在であった武士の心は、散る姿がよい一重の桜への共鳴が起きてくるのです。桜の散る姿に自己の死の姿を映している、そんな無常の世界。その無常の世界の色こそ、淡き薄紅色なのです。(p.86-87)
 この記述、日本人にとっては心から頷けるものであるけれど、外国人にとっては頭(言葉)でしか理解できないものらしい。

 

 

【江戸の桜】
 新田の開発も進められました。治水・利水の土木技術が、どんどん発達した時代です。・・・中略・・・。堤防の包みに必要だったのが、土留となるものでした。育ちが早く、根張りの良い木が必要なのです。この条件にぴったりなのが桜の木です。・・・中略・・・。多くの雨が降る前に花見をさせて、土固めです。そのためには、大勢の人が集まるようにしなくてはなりません。そのための道具が遊郭なのです。堤が完成すれば遊郭は取り壊し、次の堤を築く所へと場所変えをします。 (p.87-88)
 こんな話を知ってしまうと、 “さくら” という典型的な遊女の名前が、土方のオジちゃんの連れ合いオネエチャンみたいで、ちょっとロマンを感じられなくなってしまう。