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 91年から92年にかけて「新潮45」に掲載されものだから、もう18年ほど前ということになる。国内外を渡り歩いている著者の、広い視点で記述されているから読んでいて飽きることがない。

 

 

【祖谷】
 今から思い返すと、その頃の祖谷の生活は夢のような美しい時期でした。時々僕達は釣井の男の子達と一緒に山奥の 「燻世淵」 に遊びに行きました。・・・中略・・・。3時間くらい川と岩を登ってやっと燻世淵の滝につきました。深くて、青くて、寒い燻世淵に竜が住んでいると釣井の人たちは信じていました。僕らはフルチンで泳いで竜に襲われる事もなく篪庵に帰ってきました。(p.36)
 『美しき日本の残像』として語られている祖谷は、四国の山中にある長閑な一帯。過疎化の進む祖谷で、住む者とてない茅葺の家を買って、「篪庵(ちいおり)」と名づけたのだという。
 篪庵の茅葺屋根の吹き替えには、1200万円もかかったという。
 なお、文中の 「フルチン」 は誤記である。 英語で 「丸出し」 の意味だと思ったに違いない。 “full” ではなくて “振り” である。「おチンチン、ブラブラ」 の感覚までは、流石のカーさんも思い至らなかったらしい。

 

 

【イギリス人にとっての東洋】
 イギリス人にとって中央ヨーロッパより東方の地は 「東洋」 になり、ウィーンあたりから始まるのです。古代エジプト語、アラブ語、日本語、中国語など全て漠然と 「東洋学」 なのです。(p.87)
 ふーん。

 

 

【「つまらなさ」 こそが人生だ・・・・・?】
 考えて見ると、日本の教育システムは平凡な人間を作るのが目的です。言われた通りに平凡にやればいいので、日本人は 「平凡」、「つまらなさ」 というものに対して慣れています。「つまらなさ」 こそが人生だと思っています。もちろん、それは日本社会の大きな弱点だということは言うまでもありません。(p.98)
 “美しき日本” の理解者にこのような記述をされると、返す言葉がなくなってしまうではないか。
 諸外国に比べて日本は明らかに静的である。広大な大陸に住んでいればどうしたって動的になるし、自己主張せねばならず、「つまらない」 などと思っていられないはず。
 されど、近年の日本人は動的になりつつある。その代償として “静” を基本としている日本文化の奥深さを感受する繊細さを無くしつつあるのかもしれない。だから著者は 『美しき日本の残像』 を感じてしまうのだろう。

 

 

【和様書道】
 和様書道で見る「非個人的」幽玄の美こそは日本の書芸術の世界への貢献といえるでしょう。・・・中略・・・。中国の書家は絶えず自分の個性を訴えようとしたので、和様書道の世界に見られるような静かな世界を見いだすことは到底できませんでした。寂しいことに和様書道は絶えました。けれども、そのデリケートな美しさは僕にとって日本の芸術のシンボルであり、僕は自分の書の中にその味を少し入れようとしています。(p.112)
 『美しき日本の残像』 を自らの書の中に託し込もうとするその行為、我らボンクラの日本人は脱帽するばかりです。

 

 

【日米の会社組織の様子】
 日米間をとりもつ美術商をしていた時期に、会社の現実を体験して
 それまで僕は 「アメリカは平等の人間関係、日本は上下関係」 だと思っていました。けれども、会社の組織になると、日本の部長はソフトタッチで部下を指導するようです。・・・中略・・・。
 一方、アメリカの会社の組織は一種の 「軍隊」 のようなものです。マネージャーは絶対権力者で、部下は彼の命令を素直に聞いて動く、というシステムになっているようです。会社組織においては日本の方が民主的でした。
 んだ。

 

 

【日経新聞の実状】
 日本のバブルが崩壊した時期。ビジネスに携わっていた著者の経験から・・・
 日経新聞が株の実状を正直に伝えなかったのはなんらかの報道の規制のためだとしかかんがえられません。日経新聞は一種の政府機関紙であるような印象から今でも抜けられません。
 ・・・中略・・・。
 ですから、オフィシャルな情報を知りたいときには日経を読みますが、大事な時、本当のことを知りたい時にはやはり英字新聞の 「アジアン・ウォール・ストリート・ジャーナル」 や日本の大衆新聞 「夕刊フジ」 を読みます。(p.149)
 日本経済新聞に関しては 「訝しさの牙城」 である。
  《参照》  『中国暴発』 中嶋嶺雄・古森義久 (ビジネス社)
            【人民日報と提携する日本経済新聞・朝日新聞】

 

 

【日本のビジネス空間】
 日本企業はなぜかオフィス・マネージメントができないようです。建物や事務所が新しくても、机の上に書類と箱が山積みになり、空間は狭苦しく感じます。その原因はファイリング・システムができていないということかもしれません。・・・中略・・・。
「雑」 と 「簡素」 という両極端の空間が日本文化にありますが、ビジネスには中間である 「整理した空間」 が必要だと思います。 (p.151)
 これは、この本が書かれた20年近く前のことだから、この様に記述されてももっともだと思う。しかし、コンピュータの行き届いた現在の日本企業では殆ど改善していることだろう。ホンダなど、机上にPC以外何も置かないのがルールになっている。
           【「引き出しにものを一切入れない」】
 ところが、昨年、山梨県庁の教育課というところに行く機会があってビックリたことがある。そこはまるでPCなどまだこの世に存在しない時代の有り様そのものだった(!)のである。うず高く積み上げられた箱や書類、ここはラビリンス(?)・・・、冷蔵庫の上に雑然と置かれた汚い茶碗やら・・・。衰退県の象徴、まさにここにアリ!!!。 「でしょうね・・・」 と思ったものです。

 

 

【国道1号線】
 車で京都から奈良に行く場合、殆どに人は京都駅のすぐ南の国道1号線を通って行きますが、それはなるべく避けた方がいいと思います。なぜなら皮肉なことに京都と奈良を結ぶ幹線道路は世界で最も醜い道の一つになっています。京都タワーの醜悪に始まり、奈良県庁の醜悪に終わり、その間は1時間半ぐらいパチンコ店、コンクリート、電線の縺れなどがずっと続いています。名前もさすがのこの 「国道1号線」 は日本の文化堕落と自然破壊の象徴だと思う時もあります。 (p.175)
 18年前の状況が現在改善されているのかいないのか・・・・。
 コンクリートとパチンコ店という言葉は、この書籍の中に10回以上出てきている。面積あたりのコンクリート体積率に関して、日本は圧倒的に世界一である。出雲付近の道路を走りながら、「なんでこんな緩斜面にコンクリートの枠が打たれているのか?」 と腹立たしく思ったことがある。
 国際金融パワーエリートの戦争ビジネスが、極悪な ” 人殺し” であるように、日本のコンクリート行政も、立派な “自然殺し” である。どっちもどっち。