皆さま
本日も昨日に引き続き、
僕の物語にお付き合いください。
昨日で終わったつもりでしたが、
とても長くなったためこれを読めばだいたい伝わる
【まとめ版】を書きたいと思います。
本日もよろしくお願いします。
「【まとめ版】不安な人生から安心の人生に転換した僕の物語」
それぞれの物語はこちらからご覧ください。
不安な人生から安心の人生に転換した僕の物語⑤~高校・大学生編~
不安な人生から安心の人生に転換した僕の物語⑫~いよいよ転換編1~
不安な人生から安心の人生に転換した僕の物語⑬~いよいよ転換編2~
【最終話】不安な人生から安心の人生に転換した僕の物語⑭~安心の人生での気付き~
・幼少期編
生まれたばかりの妹を僕は
たまたま左目だけで見て
妹の姿がぼやけることに気が付きました。
左目がぼやけるのです。
僕は人前で返事ができないくらい、
気が弱く恥ずかしがり屋でした。
幼稚園で先生から春休みの思い出を
絵で描く課題が与えられましたが、
その時、家庭内で何が起きていたかは
覚えてはいませんが描ける思い出がありませんでした。
そこで、架空の思い出を描くことにしました。
その絵に「みかんがり」とタイトルをつけたのです。
見たことのないミカンの木に
父と母、妹そして自分を描きました。
初めて想像力を駆使した瞬間でした。
なぜだか、この頃に母に
「僕は畳職人になりたい」と言っていました。
・小中学生編
小学校の同じクラスの児童たちに
痛い思いをさせられる日々が続きました。
家でも母とも関係がうまくいかず、
居場所を失った感覚になりました。
小学校の健康診断で左目の
視力が低いことが発覚します。
それに驚き、心配をした母は
僕を様々な眼科医に連れていきました。
メガネをして矯正することになったが、
それを拒む僕に母は「目が見えなくなるよ」と
繰り返し言うようになりました。
僕は知らず知らずのうちに
そのことを信じるようになっていました。
中学生になると自分の身を守るためにも
人々を笑わせるための研究を始めました。
そこでは自作の物語を作っていました。
・高校、大学編
良き仲間にも恵まれて高校時代は楽しく過ごしました。
その頃は母との関係は深くかかわり合わない
状態が続いていました。
この頃、なぜだかわかりませんが祖父から
「お前はストーリーテラーの才がある。小説でも書いてみたらどうだ」
と言われます。
しかし、僕はその時はなぜ、
祖父はそんなことを言ったのだろうと思うくらいで、
特に考えることはしませんでした。
記憶の片隅にはずっとこの言葉が残っていました。
高校卒業後、大学に進学しますが
環境の変化に敏感で繊細な僕は身体中に蕁麻疹が出ます。
大学でやりたいこともなく、
キックボクシングにのめりこむようになりました。
大学も1年足らずで中退することになります。
・社会人編
出版社に就職が決まりました。
それと同時にキックボクシングは辞めることにしたのです。
忙しい会社でしたので毎日のように終電まで働いていました。
すると、ある日左目に黒い点が見えるようになりました。
小さい頃から母に「目が見えなくなるよ」と言われていたことから、
なぜだかそれを信じていて恐怖を覚えていました。
そのことから勝手に僕は網膜剥離になったと、
目の見えなくなる恐怖に強い不安感を感じるようになります。
そして大好きだったキックボクシングのことさえも、
やるのではなかったと後悔をし始めます。
もしかしたら、目のことと向き合うためにキックボクシングという、
目にも負担をかけやすいスポーツを選んだのかもしれません。
数年間、眼科に行くことも怖くてできず不安にさいなまれていきます。
数年が経ったある日、将来結婚をしたい
新しい転職先へ行くという転機から
自分の心配事を解消しようと、意を決して眼科へ行きます。
すると、網膜剥離ではなく飛蚊症という診断でした。
特に問題ないと言われ、今まで勝手に悩んでいたことに笑いたくなります。
しかし、それだけ思い込んだこともあり
簡単に安心を手に入れることはできませんでした。
そうして転職先である新しい会社で働き始めます。
残業も多かったですが、毎日働きました。
でも、あまりスムーズに仕事はいっていませんでした。
無理をしていたと言えると思います。
ある時、電車に乗るのが怖くなりました。
その数年後には、不安の世界へ完全に移行してしまいます。
時折大きな不安に襲われるようになります。
それはまるで冷たい鉄板で挟まれていくような感じです。
その最中は、もうこのまま消してしまってくれと心から叫びたくなります。
それでも会社には行きつづけました。
むしろ休みたいとは思わなかったのです。
それから、その大きな不安をなんとかしようと漢方、
鍼灸、健康食品、心理学などできることはやってみました。
少しは改善した気はしましたが、
なかなか大きな不安はなくなりませんでした。
そうして、これ以上なにをしたらいいのか
絶望感を感じていると、
「嫌なことはやめて、好きなことをしよう」
という文章が僕の目に入ってきます。
それが、なぜだか気になりました。
好きなことを探し始めます。
ある日、バスに乗っていると目に飛び込んできたものがあります。
それは畳屋さんでした。
それと同時に幼少期に「畳職人になりたい」
という言葉を思い出します。
部屋に畳を敷くことにします。
すると、昔風の人が筆で何かを書いているイメージが浮かびます。
それでピンと来ました。
高校生の頃祖父に言われた言葉とともに、
それでこれから作家になるのだと僕は思いました。
それから書くことを続けます。
その想いは会社員をしながらも強くしていきました。
そうして、会社を辞めることにします。
・いよいよ転換編
会社を辞めたことで時間がたっぷりとできます。
それから徹底的に自分と向き合うことになります。
毎日の自分の感情を日記のように記していきました。
何に心が上向きになって何をすると下向きになるか
そんなことを中心にひたすら書いていきます。
すると、段々と自分がどうすると気分が
良くなるのかを知っていきました。
それからは自分を満たすこと自分を
大切にすることを心がけていきました。
そんな生活を送っていると自分はずっと不安に
焦点を合わせていることに気が付きました。
不安になることばかりを見ていたのです。
自分ができることやあることに目を向けていませんでした。
大きな気付きでした。
それからは自分の回りの母を含めて家族や、
自分が色々できること、今あることに感謝の気持ちが湧いてきました。
そのうちに、それに気が付けたことは
今まで自分が苦しんできた不安のおかげだと気が付きます。
あの、一度は人生を諦めかけたきっかけになった
不安にも感謝の念が生まれたのです。
不安さんのおかげで僕は大きく成長することができたのです。
そうして、人生最大の気付きが訪れます。
「僕はすでに幸せだった」
それからは、このような経験を活かして
生きていこうと思いました。
その想いを胸に今日も書き続けることにしたのです。
・安心の人生での気付き編
僕は安心の人生を歩み始めました。
自分は幸せだったと気が付き、
今度はもっと幸せになりたいと
思うようになったのです。
しかし、思うように進みません。
なんだかネガティヴな感情も
湧いてきます。
なにかをやろうとしても
ブレーキがかかります。
家族や自分に対してもネガティヴに
接していることに気が付きました。
そうして、一度足を止めてみる
ことにしたのです。
自分自身と向き合ってみます。
どうやら僕は不安の世界にずっと
いたからか
シンプルに安心の世界で
幸せを受け取ることを
どこかで拒んでいたようです。
長らくの不安の世界での癖が
安心の世界でも出たのでしょう。
そうして、幸せを受け取ることを
自分に許可してみました。
すると、気持ちが楽になって
また進み始めることができたのです。
安心の世界初心者ではありますが、
どんどんと幸せになっていこうと
思いましたし、
家族にも伝えてみました。
僕は想いを新たに、
今日も書き続けます。
【終わり】
現在、不自由や不安を感じる人生を送っている人が
このブログを読んで少しでも新たな一歩を踏み出してくれる
きっかけになったら嬉しく思っています。
世の中には親切な人は意外といます。
そんな願いを込めて書いています。
何か生きる上でのヒントになりましたら幸いです。
皆さまよろしくお願いいたします。