酒とホラの日々。 -32ページ目

夏至の日のシーサイド・バー

朝から雨が降ったり止んだりのはっきりしない天気に、特に予定もないとなると、今日がどうしたということもなくなんとなく一日が過ぎていくような気がする。 そんな予感が朝からできあがってしまうことがある。

 

もやった空気と、予定のない宙ぶらりんな気分を打ち払うように、空の具合を見ながら、ふわふわとまとわりつく雨粒を縫うようにして自転車で海の近くに出かけてみた。

マリーナに係留されたヨットが並ぶ、誰もいない海岸には生ぬるい潮風が吹き抜けて、時折走る車の音が分解した何の音かわからない遠いざわめきが聞こえて来るだけだった。

まるでうち捨てられたレジャー施設の遺跡のようだが、私はこんなヒトケのない週末だけの現代の廃墟が決して嫌いではない。 

 

しばらく海沿いの道をぶらぶらと歩いてみると、白いペンキ塗りの板張り洋風の小さな建物に出くわした。きれいに手入れはされてはいるが建てられてからだいぶ経つのだろう。補修し塗り重ねられた跡が積み重ねてきた時代を感じる。

そこは昼は喫茶で夜はバーとなる店だった。 

 

客のいない店内に入り、ギニスを1パイント注文したが、1パイントで済むはずはなく、こんな時には車でこなかったことのありがたみを感じるものだ。窓から流れ込む適当にひんやりとして適当に湿って生ぬるい風に包まれて、軽い酔いに身を任せるのは、自転車で移動しているときの心地よさに似ている。

  

相変わらず曇って乳白色の空気に満たされたような外から、ゆっくりと目を店内に移すと、天井からは大きなガラスの球体がぶら下がって光を放っているのに気がついた。このなんともいえず変わったオブジェに見とれていると店主が言った。

「夏至ですからね。太陽に感謝しなくちゃ」 

オブジェは太陽の代わりというわけなのだろう。

ようやく私は今日が夏至の日、一年で一番昼の長い一日だったことに気がついたのだった。

 

なるほど、曇りで日の射さない夏至の日の過ごし方としてはこれも悪くない。

 

 

 

 


フグダ総理の主導するサミットは成果を挙げられない

昨日、官邸を出ようとしたフぐダ首相に突然走り寄り、
無礼な振る舞いをしたとされる男女が不法侵入と公務執行妨害で

身柄を拘束された。
 
実はこの二人とは未来人で、環境問題が主な議題となるこの夏のサミットを前に
首相に荒廃した未来からの忠告メッセージを伝えるために危険を冒して
タイムトラベルでやってきた者たちだったのだ。
 
未来においては中国発の大気汚染が全世界を覆い、

人類は喉鼻にダメージを負った結果、

呼吸器による声帯を振動させるコミュニケーションはできなくなって
しまっていた。このため人類はもっぱらの出口の方の振動、
すなわち放屁による会話を行うように進化を遂げていたのである。
 
人々が複雑な意思疎通を行うためには、放屁音をさまざまにコントロールすることが必要で、放屁に伴って股を開いたり閉じたり足を上げたり腰を回したりと、ちょうどラインダンスのような動作を伴うのが常であった。

つまり優美な踊りと放屁による会話が進化した人類のコミュニケーションの主役であるのだ。
 
未来人は大気汚染を過去の早い段階で最小限に留めるべく環境対策を提言するためにやってきた。そして首尾よく2008年にやってきた未来人たちはサミット議長国のフグダ首相に直訴を試みたのだが、彼らの必死の訴えはラインダンスしながら屁をこく下品なパフォーマンスだと思ったフぐダ首相にかえりみられる事はなく、
無礼な連中として袋叩きにあってしまったというのだ。
 
コミュニケーションの手段に問題があったかどうとか、異文化コミュニケーションの
困難性とかについてはここでは論じないが、
うわべの手段だけを見て、事の重大性を見抜けないフぐダ首相が主導するようなサミットに人類の未来が委ねられているとは、まさに憂慮すべきことである。


ラダンス  らだんす2 ふぐだ首相
直訴する未来人集団とフぐだ首相



時を得て存する生も死も経歴する尽十方界の一色である

もやまでは行かないが、体を取り巻く大気中に浮かぶ水の粒が見えるかと思うほど
たっぷりと湿気をはらんだ空気、6月なかば。

毎年繰り返す梅雨のただ中の光景。
こんな空気も天候も決して私は嫌いではない。

 

突き抜ける青空はなくとも、軽やかな風はなくとも、

たっぷりの水と気温を得た植物が旺盛な生育を見せ、

葉の上に下に、短い活動期を得た小動物たちが

生の営みを繰り広げるこの時期は
あふれ出る生命が地上を埋め尽くしているかのようだ。

 
ただ、人は時に盛んな生命の活動に目を奪われがちではあるけれど、
溢れる生命は溢れる死と同じところにある。

 

豪奢な花を咲かせる八重咲きの槿の花は一日で地に落ちて、

ちまちヌルヌルとした死骸に変わっては這い回るだんご虫たちの栄養と化す。
忙しくうごきまわる虫たちの踏む土は同じ虫たちの糞と死骸からなる。

旺盛な生命の洪水に見えた梅雨時の光景は生と死のモザイクだ。

こんな眺めを日常の肌身で知る私たちにとって生と死は対立して分け隔てられるものではないのは当然のことのように思えてくる。

 
形を変え循環する生命と、いつか繰り返される光景。

これを眺める私も同じわたしではないのだろうが、

その時々に得た感慨もまた同じように生と死の循環のうちにあって
巡り巡る世界全体のうちの一時の形態でもあるのだろう。

 
私の意識は全体世界の運動が生じた一時の歪みのようなものかも知れないが、
そんな私の意識は全体世界と境目無くつながって一部であるならば、

同時にその時世界の全部でもある。

 

湿ったの空気の中を泳いでは 意識が全世界と境目をなくして融けていく
梅雨時の散歩の快楽である。
 


あじさいの道

 

 

 


まもなく終焉が到来します

初めて緊急地震速報のホンモノを見た。
例の岩手・宮城内陸地震の余震によるものなのだが、「まもなく大きな揺れが来ます」というメッセージに思わず緊張して身構えたね。


震源から遠いところでもこんな状態だったのだから、すでに被災された方や震源近くの人の今も続く緊張と不安はどれほどのものであろうか。

それにしても破滅の到来がたかだか10秒前に知らされたとして、
人はいったい何ができることだろう。
  「まもなく核ミサイルが到着します。東京上空での爆発まで後10秒。
  9、8、7、6・・・・」
カタストロフを前に絶望のうめき声を上げるのだろうか、あるいはあれもやっておくのだったこれもやっておくのだった、あんなこともあったこんなこともあったと
記憶が走馬灯のように駆け巡りカウントダウンが終わる・・・。

もっとも個人的なレベルなら人生の破断、終焉はいつやってきてもおかしくはないのは誰しも同じことだ。誰しも残りのわからないカウントダウンが続いている。
それにもかかわらず私たちは永遠に生きるかのように振る舞い何も考えずもっとも貴重な人生資源である時間を放蕩しては省みることがないだけのことだ。
 
どうせ、遠くない将来に必ず訪れる終焉までのひと時は笑って過ごしたい。
笑って過ごすと決めたらそのために行動しよう。

それは今このときしかないのではないか。


石榴の花

古く懐かしい風景と、変わらぬ人の心

時々、どこか懐かしい昔を舞台にした物語に惹かれ、安らぎにも似た感情を見つけようとして時代小説や古典を読むことがある。たとえばこんな本。


ロッティー 『ロッティー、家へ帰ろう』 テリー・ケイ / 新潮文庫


時代は、世の中も人もまだ純朴だったころの100年前のアメリカで、職業野球のマイナーチームを解雇されたベン・フェルプスと、天使のような美女ロッティーの二度の出会いと事件・秘密を中心に物語は展開していく。
  
ベン・フェルペスは野球選手の夢破れて故郷に戻り、華やかさとは無縁にひたすら地道に働く青年であり、仕事・友人・家族・世間が彼の人生の織り糸だ。
またロッティーは静かな薄幸の美女として描かれるのだが、彼女は代償を求めることなくひたすらただ静かに与えるだけの愛情の象徴でもある。そしてそんなロッティーに巡りあった人々は大きな感情の起伏が生じることになる。
 
この二人を軸に登場人物が出入りしてそれぞれの人生の物語が進行していくのだが、人生とは巡り来る感情のうねりによって彫り刻まれるらしい。わたしたちは喜びや精神の高揚を感じるときに人は生を実感するとともに、痛みや苦しみが人生の陰影を作り出すに避けられない要素である事を物語が描く時に、リアルさと共感を覚えるものだ。
   
そしてこの物語もまた空疎な善人の登場人物たちの楽しいだけの単線ストーリーではなく、苦も楽も迷いもある人生のあらゆる局面に、誠実に向き合う人々の物語である。そしてこの物語を美しい心温まる物語と感じることがあるならば、それは人生の波風を恐れず、愛するべき人を愛し、自身の本来の心素直に向き合ってひたむきに生きる人々を描いた物語だからだ。
 
時代ともに現代の世の中の仕組みは複雑なものになってきたが、一方できっと人の心とは昔と変わらず素朴なものなのだろう。だからこそ昔の物語にも人は同じように感動できるのだし、本書の作者が物語の舞台に古き良き時代のアメリカを選んだ理由もそこにあるのかもしれない。

現代の私たちが向き合う技術や情報は最新鋭でも、存外私たちの心とは昔ながらの旧式のものなのだ。その上、私たちは仕事に追われあふれる情報や変化する価値観に翻弄されてはそんな自分自身の心を扱うことにおろそかになっていることがある。


古典や古い風景の中に展開する物語に共感できることとは、その風景の中にある心と同じままに古い心が自分の中にもあることに気づき思い出すことでもある。


古い風景に思いをはせることは、私たちがみなそれぞれに古びて傷みやすい心を持っていることに気づくことでもある。

 

 

 

  

 




 




梅雨の晴れ間

いつの間にやら梅雨入りして迎えた今年の6月二度目の土曜日、梅雨の晴れ間の街中を歩いてみると、緑は新芽の頃の淡い色の頼りなさがようやく濃く落ち着いてきたようだ。
それでもまだ真夏ような日向と日陰の濃いコントラストをつくる濃緑までには至らず、草木がみずみずしさをたたえて伸びやかに葉を広げる今は植物の生育のハイライトなのかもしれない。
 
実はこの日はしばらく音信のなかった古い友人と3,4年ぶりに会ったのだけれど、音信がなかったのもそのはずで、ここ1
年くらいの間にガンが見つかって入退院を繰り返していたのだと聞いて驚いた。まだ若いうちのガンだから転移や再発の懸念もまたあるのかもしれないが、本人はあっけらかんと明るく、酒を飲んで冗談を飛ばすその姿にはまったく不安は感じられなかった。
 
「はっきりしたことは教えてくれないんだけど、たぶん大丈夫だと思うんだよね。」
自身の中で何か確信めいたものがあるような口ぶりに、いつか私もきっとこいつは大丈夫なのだろうという気分になった。
根拠はないのだけれど、自分の内なる声に従って自分で自分をコントロールしているように見えた友人は、ストレスのかけらも感じられなかったばかりか、一緒にいる私まで日頃のストレスを忘れて晴れやかにしてしまったからだ。
 
実際、いつも仕事や世間の軋轢に追い立てられて突き転ばされては汲々として、しわくちゃになった心を引きずって歩いている私たちは、自分の意志で自分の生活をコントロールしているとはいえない場面もまた多い。社会的な自分を生きるがために本来の自分を忘れてしまいかけていることのなんと多いことか。


社会にへつらわない自分的な自分。自分の実感に率直に生きて、自分の心の声に従って行動することは即ち自分の生を自分でコントロールすることに違いない。これができている友人はきっと自分の病気もコントロールすることができることだろう。

  


しばしの歓談の後、まだ明るい暮れ時の街中で次の再開を約束して別れた。
街中は相変わらず人も車も多過ぎたが、梅雨時の緑を抜けて吹き寄せる風は生気に満ちて心地良かった。

 

 

 

 

じゃんばら屋の春

衰退していく町というものは、あきらめに似たような静寂さとただひたすら時間の経過を耐えているような様相を見せる。うちの近くにも大資本のショッピングセンターに客を奪われ、衰弱死を待つような商店街があるのだが、ここでは季節の動きすら鈍く、春すらよけて通るような町並みを歩くのはそれだけで気が滅入るものだ。

 

ここ十年ほどの間にすっかり歯抜けになってしまったそんな商店街の一角にジャンバラ屋という古着屋がある。
錆びたシャッターのおりた店舗跡にはさまれて、店の外まで商品の古着やぼろがあふれ出した店の様子は異様な迫力があって、店を訪れる客もまた一風変わった風体の客が多い。アメカジが主体の商品は店主が直接海外で買い付けてくるので、品質は一定しないものの、国内だけで回っている店とは品揃えが一味違うのだそうだ。

 

店主というのは五十台半ばと思われる男だが、いつも70年ごろの映画から抜け出してきたような姿をしている。天頂の薄くなった長髪にバンダナを巻き、ベルボトムのジーンズに花柄のような派手なシャツというのがお決まりの格好だ。きっと30年以上そんな格好をしているのだろう。
  
この店主がどうしたことかこのほど結婚する運びになったらしい。 相手はこれまたどうしたことか30くらいの美人で、店主に上を行くアメリカかぶれじみた格好をしている。
  
彼女の意向によって、近隣の店舗跡を買い取り、海外からの若い旅行客を受け入れる安い宿屋をやりたいという話を聞いた。ユースホステルのようなものなのだろうか。
  
資金やなにやら開設準備が整うまでしばらくは古着屋をやっていくようだが、気の早いことに派手なホテルの看板がもう掲げてられている。 準備や改装やら雑誌の取材やらのために頻繁に人が行き交うようになったこの通りにも華やいだ話題と眺めが戻ってきたようだが、それにしてもこれもまた衰退する商店街がグローバリズムという価値観の混交を乗り越えていくひとつの回答なのだろうか。
  
とにもかくにも古着屋にもこの商店街にも、たしかに遅い春が巡って来たようだ。 

  

 

 

雨粒の向こうの景色を眺めに出かける

散歩が物思いに身をゆだね自己の内面と出会う機会なのだとしたら、雨の日にこそが本当に散歩らしい散歩ができるのかもしれない。

雨は自分と外の世界との緩やかなベールとなり、外界からの干渉がやわらいで、あるものすべてが内向きになるようだからだ。そう思って眺める雨の向こうの景色は確かにまるで別の世界で進行する出来事のようにも見えてくる。

  

このところ雨の日が多く、好むと好まざるとに関わらず傘をさして歩くことが多いのだが、今日も水の粒が空中をふわふわと舞っているような雨の中を散歩に出かけた。行き交う人も車も少なく、住宅地や畑地、寺社や公園の新緑をまとった木立から木立をつたって歩くのは、手軽でささやかな森林浴でもある。目と鼻で吸い込む緑の空気は気分を軽く前向きなものに変えてくれる力があるようだ。

  

ただ、降り出した雨はいつか上がり、しばし夢うつつの境を遊歩した時もいつかは終わって現実に引き戻されるように、散歩が終わる前に雨が上がってしまったときの直後の空気が私は苦手だ。これは雨が乾くようにひりひりとした現実に戻るのをせかされるような気分になるためかもしれない。

  

実は今日も散歩の途中でいつの間にか雨は上がってしまい、しぶしぶ雨傘をたたんで帰ってきたのだが、途中またパラパラと降りかかるものがあった。見回すとそれは雨の後に吹き出した風に乗って舞うアカシアの花が道を明るく染めていたのだった。


花降る道


今日は苦手とする散歩の途中に雨の止む事態に遭遇はしたのだけれど、こんな花降る道を歩く雨のお話のエピローグがあるのなら雨上がりの道もまた、悪くはない。


 

 

 

 

  

 



占い嫌い

  『金運・恋愛運とも好調な一日ですが、ついうっかりの一言に気をつけましょう。思わぬ敵を作ることがあります。ラッキーカラーは錦色。』

毎日乗る電車には全てのドアの上にカラー画面がついていて、四六時中列車の運行情報やTVコマーシャルを流している。満員で本や新聞も広げられないときや手持ち無沙汰なときには、ろくな情報はないとわかっていつつも目が行ってしまうものだ。
 
そんな画面の情報に天気予報などと並んでよく見かける占いなどは、クズ情報の極めつけではあるが、いつまでたってもなくならないところを見ると、よほどみんな占いがすきなのだろう。電車の中というのは、画面の情報だけでなくつり革広告や、窓から見える広告塔、自分や隣の人の本や雑誌、ラジオやオーディオプレイヤーなどなど、ほとんどが無益な情報が溢れては流れ去っていくようなところではあるが、その中でもまた無益の上に役立たずの「今日の占い」などというのは、まるでゴミ情報のどぶ川に浮かんだフンカス泡のようなものである。
 
占いのご宣託の文字が並んでいる間だけ人は小さく一喜一憂し、文字が流れ去れば記憶も印象も次の情報やもっと現実的な思考にまぎれて消え去ってしまう。これはまさに情報のあぶくである。
 
  『今日のあなたは思いもかけないラッキーが続いて、仕事でも恋愛でも一目おかれることになるでしょう。ラッキーアイテムは電気あんま。』
 
A君は、毎日当たり外れの統計をとって、どうせ有意な結果は出ないだろうけれど、情報を流している鉄道会社の広報室にでも送りつけてやればいいともいう。
「そうすればさ、しょうもない情報がなくなって、有益な情報が載るようになるかもしれないし、そうでなくとも、誰も気にも留めないと思っていたごみ情報の発信者が、思わぬ反応を得て手ごたえとやりがいを得るかも知れない。」

   

送りつける評価とは、たとえばこんなふうになるのだろうか。

「・・・貴社の毎日掲示する本日の占いを三ヶ月間毎日読んだ上、助言は全て実践してその結果を採点してみました。その結果占いの的中率は16%で、わざわざ覚えておいて行動に役立てるに値しないという判定になりました。

はっきり言って良識と社会的責任のある貴社が無益な上に人を惑わせ有害にも
なりかねない情報を垂れ流す意図がまったく理解できません。

直ちに無益な占いの掲示をとりやめ、公器としての立場と責任を自覚した行動をとるよう強く希望いたします。」・・・

  

さて、くだんの会社からは返事はあるだろうか。
まあ、占いなんてその場限りの気晴らしか、あるいは馬鹿と貧乏人をたぶらかして
金を巻き上げる手段だからねえ。。。

今を生きることの奇跡

人は金や物には自分の取り分を声高に主張するものだが、時間については無頓着なことが多い。金のことならたとえどんなに小額でも小銭ひとつ落とせば血相を変えるのに、ことが時間となると、無限に所有するかのごとく惜しげもなく垂れ流し、放蕩して平気である。

 

時間を‘つぶす’ためにパチンコやテレビにかまけては日常的なだるさに身をゆだねる。。。
将来に期待できることも確かでないのに、だらだらと付き合いで残業して疲れ果てては、無気力に過ごす。。。 
それでも明日のことなどわからないとうそぶく人間にも、ただひとつだけ確実な未来の真実がある。それははいずれ死が訪れるということだけだ。

  

徒然草の例を引くと、こんな言葉がある。

 

  「若きにもよらず、強きにもよらず、おもひがけぬは死期なり、

  今日まで逃れ来にけるはありがたき不思議なり」

 

これは年寄りの兼好法師らしく、視点が現在から過去を眺めやる形での警句であるが、同じようなことの、別の言い方に出会った。

 

  「明日が来るというのは奇跡。それを知るだけで日常は幸せ」

 

命ある時間の希少性、を現在から未来への視点において語るこの言葉もすばらしい。ほんのすこしだけの未来を、あとすこしだけの明日をと、望んでもかなわず24歳という若さで癌のため亡くなった女性(余命一ヶ月の花嫁としてTBSの特別番組にもなって今日も編集版を何度目かの再放送していたのでご存じの方も多いことだろう)の言葉である。

  

視座は違ってもどちらも今日いまここに命あることの貴重なこととを伝える点は同じだ。


人生においては無限の時間を望めない。 私たちにできる最善のことは、明確な意識に基づいて今ここを生きることだ。過去に引きずられて今日を失うことではない。明日に期待して今日を放棄することでもない。