田園生活
なにやらこの連休の後半は毎日雨が降る。たしか連休前の気象予報はほぼ毎日良いお天気に恵まれてお出かけ日和が続く・・・とか何とか言っていたような気がするのだけれど、結果は大ハズレ。こんな事なら、天気予報は今後いっそのこと、気象漫談とかお天気占いとかいうバラエティーのネタ番組と言うことにしたらよかろう。
少なくとも自称気象予報士とかうエラソーにして中身無さげな連中が「予報が変わりました」とか「統計的にGWは雨が降りやすい」とか言う前に、「予報が外れて申し訳ありません」と詫びの一言を言っても良さそうなものである。
ただ、連休に雨が降るのは分かっていたことで、レジャー産業とか連休の人出を当て込んだ広告主に配慮した晴れ予報だったという可能性もあるのだろうが。
もっとも、私は昔運動で痛めた肩の古傷の傷みで雨を予見していたうえに、特に天候に左右される予定もなかったので何ら実害はないのであるが。
元来が人混みの嫌いな私ではあるので、特に今日などは神気たなびく南山の麓、人跡希な樹叢に分け入り、蝸牛の庵に座した・・・つもりで、ベランダにテントをはって読書をしていた。
こうした行動を秘密基地かと軽薄な判断をする輩もいて驚いたが、それはそう判ずる当人の頭の程度を物語るのであろう。前にも書いたが私の場合はインスタント遁世、俗界の脱出である。
またある人はコレを田園への憧れかと問うたのだが、なるほど、それは一理有るのかもしれない。
世間一般に、田舎暮らしへの憧れというものは今に始まったことでないが、近頃も個人の田舎暮らしをサポートする本や雑誌、NPOなどをよく目にする。
だが、田舎暮らしとは大方にとってあくまでも憧れの域を出ないし、めったに実現することはないが、たまに成功例を目にする程度のものだからこそ、本や雑誌の商売があるのだともいえるだろう。
ときどき田舎暮らしこそが暮らしの正解のすべてのような発言を目にするが、そこにウソ臭さはぬぐえないとみんな感じているはずだ。田舎暮らしに憧れる者はそこそこ多いが、無条件に田舎暮らしを賛美する者は極めて少ないことがそれを証明している。
田舎の風習だの人付き合いだの言う以前に、だいたい経済的にも文化的にも田舎が近代社会を支えることはできないし、近代の人口と暮らしを引き受ける力はまったくない。だから、田舎から都市部への人口の移動は止まらないことをみんな知っているのだ。
とはいえ、田舎暮らしに都会にない大きな魅力があることも動かせない事実だ。そこで経済的にも文化的にも近代の様式を捨てられない私たちが現実的に考えるべきは田舎への転居の方法ではなくて、日常の暮らしの中に田舎暮らしの要素と都会で暮らす要素の混交とバランスを考え出すことである。
今後は私も普段の日常生活のなかに田舎暮らし要素を取り入れてみようかとも考えたりはするのだが・・・。
(注:この場合の田舎暮らしとは、単純に地方の暮らしということではありませんので
念のため。人里離れた山奥とか離島とか昔風とかいう、まあそんな・・・)
人生は幻花に似たり
ゆっくり過ごすというのもまた技術や才能が要求されるものなのかもしれない。
処世は大いなる夢の如し
何すれぞその生を労するや (by 李白)
誰よりもゆっくりするとか悠然と過ごすとかいうことに憧れては詩句の引用などをする私ではあるのに、ゆっくりするのが下手だねと指摘を受けることもあったりする。
これはつまり、普段仕事や世間の雑音に溺れる毎日を過ごしているので、オフの時間くらいは俗塵のしがらみを洗い落として悠々と自由に心を遊ばせることに憧れるのは当然であるのだが、一方で、いざそのオフの間に至っても、雑音に過剰適応したわが身は雑音に対処するのと同じリズムで自由な時空に向かおうとするから
あくせくした調子を脱することができないということなのだろう。
オンとオフの切替とは仕事を遊びに切り替えるような、実行する事柄を変えるだけのことではない。外の事柄を処理していくだけなら仕事が仕事でない事柄に代わっただけで、仕事を処理していたのが、遊びを処理しているだけに代わっただけに過ぎない。
オンが社会的な自分として外の事柄を始末する時間であるのならば
オフは個人的な自分として内の事柄に対応する時間であらねばならないものだ。
自分を忙しさに追い込んで空っぽの自分から目をそむけているのもまたひとつの楽な生き方ではあるけれど、それではいつまでたっても社会に便利に使われる社会的部品であるだけだろう。
レジャーやショッピング、本や遊びの情報は溢れていて、絶えず私たちの中に流れ込んでは意識の内に雑音の渦を作っているけれど、この流入を一度断ってみるのもまたいい。
外から流れ込む水で濁った自分というコップを、一度流入を止めて空にしてみれば、きっと素のままの自分の新たな今が満ちてくる。
時には怖がらずに何もしないことを楽しんでみよう。
自分という景色を眺めに出かけてみよう。
解脱機械
ゴールデンウィークで浮かれているが、うちの会社の発表間近だった新商品に欠陥が見つかり、私も休日返上で対応に当たることになった。連休どころか満足に寝る間もない。 新商品とは人間の欲望をもコントロールする画期的な機械・・・になるはずだったものだ。 もう発売の目処も立たなくなったのだから少々のリークも問題ないだろう。それはこういう事だ。
発想の根本は人間の苦を解消しようというところにあった。つまり、人間の「苦」とは、人が欲に突き動かされる存在でありながらその欲がめったに満たせないことによるのだから、欲望の対価を供給することができれば人生に苦はなくなるはずだ。もちろん欲求には物質的・精神的なものがあるが、この充足感を感じることにおいては脳神経の受容体へ「満足物質」を供給してやればいい。従って、わが社では満足物質の抽出と、これを供給する機械を体内に埋め込んで人の欲望をコントロールするシステムを作り出すことに二年前に成功したのである。すなわち「満足機械」の登場である。
もちろん世の中には様々な人がいて、平穏な通り一遍の満足に達したい人ばかりではないから、この装置の応用版として、「興奮機械」、「妄想機械」、「官能機械」や「絶頂機械」などなど、人間の欲望を様々な形で満たしてくれる装置も次々に開発された。ところが人間というものの業の深さは予想以上で、満たされた欲望の先には次から次へと新たな欲望と不満の地平が開けてくるという有様だった。せっかくの満足機械も欲望を追いかけるいたちごっこを重ねるだけだったのである。そこでついにわが社ではこのたび全欲望を統合して平安な境地に達することができる究極の装置の開発に成功したのだった。これを装着した人はあらゆる苦と欲望を離れて、常に穏やかな境地にいることができるのだ。すなわち「統合満足機械」である。
早速モニター被験者を募り、これを装着て効果の実証が始まったのだが、発表間近に困った事態がおきた。装置をつけた人間はこの上ない安心と平静な境地に達するのだが、すべてを悟りきったように満足はしたものの、やがて自らの意志で生命活動を停止して”昇天”してしまったのである。装置には人体に害悪のある欠陥はまったくないことは明らかだ。いったいなぜなのか原因は今もってわからない。ただ、これは推論だが、彼らは欲得を離れて業を脱していわゆる涅槃の境地に至ってしまったのではあるまいか。業や煩悩の渦巻く六道から離れてしまったのではないだろうか。きっと究極の満足機械は「解脱機械」だったのであろう。
こうして、満足機械はお蔵入りとなって、発表の目処は立たたないまま研究員だけが引き続き調査に拘束されているのだ。私のゴールデンウィークはハワイも温泉もショッピングもみんな無しで絶望状態だ。こうなれば自分に満足機械だか解脱機械だかを装着するしかないのかも。。。
もうGWですよ、どうするんですか何も予定がないのに、ゴールデンですよゴールデン
それにしてもゴール・デン、ってすごい言い回しだなあ。
ま、とりあえず前祝に一杯やるか。
というわけで渋谷の駅前で待ち合わせをしていたら、相手からメールが来た。
「事故で電車遅れます。しばらく舞っていてください」
え?これは仕方がない、仕方ないので踊りましたよ娘道成寺。
恥ずかしかったなあ。
そういうわけで、GW歌舞伎を見に行こうという案もあったのだが、
ただでさえ人ごみの嫌いな私の信条に反する行為であるので、却下。
高速も新幹線も混むので遠方の行楽地にいく選択肢などはなからない。
柔らかな青葉茂り、明るい陽光降り注ぎ、花の香の吹き寄せるこんないい季節、
あくせく消費的レジャーに人生資源を浪費することはないのだ。
仕事に追われ、あふれる情報に突き転ばされて、青息吐息で世間に遅れまいと
がんばる日常を離れて、悠々と心を自由に遊ばせることこそ
本当の余暇というものだ。
余暇にまで、世間のどたばたに付き合うことほど愚かしいことはない。
そこで緑の上を吹き渡る風にのって
新しい草の香りが吹き寄せてくる景色を想像しながら
楽な連休プランを考えてみた。
ご近所小旅行 (レベル1)
早起き散歩のかたわら近くのファミレスで外朝、無料配布のタウン誌を見ながら
商店街や公園めぐり、昼食はこだわりの老舗店舗へ。
夕方にはいまや都内近郊に多数あるスーパー銭湯(温泉)でゆっくり、
酒も飲んで帰る。
いつも家と会社の往復であまり接することのない、やや近所~ちょっと遠くを
ガイドマップ片手に観光気分で歩き回れば、いろいろな発見と地元のよさを
見直すことができるというもの。
ママチャリで超近距離ホテル (レベル2)
さらには普段決して泊まることのない地元のホテルに一泊するプランもあり。
自転車距離で一泊なんてありえないので新鮮なうえに楽チン。
自宅でキャンプ (レベル3)
すでに何度かこのブログでも取り上げているが、庭、もしくはベランダにテント。
気分はもう山奥に草庵を編んだ隠者。読書をし、歌を詠み、瞑想をしてすごす
大人の趣味。雨降りの日がお勧め。
夜雨、草庵の裡(うち)
双脚、等閑に伸ばす (by良寛和尚)
脳内仙境 (レベル4)
俗塵を離脱した先賢、陶淵明だの蘇東坡だのにしても始終山を眺めたり
竹やぶでボーっとしていたわけではないだろう。
銭の勘定や、家族の揉め事に煩悶とすることもなかったとは思えない。
結局、ゆっくりしよう、心のどかに過ごそうという気分があれば、
日常の生活のリズムの中にさまざまに俗界を脱した境涯は見出せるもの。
これを自在に駆使して満足できれば閑暇楽しむにおいての上級者。
さて、ゴールデンWにこのうち二つはやろうかとかと思う私ではある。
散歩にまとわりつく淡い思考という苦と楽
車や不機嫌な顔をした人間の多い人混みを避けて散行するのは私の快楽である。
永井荷風が散策についてこんな事を言っている。
私が郊外を散行するのは、、、、自分から造出するはかない空想に身を打ち沈めたいためである。平生胸奥底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰謝にしたいためである。 唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の欲情を禁じ得ないのだと云うより外はない。
なるほど散歩の魅力を能く伝える言葉である。
ゆっくりと変わっていく風景に身を浸し、次々と浮いては消え流れ去って行く様々な想念に身をまかすことの快楽。だが、同時に人は自力で歩いてみることで自分自身の様々な面を知るのではないかとも思う。
足の力みならず様々な感慨、先々の幸不幸までと云うのは大げさだが、歩んできた人生の重みと軽み、楽しい思い出と悔恨、足に溜まる疲れから見通す残された体力や、今あるただ素のままの自分が見えてくるだろう。
大人になって散歩の魅力を知ったことは、いずれ将来老境にまで至ることがあったら、その時までも続く楽しみを発見したことだと思っている。
by Tove Jansson
耐え忍ぶ自由と孤独
これまでこのサイトでもしばしば孤独のポジティブな効用を述べてきたことがあった。
簡単に言えば、仕事や雑事に追われ社会的自分を生きる私たちは、
孤独にあって初めて社会の都合による自分を脱し、自分的な自分、つまり
自分本来の心と向き合うことができるようになる、ということである。
仕事や世間に突き転ばされそうになった自分を離れ、ただひとりあることが
本来の「自由な」精神の発露を見据える時間となるということだ。
だが、こうした自由というのは一見甘美な言い回しであるが、簡単なことではない。
小人閑居して不善を為すという言葉があるように、凡人が無為の時に浸ると
ろくなことを始めないということはわが身に照らしてもよくわかる。
なまじ半端な自由な時間などができると、悪いことなどには至らなくとも、
ぼんやりとテレビや雑誌のゴミのような情報にもてあそばれて、
あっという間に時は過ぎ、結局はまた
中途半端な不満と時間を無駄にした悔恨だけが残っていたりするものだ。
夏目漱石の小説「門」でも、役所勤めの主人公が、
勤めの平日における暗い精神作用からつかの間解き放たれた
せっかくの休日を、何かつまらないことに費やしてしまうのがまた惜しくて
結局ろくなことも為さずにだらだらと過ぎてしまうような場面があるが、
まさに凡人の日常の断面を見事に表している。
つまりは孤独における自由とは、自分を律する確固たる意思がなくては
かえって毒や牢獄にもなりかねないものだということである。
そう、自由というのは自律的な行為なんだよ。
で、昨日の休みはというと・・・えーと、自発的に酒を飲んだ。
それで自発的に昼寝した。。。 (爆悔)
ソーリの深い悩み
フクダ家は呪われた一族と呼ばれている。
そもそもの始まりは子供の頃フクダとオザワの学校でトイレの順番を巡るトラブルだった。小便の順番争いに敗れたオザワはズボンをはいたまま失禁に至り、これが元で遊び仲間のグループから離れて別のグループを作ることになってしまって以来、
フクダへの恨みは根深いのであった。
便所の奪い合いに破れて小便をもらしたとき、オザワはフクダに呪いの言葉をかけた。
「でーぶ、でーぶ、ひゃかんでーぶ、おまえのかあちゃんでべーそ、
おまえもやっぱりでべーそ。お前ら一家みんなウンコしてしんじまえ」
この呪いによって、父のタケオは便座を跳ね上げた便器に誤って座り、はまった尻が抜けずに発見まで三日、人知れずウンコの中で死んでいた。
父タケオの後継と目されていた長兄のシゲオは勤めていた省舎の門前にひり捨てられていた犬のウンコを踏んで転倒し打ち所が悪く夭逝した。
次兄のイクオは賄賂性の高い接待の宴席で山海の珍味に豪奢の限りを尽くした挙句食中毒を起こしウンコが止め処もなく出続けて亡くなった。
さらにフクダがグループの親玉になって以来、オザワの呪いはさらにインピさを
加え、周りからじわじわとヤスヲ本人を締め付けている。
最新鋭のイージス艦は実は半分以上のトイレが故障し流れなくなって、みんなが残ったトイレに行列を作っているうちに見張りがおろそかになって事故った。オザワとうわべの和解を図った大連立構想は破れ、子分は身の不始末でつかまり、新しい子分をニチギン隊長に任命しようとしては拒絶された。
このところフクダは神経性の下痢でちびることが多くなった。ただでさえ不人気なのにこんなことをマスコミにかぎつけられるわけにはいかない。ますます緊張と苛立ちの高まるフクダである。
追い込まれたフクダはオザワを前にして愚痴を叫んだ。
「苦労してるんですよ、もう本当にかわいそうなくらい苦労してるんですよ」
不祥事は相次ぎ、法案は通らず、みんな(有権者)に受けるパフォーマンスもできず、次にウンコをもらしたらのがばれたらもう負けだ。 だから仕方なく四月に予定していた外遊も取りやめ、官邸のトイレに引きこもる事を決めたフクダだが、いつまでも我慢はきかない。このまま当分フン詰まりの状態が続くか、一気にたまったブツを大放出して局面が打開されるのか、みんな固唾を飲んで見守っている。
安全でおいしい安価な食卓がもうすぐ実現
いまさらまたと思われるかもしれないが、スーパーやコンビニの棚を見ると一瞬目を見張るものがある。 カップ麺が一つ168円とか云うのには、あれ?ジャンボサイズじゃないの?とか目を疑ってしまう。 食料品の値上げがはっきりと見てとれ感じるほど顕著になったということである。
日本の食料自給率は40%に満たず、食糧安全保障の面からいえばこんなぜい弱な国はないだろう。 嘆くべきはこれまでの貿易政策の無策である。 一度下げてしまった食料自給率がすんなりと回復する妙案がありそうでもなく、私たちは毒菜の恐怖におびえつつ、安いだけがとりえの食物を食べ続けていかねばならないのだろうか。
とにかくこの国に自力でまかなえる食料を増やすしかない。しかも早急に。
当然そんなプロジェクトが政府主導で進められているのだが、過日都内で内部関係者向けセミナーがあってオブザーバ参加する機会を得たので覗いてみた。
するとなんと日本には世界に誇るべき栄養資源がほとんど手付かずで放置されているというのだ。この食物資源を食品化して流通させるだけで日本人の必要カロリーの30%をまかなえるというからこれを利用しない手はないだろう。
実はその食物資源とは主にネズミとゴキブリであるのだが、ネズミとゴキブリは栄養価が豊富で意外に美味で、ネズミの汁のうまさとゴキブリの香ばしさはみな病み付きになるらしい。その上消費需要の多い人口の密集した都会ほどとんでもなく多いという分布特性があるから、食料調達にはうってつけなのだそうだ。
注:禁帯出の缶詰をこっそり撮影。東京/渋谷のクマネズミらしい
衛生面の問題もクリアする調理加工技術はすでに確立済みで、あとはこの食品化に反対するネズミーランドや黒虫愛好家団体との調整が終われば、ゴキブリやネズミが日本の食卓に並ぶ日も遠くないのだという・・。そのとき東京都心は世界有数の食料供給地になるだろうといわれている。
日常食としての普及はまだ未知数だが、有事の際、海外からの食料供給が断たれたら、間違いなくみんなネズミとゴキブリを食うことになるのだろう。
あるいは穀物をはじめ輸入食材が値上がり続けば、パンや麺は高級食材となって、一般庶民向けには「ネズミやゴキブリは安全でおいしい食材です」とか「貧乏人はゴキを食え」という政府スローガンが掲げられることになるのかもしれない。
経済政策を優先して長年食糧自給を怠ってきた、これも因果である。
柳のある店で
私のお気に入りの中華料理店には、店の前の狭い地面に大きな柳の木が生えている。葉の落ちた冬の間はひっそりと目立たなかった木も今頃の時期になると急速に芽を吹いて、柔らかな葉をまとった枝が風になびくようになる。
それはまるで店前にあって客を招き入れるかのような姿態にも見えて、私などはこの誘いに負けてふらふらと寄り道してしまうということもないわけではない。
店自体も自家製の紹興酒と四川風の料理は日本人にも合うようによく工夫され、明るい店内ときれいな調度品は少し昔の上海近郊への小旅行気分も味わえて、気の合う仲間内ばかりかデートにも使える便利な店だ。
二階の窓から眺める柳の向こうに枝葉を透かして街の通りが見下ろせる。行きかう人とネオンをふちどる緑の葉は春から初夏の控えめさがいい。 夏は緑一色しか見えず、冬は葉の散った枝がさびしすぎる。 育ちきらない初々しい新葉は、この先の重苦しい濃緑も落葉も知らず何の煩いもなくただ茂ることだけを考えているかのようだ。
新芽のゆれる柳を眺め、無条件に若さが愛されるのは人もまた同じか、と思わずつぶやいたところ、向かいに座っていたR嬢が言った。
若さなんてそれだけでは価値少なく、老境こそはわが憧れなり。
柳もまた葉の散りつつしだいに木枝があらわになる晩秋が好き。
うら若いR嬢から発せられたその言葉に思わず軽い動揺を感じた私は適当な返句が思いつかなかった。 ただ、R嬢もいま少し年が行って青年の部BやCに至れば、またその先老境とやらにいたれば、きっと感慨も変わってくるのではないかと考えるのは、単に青年の部Bのひがみなのだろう。
そう感じた私はR嬢への明確な反論はあきらめ、少々視点を変えて論調の合流する地点を探ってみた。
「巡る四季に応じてその時々に柳の葉が多様な表情を精一杯演じるように、
いかなる年代においてもその時期そのものを愛でるのは人の楽しみでもあり
義務なるべし。
そう思えば今日この時を楽しまないのは人生の怠惰なり。
君にあっては青年の部Aを楽しみ、私は青年の部Bの分を知って
これを喜ばん。」
柔らかな風にゆらゆらと揺れる青葉を眺め杯を傾ける春の晩は、
ゆるゆるとゆっくりと時間が過ぎていったのだった。
花のあとの風
ソメイヨシノやサトザクラを中心とする花見の季節は終息して、
すっかり賑やかさの去った木立は柔毛のような新芽が日に日に濃さを増している。
花後の清々とした緑の好きな私だが、
本来の静けさを取り戻した樹下を訪れてみると、
散り落ちた花びらは誰にも省みられることなく踏まれ蹴られて、
しだいに地面とおなじ色に同化しつつあった。
こうしてまた新しい季節が巡って来て、また季節の移ろいを嘆じて、
また来年を待ち焦がれて、仕事に追われ生活の組み立てを考えるなかで
気がつくときっとまた同じことを繰り返していることになるのだろう。
こんな私たちは、何かになるために、どこかに至るために、
毎日を通過していく過程であると勘違いしていることがあるのかもしれない。
よい学校へ進むため、よい仕事にありつくため、よりよい地位を得るため、
出世・昇格・昇給・出世・栄達・・・どこか絶対安心安全確実な立場にたどりつくため、
私たちは今を次のステップのための踏み台にして、
今を我慢してやり過ごし続けては、
過ぎ去った記憶に執着しまたあてのない未来を夢想している。
だが花の前、花の盛り、花の後、
どれも通過すべき過程でもなければただの後始末の場面でもない。
人もまた眼前の一歩、一手、一息ひといきごとが
まさに遂行されるべき今であり、唯一捉え得る生のリアルだ。
つまり「よい人生」とは何かに至り完成された状態のことではなく、
日々絶えず解決されるべき課題であるのだろう。
明るい日を浴びた公園に立つと、私は花の散りばめられた地面の上を
風に乗って吹き寄せてきた草の匂いに包まれた。
そこで丁寧に一息一息を呼吸すると、私の中にもまさに今が満ちてきたのだった。

