酒とホラの日々。 -34ページ目

日曜の逆転劇

土曜の晩にレイトショーがはねた後、同伴したB女と都内のバーに寄ってきた。
映画は「ダージリン急行」とか言うインドが舞台のロードムービー。
エキゾチックな映像となかなかのキャストに期待は大きかったものの
主人公の男三人のヒステリックな行動が意味不明、ついて行けない、
これは脚本の失敗

 

ともかく腹も減ってはいたが、出来映えに納得の行かない映画に欲求不満が募り、
はけ口は酒と肴に向かってしまったようで、深夜の飲酒は
翌日のスタートに深い影響を残してしまったのだった。

 

起きたら昼。
むかつく胃。
何もしないで休みが過ぎていく焦り。
 
ああ、何も手につかない、降ったり止んだりのはっきりしない天気では
外出もおっくうだし、ぼんやりした頭では何かを読んだり書いたりする作業も
手につかない。

 

ああああ、昼飯食って新聞読んでぼけーっとバカテレビに引きずられていたら
たちまち夕方が迫る、でもいいんだいいんだ、何もしない一日も
贅沢な大人の休日の味わいというものよ、嘯いてみたものの、 
やっぱり自分へのふがいなさと損したような感覚は
私が根っからビンボー症と言うことなのでありましょう。ちぇ。
 
とか言っているうちに、さらに無為の時間は進んで
町内の公園に立つ役所の放送スピーカーから音楽が流れ出す。
 ♪と~おき~や~まに~日ぃ~は落~ちて~~
あれは17時の合図だ、よい子はうちに帰りましょう。

 

B女はいっこうに平気なようで悠然としているが、その様子に
文句の一くさりも言いたくなるところ、ぐっとこらえて何か前向きな
今日の挽回策はないかと考えてみる。
うう、でもどうするよ、オレ。
 
するとB女が言った。

今日の夕食はサケのパイ包み焼きとホタテのソテーでいい?
おお、いいねえ、それじゃ私は今日の酒は雪中貯蔵の吟醸酒を開けようか。

 

一転して不機嫌も焦燥も吹き飛ぶひどく単純な私。
ははは、散歩も運動も、読書も物書きもだめでも、私にはまだ酒があったのだ。
野球は9回まで、今日は24時まで有るんだ。これで本日のゲームも一打逆転なり。
 
楽しい食事で毎週の休日の最後を締めくくり、月曜からのお勤めを乗り切ろう。
  
 
ビール2

 

 






 

サンダル、サンダラー、サンダリスト!

ようやく暖かさも安定してくるのだろうか。これからはサンダルの季節である。私は実はサンダル履きが好きだ。といってもおっさんのビニールサンダルのようなものは履かない。便所の突っかけサンダルやシャワーサンダル(同じことか)などをはいて歩き回るビジュアルには精神が耐えられないのだ。もちろん私がそんな格好をしたところで誰も気に留めはしまいが。
 
最近は皮紐を編んだ古代ローマ人のようなサンダル(インド製だが)がお気に入り。
スポーツサンダルも履くがつま先ガード型がよい。スニーカーもアッパーがメッシュの上に靴底までもが網戸のような素抜けの網目でできているものがほとんどサンダル同然の履き心地でお気に入りである。いつもは同じメーカーの微妙に異なる革靴5足を一日送りにローテーションで履いているので、土日休日は足を開放したくなるのかもしれない。ただ断っておくが私に足指に患いを持ったことはない。サンダルがすきなのは単純にサンダルのほうが足が楽ということに過ぎない。
サンダル生活には自然健康志向の生活、今のはやりで言うなら、ロハス的生活の風を感じるような気もする。夏ジャケットにつば広帽とメガネに皮サンダルで歩く男がいたら、きっとそれは私の同士だ。



そんなサンダル履きは革靴よりも足によいことは間違いないと思うが、世の中はサンダル人の出入りできない店などがあったりして、サンダラーの社会的地位は不当に低い。私のお気に入りの某レストランでさえもサンダル履きを試すのはかなり勇気がいる。入り口でもし履物がトラブルになったらどういって抗弁したらいいのだろう。
 
1.「江戸時代や明治まではお前の祖先も草履はいてたくせに何だあ!、
  それでも貴様日本人か!」


2.「じゃあちょっと店の靴貸してくださいよ」
  (注:なんでもネクタイを貸してくれる店は存在するらしい)

3.「えーと、私のサンダル履きの足とあなたの革靴履きの足に付着する
  雑菌の数を比べてみましょうか?」
  (注:サンダルの方がはるかぶっちぎりで衛生的なのは言うまでもない)
 
そういえばチャーリーブラウンやスヌーピーの活躍するコミック「ピーナッツ」でも私のお気に入りのキャラクター、ペパーミント・パティはいつもサンダルを履いている。  
晴れた週末はサンダルはいて、野をわたる風を受けて歩こう。
 
ペパーミント・パティ Peanuts by  Charles M.Schulz

春の嵐にご用心

4月とは春うららかな印象があるものだが、この春というものの不安定なことはまったく油断のならないもので、冬同様の寒気に見舞われることもあれば、初夏を思わせる日差しが照りつけることもあり、さらには急な雨・風・雷、果てはヒョウまで降りつける嵐がやってくることもある。

 

こんなくるくると不安定な春の天候は女性的な季節だと言ったら、現代においては世の中の女性方の猛反発を招きかねないのだが、実は先日、まさに不安定な春の嵐のごとき女性に振り回されあやうく難に遭いかけた。

 

・・・その日は軽い頭痛をもよおすほどの強い日差しの中を出かけたのだが、直射日光から逃げるように瓦屋根と深い軒が作る陰の中によろめき入ると、そこは小さな喫茶も兼ねた老舗の和菓子屋だった。いぐさの香る畳表の長いすに腰を下ろして店内を見回すと、年配の女性店員が二人いるだけで他には客はおらず、振り子式の古時計の音がやけに大きく響く店内からは、表のオフィス街の喧騒がひどく遠いものに聞こえて、まるで時代に取り残された都会の谷間のようだった。

そこが今回のY女史の待ち合わせ指定場所なのだった。

 


約束の時刻を20分ほど回ったころ、表に車が止まりY女史が現れた。20分なら上出来だと思ってY女史を見ると、何と今日は着物姿である。萌黄色の訪問着をキリリと着込んで、普段の化粧っ気の無い様相とは打って変わり、きつめの化粧を施したY女史の外見にはちょっと回りを圧倒する凄みがあった。茶道も能くするY女史が歳に似合わず着物の着こなしも抜群なのは知っているが、こういう日はあまり逆らわない方が良いことを私は知っている。

 


いつも品行方正で美人で知的でおっとりしたY女史だが、そういう自分にストレスを感じるのか、欲求不満がたまるのかどうだか知らないが、時々キレて、挑発的な服や露出の大きな服を着て登場するのを知っているので今回もその一表現であることは間違いない。

おとなしく用事のある店にお供したが、美人のお供といっても、いや、美人のお供だからこそ私にも具合の悪い事情というものがある。

  

さっさと用向きを済ませて帰ろうとすると、今日はジンギスカンが食いたいなどと言い出した。着物着てジンギスカンはないだろうと口を挟む間もなく、服買って近くの知り合いのメイクの店で着替えてくるなどといい始めた。
   
結局ジンギスカンを食って、バーにもはしごして私はさっさと引き上げたかったのにY女史はまだ物足りなそうに、そのまま分かれることに未練たっぷりの信号を送ってくる。・・・こういうときの女性を傷つけずに何事もなく事態を穏便に済ませる手立てはどうしたらよいか、私はよくわからない。
どうするよ、オレ、ピーンチ! 
 
そのとききわめて距離が接近したY女史からジンギスカンの臭いがした。


「う、ジンギスカン臭くね? 二人ともすごくにおってるんでない?」
「あら、やだ」
 
ジンギスカンはうまいがロマンチックではない。急速にY女史のエネルギー密度が下がっていくのがわかって、とにかくとことん臭い仲にいたることは回避されたことがわかったのだった。
 
突然の小嵐に見舞われたものの、こうして危うく難を避けた春の一日だったが、

とにかく気まぐれな春への用心には、越したことはないらしい。

 

 

 

  

 



地図にない読書

このところ、実用書というか新書版の現代社会解説書のようなものばかり読んでいたのだけれど、さすがにこんな本ばかり読んでいると読書をしたという感慨や充実感に乏しいというか、粗雑なファーストフードばかり食っていたような欲求不満が積もってきた。
 
実用的な社会解説書に罪があるわけではないのだけれど、人間は実用的な機能だけでできているわけではないのだ。
 
ほしい物事を調べ、懐の具合を予想し、上司や同僚の腹のうちを探り、資格試験や勉強の損得勘定をしては、世の中での立ち位置と役回りをちょっとでもよくできたらと願う・・・これを現代社会は成功へのたゆまぬ努力という美しい文句で彩り賞賛するが、多くの人にとってこんな毎日は疑問と不満と背中合わせの苦役の毎日でもある。単純な社会的な成功や栄達と個人的な動機とが一致する人はまれであるからだ。
 
だから、日常には東籬のもと花を手折り南山を眺め、心を自然に遊ばせることも必要なのだろうが(採菊東籬下(きくをとるとうりのもと)悠然見南山(ゆうぜんとしてなんざんをみる))、なにもこれは陶淵明のような詩人にだけ可能な憧れの世界では決してない。


社会的な損得の視点を離れて日常を眺めてみれば、いつもは通勤に使うだけの道に降りかかる花びらも、窓から吹き込む春の風も、蛇口にたまった水のしずくさえも詩情と風情をたたえた南山を眺める里への入り口となるはずだからだ。



それでもなかなか現代社会に追い立てられて突進(迷走)モードに入ったスイッチを切り替えるのは大変なこともあるが、よい本に出会うことは手軽に目の前の世界を変えてくれる手段となる。あくまでもよい本が条件だから、社会解説の実用書ばかりではいつまでたっても渋滞道路を走るばかりで、目の前に南山の里への道は決して現れはしないものだ。


というわけで、毛色の変わった本が読みたいと思っていたところ、いつもSFやファンタジー系の読み物に関して世話になっている香澄堂書店 でたまたまそんな本を入手できたため、これ幸いと読んでみたなかの一冊である。



地図にない町

『地図にない町』 フィリップ・K・ディック / ハヤカワ文庫


改めて説明するまでもないが、映画ブレードランナー(原題は電気羊はアンドロイドの夢を見るか)やトータルリコール(原題は追憶売ります)の原作で名高い作者の50年代に書かれた短編集だが、本書でも印象的なのは荒廃した未来のイメージだ。


それはこの作品が書かれた頃の、東西対立や核戦争の不安と隣り合わせだった時代の空気を反映しているのだともいえるだろう。 
 
すべての話がすさんだ未来の場面や退行の予感を描いているわけではないが、どの作品にも人間の進歩や前向きな努力の裏に潜む挫折、衰弱、失意、焦燥、虚脱といった負のイメージがまとわりつく。


とはいっても暗い話ばかりが並んでいるわけではない。皮肉と時にユーモアをたたえた単純に面白いファンタジー系の読み物として秀逸であり、それが没後も人気作家として支持を得ている理由でもある。
 
本著の「森の中の笛吹き」などは絶えざる競争と努力を積み重ねてきた「まっとうな」人間たちが、あるとき自分は植物になったと信じて社会的な義務を放棄して静穏に暮らすようになる話だが、常にアドレナリンを放出して目標を掲げては前向きな努力と前進することを唯一の善とするような現代社会においても、十分なアイロニーと魅力を放つ。
 
だから、この短編集はかつての東西対立や核戦争不安のあった時代雰囲気を色濃く反映させながらも、諸作品にまたがる通奏低音のようなイメージの連鎖が、現代を生きる私たちを覆う不安と憂鬱をも貫いて響いてくるようだ。
  
ディックの描く荒廃した都市や日常の光景に私たちが見るものは、現代社会に疲弊した私たちの不安と減速願望の写し絵なのかも知れない。
 
出世にも給与アップにもつながらない本ではあるが、俗世の成功地図にない道をたどるのもまた人生の充実には必要だったりするものだ。


疾走する現代社会に疑問を持った人や疲れた人にもぜひ一読をお勧め。 


   

 

 

 

早期死亡奨励制度のお知らせ

崩壊寸前の年金制度を抜本的に解決すべく、厚生労働省が極秘に進めていた新制度の策定作業が大詰めを迎えているようです。 実はわが党の仕事の関係で、来年度初めに広報される文書をしかるべき筋から入手しましたので、一部をここに公表したいと思います。


               記


政府の早期死亡奨励制度(通称生き生き余生)の開設に伴い、厚生労働省では4月1日より65歳以上69歳未満の方で希望者の募集を開始します。

健康審査の後一定の余命があると判定された方(およそ72歳以上まで生きながらえる確率が高い方)が本奨励制度の適応対象として認定され、適応者の方には一時金百万円に加え日額二万円の生活費が支給されます。

なお適応者の方が70歳の誕生日に到達しましたら、生き生き余生事業団の係りが「お迎え」に参りますので、速やかにSハウス(注)に入所いただきスムーズな手続きのうちに安楽に人生を終了していただけます。 
ご存知の通り現在は年金制度が崩壊して支給が滞っておりますので、生き生き余生制度に期待される方は多く、募集開始時には応募者が殺到することが予想されます。お早めに募集手続きを済ませられますよう今すぐのご検討をお願いいたします。
                              

                                     以上
 

                          平成  年 4月 1日
                          厚生労働省総務局
                          年金支給額調整課

     

(注)Sハウスとは苦痛なく人間機能を停止し人生を終止するための
   最先端の機器を備えた快適で清潔な施設です。



もちろん政府閣僚のお歴々が率先してエントリーするのは言うまでもありません。それならとっても安心ですね。。。

 

  

今日もまた、総理がケツ断しないワケ

赤坂のマンションにユリという名の妖しい美人がいるのだが、ユリは実業家の旦那を持つ他人の女である。だがユリは実はフクダとも当の旦那には内緒のいい仲でもあった。
 
その晩、オザワとけんか別れして夜遅くようやく仕事がはねたフクダは、ユリの寝込みに押しかけることにしたのだが、旦那は出張のはずだった。 これではまるで夜這いだがこれもまた一興と、夜這いという時代がかった言葉のインピさにジジイのフクダはひとりほくそ笑んだ。
  
段取りはうまくいった。布団にもぐりこむとびくりと体を硬くしたユリだったが、口をふさぎ、フクダであることを伝えるとすぐに力を抜いてまかせてきた。どうやら、ユリもこれをまっていたらしい。 やはりそうか、と含み笑いを浮かべつつフクダは着衣を解くと、その時だった。 ユリの旦那が帰ってきたのである。
 
あわてて立ち上がりまっぱでうろたえて右往左往するフクダの様子ははまるでじじいの裸踊りだ。
ユリは「そこから上へ」、とフクダにロフト式半開放型の天井裏へ隠れるように言うと服を押入れに押し込んだのだった。
 
フクダが仕方なくロフトの床にべたりと座っていた下ではユリが旦那を迎える華やいだ声が聞こえた。 一方の裸のままのフクダは、極度の緊張で持病の痔疾がうずくのをこらえていた。
 
不運だったのはユリの部屋の内装は木目もあらわなむくの天然木によるものだったことだ。このため天井つまりロフトの床には節目があり、中には節穴が貫通している部分もあったのだ。

 

フクダの下にもちょうど大きな節穴があり、悪化して飛び出してきたフクダの肛門は次第にこの穴から天井に垂れ出しはじめたのだった。フクダはもちろん異常に気づいたものの、はまった出痔を引き抜くには相当の痛みを伴う覚悟が必要なようで、どうにも身動きが取れないのだった。

 

もちろん下でも天井に出現した異変に気づいた。
「あれはなんだ?」ユリの旦那は天井の異物を指差した。
「あれは、、ナメクジです。時々家に入ってくるんです」

とっさにユリは答えたが、これを信じた旦那はその「ナメクジ」を始末しようと、手近にあったモップをとるとその柄を真下から思い切り突き立てたのだった。
 
モップの柄は「ナメクジ」を始末し、節穴を貫通し一部はその先まで進んだが、先が丸かったのははフクダにとって幸いだっただろう。

 
だが、
この日以来フクダは途切れない厄介な糞を自力で始末することができなくなってしまった。つまり糞(ふん)切りがつかなくなったのである

これがためにフクダはさまざまな場面で糞切りの悪い応対に終始し、政局の混迷を招いていることは実に憂うべきことである。



(・・・かくのような次第で、ソーリにケツ断力と指導力不足が指摘されるのにはそれなりのワケがあったのだ。私はアレは好かん 

 

 

 

 

 

  

 

 

根性なしのためのワークライフバランスをとるという生き方

春分の日の今日は雨。窓から外の木立を眺めると、無数に重なった裸の枝がほのかに春の色を帯びて、もやったように見えるのはだいぶ木の芽がふくらんできたせいだ。これからは気温も上がり一雨ごとに新芽が吹き出して、静かな冬のたたずまいを見せていた木立もあっという間に柔らかな葉をまとうようになるのだろう。 
春への変化は、心浮き立つ期待と焦燥にも似た居心地の悪さが同居するが、きっとこの時節の様々なイベントが、人に社会の変化への迎合圧力を連想させるためかもしれない。とにかく現代の変化は速くこの先の事は誰にも予想はつかないが、常に変化を強いられる中でどうにかこうにか自らが生き延びるすべを模索してじたばたとあたふたと、人が日々を過ごしてきたのは今に始まったことではない。
 
ただ、現代は先の見えない中で先に希望を持つ以前に、最低限の下支えも無くなるような不安が大きく、しかも出口を探すことは各人が個人的なリスクを負ってやるべき自己責任問題に帰されてしまっていることが、社会の閉塞感を大きくしている。さらに、世の中で働いて食っていかねばならない身としては、変化に順応しないといつか世の中から取り残され、気がつけば自分だけがババを引く事になるのではないかという恐怖があるから、人は人、世間は世間とばかりは言っていられない。
  
とはいえ、会社の単純な価値観の中で仕事に自己実現の意義を見いだせる人は希だし、仕事に人生のすべてを掛けて私生活を犠牲すれば会社が様々な面倒をみてくれるという時代はとっくに終わっている。結局、きわだった能力もなければ根性も覚悟もない凡下の輩としては、世の中につかず離れず、仕事は生活のための必要悪として労働対価に見合った分だけ働いて、個人的な生活と社会的な生活のバランスをとることに腐心することになるのだろうか。。。
 

そんなもやもやもあって、先週から「ワークライフバランス」という観点で、凝り固まった観念をチェックし、自分の蒙に気づくため主に若向けと思われると思われる本を読んでみた

 

『3年で辞めた若者はどこに行ったのか』  城 繁幸 / 筑摩新書
陳腐化した旧来の価値観にとらわれずに自分のとるべき道を示唆するケース紹介多数。会社、組織外活動、成功者ケースばかりでなく、非常に幅広い。

 

『スタディ・ハックス』(Study Hucks!)   小山 龍介 /東洋経済新聞社
社会人にとって日進月歩のIT時代にはIT時代の勉強法や道具がある。勉強という内向き作業の決まり切った型を見直すための参考として定期的にこんな本も見る必要がある。
 
『格差社会の世渡り』    中野 雅至 / ソフトバンク新書

労働力が企業に都合の良い商品となってしまった今となっては、企業組織は人生を託すところではなく、徹底的に利用すべきところである。

 

『日本を降りる若者たち』  下川 裕治 / 講談社現代新書
日本社会で生きづらく、海外に脱出してドヤ街のようなところで引きこもる、「外こもり」の若者たち。

 

『自分に適した仕事がないと思ったら読む本』  福澤 徹三 / 幻冬舎新書
職場で働くときはなりたい自分を演じること

  

『公務員クビ!論 』  中野 雅至 / 朝日新書
年功序列と終身保障が最後まで生き残る?お役所の組織体制が解体される過程は、今後日本社会が健全な労働市場を形成し働き手が企業と対等な権利を手にするための要となるかもしれない。

 

『人生を半分降りる』  中島 義道  / 新潮社OH!文庫
会社や世の中の多数派にあわせて生きることに違和感を感じる人に向けて書かれた、社会に着かず離れずしっかり自分の居場所を確保して生きるための人生の指南書。


・・・蒙は晴れないけれど、ちょっとは参考になったかも。

暁の妖術武芸帖


このところ毎日猛烈にねむい。
でもたぶん睡眠時間はだいたい足りている。 眠けの原因とは花粉症の薬で、いつでもどこでも眠くなるのだけれど、特に体は眠け信号を出していないから、疲れて睡眠が足りなくて眠いというものとは異質な眠さである。だから乗り物で座って寝てしまうときなど、誘拐されて薬で眠らされて、敵スパイのアジトに運ばれていく俺はああスパイ映画のヒーローで、きっとそれはこんな感じなのだろうかとも思ってしまう。
 
その上もともとがロングスリーパー体質の私ではあるが、会社に入って以来何度も長期間にわたって
過労死体験ツアーに行っては、週に三日四日の徹夜当たり前の生活をしてきたので、すっかり睡眠摂取には意地汚くなってしまい、いつもちょっと暇があれば眠い、眠らなければと、がつがつと惰眠を貪りたい衝動に駆られるようになってしまっていて、睡魔の術中にはまらないようにするのはとても大変なのだ。
  
今日も別のオフィスに会議に出かけたのだけれど、広い部屋に大人数の会議で誰が誰やらわからない顔も多かった。ともかく資料を配って眠気でもうろうとしながらも声を張り上げ説明をしたのだが、周回状に並んだ向かいの席のあたりで、誰かむさい男がわあわあ何かしゃべっている。誰だこのやろう、人が話しているのに黙って聞けよ、とガンつけたところが向こうもこちらを睨み返してまだしゃべっている。 なんだあ?、と目をこすってよく見ると目つきの悪い男は鏡張りの壁に写った己の姿だった。
 
そこで帰りの電車では寝過ごさないように本を読んでいたのだが、向かいの席に座ったうら若い女性がやはり花粉症なのだろうか、マスクをかけてこくりこくりと居眠りをしているのが目に入った。こんなとき人は、ああ、あなたも花粉症と戦っているのですかと、同病相哀れむ一種淡い連帯意識のようなものを抱くものである。ところが、その女性、睡魔に完全に陥落してしまったらしくついには本格的に寝息を立てて眠り込んでしまった。しかも鼻も詰まっているらしく寝息はイビキとなって電車中に響きわたりはじめた。やれやれ、と見ているとイビキはさらに大きくなって何も知らずに眠りこける本人には気の毒なほどである。それにしても何でこんなに品のない大きなイビキなんだろう、向かいの席なのにやけに近くで音が響くなあ、ああうるさい!と思ったところで目が覚めた。あ、今のは俺のイビキだったのか。どこからが夢だったのだろうか。。。見ると、当の女性が嘲笑をうかべてこっちを見ていた。
  
春うらら、今日もヒーローcaptain-jackは花粉症と睡魔という妖術使いとの戦いに明け暮れている。                             

                                             続く

ブログ

前回霊能力者に関する文章をアップしたところ、コメントの外に何通かメッセージやメールの類が舞い込んだのだけれど、これがニとおりあって、ひとつは宗教や占いを揶揄することを非難するもので、もう一方は私を危ないオカルト頭の同士と見なすかのようなものである。
もちろんどちらも違う。
私は私の思いつきや書きたいことを書きたいように書いているだけであって、特別何かに肩入れしたり深い関わりを持とうと思っているわけではないからである。
 
何回か私のブログを読んだことがあって普通の分別がある人は関係のないことだが、単発で読むには私のブログはテーマもバラバラで(それは意図してやっているのだけれど)、誤解を与えることがあるのかもしれない。真面目な非難も私はにやにや笑って読んでいるだけなのだけれど。
まあ政治ネタ、宗教ネタなど、ちょっと入り組んだレトリックを使って誤解を生んで、とんちんかんなメッセージをもらって読むのはブログの楽しみの一つでもある。

 


 
ところでこの週末は花粉の飛散のピークだと言うことで、今日は外出を控えた。家で一日ゆっくりと過ごしたのである。というか、花粉症のクスリは眠くなる上に、前夜の深酒が祟って午前中を棒に振って外出のタイミングを失したと云うのが正しいかもしれない。
 
まあ、たまには人はゆっくりと閑を楽しむ事がなければならないと云うこともある。忙しいときに充実しているような錯覚を得るのは誰にでもできるが、閑時においてこそ人の内面の充実具合が試されるものだ。 というわけで今日は家で閑を楽しむことにしたのであるけれど、何もしないで家にいれば何とはなしに食ってばかりいるもので、食べれば出るから、花粉症もピークなら多糞症もゼッコーチョーなこの週末である。

あ、いや、はなしが変な方に行った。

 

 

ともかく大量の花粉が舞っているとはいっても今日などは家でゴロゴロするにはあまりにもいい陽気で、窓から外の地面や木立を眺めて微妙に色合いが変わっているのを見ると、何か体の芯からうずうずと動き出したくなるものを感た。

  

自然の勘がだいぶ失せた人間ですらこうなのだから、虫や草、動物はなおのこと活動の準備態勢が本格化していることだろう。地表に萌えだした草の芽はわずかでも地下では草の実木の種、虫どもが今にも飛び出しそうなエネルギーの高まりを感じるこの時節である。明日は郊外に散歩に行くとするかな。(酒が無くなったので買いに行かねばならないのだ)
 
  下萌えて土中に楽のおこりたる (星野立子) 

 
 

 

ある霊能力者の告白


実は、私は運智精霊協会のセミナーにおいて鴨田聖雅の名前で、講演や霊能力を披露する活動をおこなっております。鴨田聖雅は霊能者としてもちょっとばかり名が知られており、自然の精霊と人間の霊魂の合一に関する本も出しておりますので、きっとご存知の方も多いことでしょう。

 
しかし意外に思われるかもしれませんが、鴨田聖雅の自然と精霊、癒しと自己発見についてのセミナーには私自身全く関心はありません。
セミナー主催団体に万物と対話する霊能力者として祭り上げられてはおりますが、霊能力の事実はないからです。ただただ、たちの悪い霊感商法に加担することが苦痛になってきたために、今日は霊能力セミナーの舞台裏をここで話してしまいたいと思うのです。

・・・そう、あれはセミナーがまだ零細オカルト団体で、会員(信者)獲得に躍起になっているときのこと、あるとき屋外セミナーを行ったときのことでした。いつものように私は、霊能力をもってすれば動物はもちろん木や岩、万物の精霊と会話ができるという話をしておりましたが、万物と会話する霊能力といっても、派手なマジックまがいのパフォーマンスができるわけではありませんので、聴衆の反応は鈍く、信者獲得の手ごたえを得るのはまだまだ先のように思われたのでございます。
 
ところが、途中休憩時間のこと、何とその奇跡が起きたのでありました。
 
そもそもは、何せ当日は屋外での伝道集会のことゆえお手洗いが不便なこともあって、便意を催した私は草陰で始末することにしたのです。ともかく尻を出し、出すものを出してほっとすると自分の携帯の着信音が鳴りました。ところがどこを探しても携帯がない。まさか、と思って振り返ると、おしりのポケットに入れていた携帯がきっとズボンを下ろしたときに落下したらしく、たった今排出してばかりで湯気を立てるブツの真っ只中に鎮座していたのでありました。うぅっと見ると、なんとブツはバイブレータの振動で液状化現象を起こしているらしく、私の携帯は大ブツの中へ中へと見る見る沈下していくのでありました。

 
そこで仕方なく私は傍らの枯れ枝を二本拾ってブツの中の携帯をつっついて操作することにしたのでありました。さらに具合の悪いことに電話の相手はサラ金の返済催促であったのです。どすの効いた声が、ウンコの中から響きます。
 「いつまで待てばいいんですか?」
 「もう少しです!もう少し待てばきっと道は開けるでありましょう!」

 「なら、いっそ天国にでも招待してあげましょうか!?」

 「いましばらく待たれよ、今はその時ではありませぬ!」
私も必死で答えますが霊能力者が商売ですから、応対ももって回った言い方になります。

しばらくそんなやり取りをして電話が終わると、私は大きなどよめきに包まれました。私は気がつかなかったのですが、いつの間にか草むらの周りには怒鳴り声を聞きつけたその日の聴衆が集まっていたのです。
「見たか?! ウンコがしゃべったぞ! 先生はウンコと会話していたぞ!」

 
こうして私は万物はおろかウンコの精霊とも対話することが可能な偉大な霊能力者として認知され、運智精霊協会のセミナーは多大な会員(信者)を擁するにいたったのでございます。
 
・・・かくして始まった私のウンコとも会話可能な霊能力者のキャリアとその奇跡とはこのようなものでございますが、純真な信者をだます苦痛は日増しに大きくなるばかりです。よってここに私の霊能力の成り立ちを告白し、せめてもの贖罪としたいと考えるものであります。

     

                                     ザンゲザンゲ。