涼雨降り夏も終盤に至ってこの秋を展望す
先週末に降った雨は、炎暑の日々に一服の涼味をもたらし、夏に耐えてがんばっていた体もなんとか一息つくことができた。まさに涼雨、恵みの雨である。
このまま涼しい秋に移行して欲しいとは誰もが願うところではあるけれど、夏は盛りを過ぎたとはいえまだしばらくは厳しい残暑に悩まされる日々が続くことだろう。
とはいえ、朝夕の同じ時刻でも一頃よりだいぶ影は長くなってきたし、草葉の露気もうっすらと秋の気配を蓄えている。セミは低いところで鳴くようになってきたし、夜に開け放った窓から聞こえる虫の声が大きくなってきた。
意識しなくとも些細な日常の出来事の中に季節の変遷を感じ、去っていく夏に物悲しさを覚えてはこの先の変化に動揺にも焦燥にも似た感慨を覚えることがある。
ひょっとしてこれは終わってしまう夏休みを惜しむ過去の記憶がしみこんでいるためなのか、あるいは何事にも変化を厭う人間の保守性なのかは良くわからない。もっとも、私の場合は何より暑い盛りには夏バテなどしまいと一生懸命食べて夏太りしてしまうのが常のところ、涼しくて過ごしやすいうえに一年の収穫に恵まれる秋はさらに食欲が増して、衣替えの頃にはズボンのホックの遠いことに嘆息することになる・・・、というようなことも原因のひとつかもしれない。
嘆いても仕方がない、スイカの季節ももうすぐ終わるけれど、秋にもまたうまいものがたくさんやってくるのだ。
こんなことなら夏痩せしておくんだったと思っても、すでに後の祭りは食い物の屋台が充実してメタボ街道まっしぐら、あわてて少々運動などしようとも食い倒れの線路は続くよどこまでも、秋の野を越え山越え谷越えて、天高く馬のごとく肥え太る秋はやっぱりデウスもヤハベも如来も唱和する声のこだまする、食えよ増やせよ血に満てよ、後は野となれ山となれとなるのであるかも。
いいではないか少々太ったって。 しあわせならば。
坂の上のいわし雲
今期初めてのことだろうか、昨日の朝、坂を上る道の向こうにいわし雲を見た。
さらに同じ空にはほうきで掃いたような絹雲もあって、どうやら空の上では地上より一足早く秋の気配が着実に進行しているいるということらしい。
毎日毎晩のまとわりつくような暑さは相変わらずではあるけれど、季節は突然変わるわけではなくまさに、「夏の中に秋の通う」ことを実感する朝だ。
しかしながら、時に怨嗟の対象となるほどの盛んな炎暑の中にあっても、たとえかすかでも秋の気配を感じることには一抹の寂しさにも似た感慨を抱かずにはおられない。
いつか消えるせみの声、色あせていく夏草の葉、次第に伸びていく夕暮れの影、終わってしまう夏休み・・・
あんなに大きく強く圧倒的だった夏も、いつのまにか日差しの力は衰えて、熱い風も吹き寄せることはなくなり、ある日気がつくと澄んだ秋色の景色のなかに立っていることになるのだろう。
きっと人もまた同じで、目の前の仕事や義務を必死にかき分けては世の中の流れにおぼれまいと日々無我夢中で過ごすうちに、いつの間にか人生の景色もまた変わってしまっていることに私もいずれ気づく時がくるのだろうか。過去に流れ去ってしまった様々な出来事と、人生の秋の末を過ごすわが身を見て、何がしかの感慨ににひたることがくるのだろうか…。
もし日本人の基底に共通して流れる人生観めいたものがあるとしたらそれはきっと無常観であると思う。私たちは事物の永続性を信じず、盛衰を繰り返す世の中の流れの、ことに滅びの予兆のうちに美しさを感じ、はかなさのうちにもののあわれを見出す感受性をどこかにもっているようだ。
いま夏は静かにそのピークを降りてわが身のはかなさを思い起こさせそっと無常観で包み込む秋がもうすぐそこにやってきている。
撃墜王の誇り
数ある夏の風物詩的食べ物のなかから、その第一にはスイカを挙げたい。
水気を大量に抱えた食感もさることながら、そのデザインもまた
夏の象徴のようなものだ。
その上水分ばかりか意外にビタミンやミネラルをふんだんに含み、
利尿作用からデトックスの効果も期待できるらしい。
そんな能書きはどうあれ、我が家は単純にスイカが好きなので、
夏じゅうここぞとばかりスイカをよく食べる。
とてもよく食うのでいったいひと夏にどれくらい食うのかふと疑問に思い、
今年は一個食べるごとにスイカのシールをカレンダーに貼っている。
このマークシールを見ると、昔映画で戦闘機乗りが敵機を撃墜するごとに
尾翼にマークをつけていたシーンを思い出すのだけれど、
その主人公も戦争への疑問に悩みながら、最後には機体もろとも
砲弾に引き裂かれて散ってしまったのだった。
そこへ行くと戦争も死人も出ないスイカの撃墜マークは
なにより平和でよい。圧倒的に良い。
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毎年8月はスイカの最盛期であるとともに戦没者の慰霊の時期だが、
来たる15日にもきっとスイカのシールを貼って
平和の尊さとありがたさをかみしめたい。
秋まだ遠い残暑のはじまり
厳しい暑さは相変わらずで、その上私は前記事をUPして以来しばらく休暇をとって高原に滞在してきたために、都市部の暑さはなおのこと堪えるものがあります。
とはいえ、ひさしぶりに朝の通勤電車から眺める光景には、そこここに季節の移ろいが見えてくるようです。
--河川敷で、朝露をたくわえた芝草を歩く人の影はだいぶ長くなったようですし、
野原や植え込みの草の実の色は確実に濃くなっています。
夏が頂点に達し、季節は次第に秋へと舵が切られ始めているのでしょう。
それにしても爽やかな秋を実感できるまで、まだいったいどれほどの
真夏日と熱帯夜を過ごさなければならないのか、
この先が思いやられます。
皆様もこまめな給水や休息に留意し、
健やかに残暑をのりきることができますように。
盛夏 一人ぼっちの夏休み
木立を抜けると、乾いた土と葉菜の行列が交互に並ぶ畑がゆるい起伏を繰り返し連なって、そのただ中に一本道が伸びている。道の向こうには入道雲が湧き上がり、木立の蝉時雨を背に雲の付け根を目指して自転車で走っていくと、細い道に吹き寄せる風は赤土の埃をはらんで熱く乾いた日の匂いがする。太陽を頂く暑さの盛りに動く人影はなく、私は空と地の間に充満した夏の空気を独り占めすることとなるのだ。
時折、風とともに形にもならない懐かしい記憶の名残が私の中を吹き過ぎていくが、
あれは子供の頃の夏の空気の記憶だったと気がつくのはいつも通り過ぎてしまった後のことだ。夏の天球の真ん中で私は自転車を止めて立ち止まり、懐かしさから吹き去ってしまった記憶を捕らえて今ここにある眺めに重ね合わせてみようとしてみることがある。こんな夏の記憶とは、なんら具体的な形も言葉も出来事も伴わない、幼い頃の夏の空気の記憶とでも言うべき漠然としたものでしかないのだけれど、どうしてそんな夏の記憶とはこんなにも懐かしくいとおしいのだろう。
子供の頃の夏休み。
学校から開放され、時々退屈という孤独に戸惑うこともあったりしたが、退屈をもてあましてあてもなく一人で野山に出かけてみるときなどは、実は全面的に一人きりの自分自身と自然に向き合う時間だった気もする。私たちはいつも会社や社会的都合に翻弄されてはつじつまを合わせて生きることに忙しいが、子供の頃であっても、学校や地域社会、友達や仲間内の付き合いの大変さというものは子供なりにまとわりついていたはずだ。
子供の頃であってもつかの間大変なことから開放された夏の退屈は、社会に突き動かされない一個で完結した本来の自己と向き合う原始体験だったのだ。大きな夏の空気のかたまりのただ中で、一人きりで出会う「まさに裸の自分」に気づくのは、実は途方もない体験だった。いつの間にか大人になって社会的な立場も役回りも複雑に変わってきたが、今も昔も本来の自分は一貫して変わらぬ素朴なものだということを思い出すからこそ、きっと一人きりの夏の空気はあんなにも懐かしくいとおしいのだろう。
盛夏 夏祭り
夏もピーク、この土日はあちこちで花火大会や夏祭りが催されている。
主催者は自治体や企業から、地元商店街や町内会まで様々だが、
浴衣姿や子供らの歓声に溢れかえるわくわく感はどこも変わらない。
そんな商店街を歩くと、陶器店が出店する露店でちょっと変わったデザインの蚊遣りが目を引いた。つまらないものがすぐ欲しくなるのは私のいつものことで、
買う気満々ですぐに手に取ってみたのだがしばらく買おうか買うまいか迷ったものの、この日は結局買わずにかえってきてしまった。
今は電気蚊取りが主役で、滅多に使うことのないうちの伝統的なデザインの豚の蚊遣りの出番がますます減ってしまうのではないか、と思ったからなのであるけれど、あるいは暑さの疲れで余計な物を買い込む勢いと決断力が鈍っていたのかもしれない。
・・・それでもやっぱり買うべきだったかとも思うのは、、いや、きっぱりやめておこう。
あれこれ迷いを引きずるのはただ暑苦しさを高じるだけだ。
今日も真夏日に加え湿度の高い、厳しい一日になる予報が流れている。






