盛夏 一人ぼっちの夏休み
木立を抜けると、乾いた土と葉菜の行列が交互に並ぶ畑がゆるい起伏を繰り返し連なって、そのただ中に一本道が伸びている。道の向こうには入道雲が湧き上がり、木立の蝉時雨を背に雲の付け根を目指して自転車で走っていくと、細い道に吹き寄せる風は赤土の埃をはらんで熱く乾いた日の匂いがする。太陽を頂く暑さの盛りに動く人影はなく、私は空と地の間に充満した夏の空気を独り占めすることとなるのだ。
時折、風とともに形にもならない懐かしい記憶の名残が私の中を吹き過ぎていくが、
あれは子供の頃の夏の空気の記憶だったと気がつくのはいつも通り過ぎてしまった後のことだ。夏の天球の真ん中で私は自転車を止めて立ち止まり、懐かしさから吹き去ってしまった記憶を捕らえて今ここにある眺めに重ね合わせてみようとしてみることがある。こんな夏の記憶とは、なんら具体的な形も言葉も出来事も伴わない、幼い頃の夏の空気の記憶とでも言うべき漠然としたものでしかないのだけれど、どうしてそんな夏の記憶とはこんなにも懐かしくいとおしいのだろう。
子供の頃の夏休み。
学校から開放され、時々退屈という孤独に戸惑うこともあったりしたが、退屈をもてあましてあてもなく一人で野山に出かけてみるときなどは、実は全面的に一人きりの自分自身と自然に向き合う時間だった気もする。私たちはいつも会社や社会的都合に翻弄されてはつじつまを合わせて生きることに忙しいが、子供の頃であっても、学校や地域社会、友達や仲間内の付き合いの大変さというものは子供なりにまとわりついていたはずだ。
子供の頃であってもつかの間大変なことから開放された夏の退屈は、社会に突き動かされない一個で完結した本来の自己と向き合う原始体験だったのだ。大きな夏の空気のかたまりのただ中で、一人きりで出会う「まさに裸の自分」に気づくのは、実は途方もない体験だった。いつの間にか大人になって社会的な立場も役回りも複雑に変わってきたが、今も昔も本来の自分は一貫して変わらぬ素朴なものだということを思い出すからこそ、きっと一人きりの夏の空気はあんなにも懐かしくいとおしいのだろう。