酒とホラの日々。 -29ページ目

男の肌に張りとツヤ

このところヒゲ剃りのあとに気が向くと塗りたくっていたアフターシェービングクリームが、よく見たら実は目元専用クリームだったと気がついた。目元に塗るものをアゴや口の周りに塗ったくったからといってなにか差し障りはないだろうか。
それにしてもいったい目の周りに塗るのと口の周りに塗るのと何が違うのか疑問なところだ。改めて目元に塗ってみたが、使用前使用後特に何がどうしたという違いはまったくわからない。


だいたい私は乾燥も脂ぎってもいないし、自慢ではないが肌状態は大変よく、目じりにもどこにもシワもない。このため会社では女性らに影でキュウリパックと言われていたくらいなのだが、肌の状態の良いのには実は秘訣があると思われる。せっかくだからここでその秘訣を公開しよう。

そもそも、人間というものは極めて単純化して言えばミミズ同様の管状生物であり、入口と出口を分岐点として外皮と内皮が境目なくつながっている。つまり外皮の状態と内皮の状態は相互に関係する。しかも体は腸管から栄養を吸収するようにできているように、
内皮は吸収器官であり、外に汗や脂を出すように外皮は排泄器官である。だから、出すものを吸収器官の内皮の方に長く持っていてもいけないし、また
排泄器官の外皮の方にいろいろ高価な化粧品の類を塗りこめても、
それで中長期的に状態が改善されることは期待できないのである。

端的に言えば、たくさん食ってするりと出す
これが最も良い肌美容法であるのだ。 
実際私は一般的な人より良く食べるし、出すほうに関しては便通が日本一良い男を自称するくらい質・量ともに自慢できるほどで、毎朝起床後ほどなく、お勤めの声があり、便座着地後0.3秒で器の底に見事な円相が現れる。 
 
肌に悩む人よ、塗りたくるのも、ダイエットもだ。ただ大いに食って大いに出したまえ。生き証人の私が言うのだから間違いない。

えん


人類の新しい習慣           (タバコやめますか人間やめますか)


今年もあっという間に夏が過ぎ、時節は長月、セプテンバー。

9月で思い出すのははるか離れたカリブの小島、小さな陸地に似合わず名前は大きく、グレート・セプテンバー島と人は呼ぶ。当地はいわゆるバナナ・リパブリックというやつで、すなわち一次産品の輸出以外に産業は皆無と言っていい田舎の島である。

ただその特産品はタバコが有名だ。同じカリブの島、キューバ特産のハバナなどは高級葉巻として有名だから、この流れをくむものかもしれないと勝手に合点する人がいてもまあ不思議はないのかもしれない。実はR氏もまた、そんな勘違い人間だった。

R氏、先日勤め先の係累企業である近隣の現地法人に出張した折、名産タバコを目当てにセプテンバー島に立ち寄ったのである。もちろん費用は会社の出張費を私的な旅行に流用したのだからこれはネコババ、業務上横領というヤツに引っかかるのかもしれないのだが、
もちろんR氏はいまどき喫煙などと言う不潔な嗜好にしがみつくだらしないタバコ吸いであるので、まったく気に留める風はなかった。

意気揚々とグレートセプテンバー島に乗りこんだR氏だったが、目論見が外れたことにいやでもすぐに気づかざるを得なかった。グレートセプテンバー島ではタバコは口にくわえてふがふがと呼吸するものではなかった。現地の人々は火のついたタバコを肛門に差し込み、放屁でタバコもろとも紫煙を優美に吹き上げるのである。
 
タバコを口にくわえるのは、不道徳かつ不謹慎な行為であり、名産品に対する侮辱とされて、見つかれば最大5年の禁固刑となる可能性があるばかりか、タバコをくわえた犯人にはその場でリンチを加えても良いことになっている。 
そんなわけで、どうあってもニコチンの断てないR氏は立派な肛門タバコ喫煙者となって帰ってきたのだった。だがこれも慣れると腸壁からダイレクトに沁み込むニコチン
こたえられない快楽らしい。 そんなR氏は今や、迫害される喫煙者が生き延びるには、いやでも閉鎖空間で喫する必要のある肛門タバコを広めるしかないと説く、ケツタバコの伝道師として活躍している。 

 
ではさて、今や時代に置き去りにされようとしているタバコ吸い諸君は禁煙する道をとるだろうか、それとも肛門タバコ吸いとして生きていく道をとるのだろうか?

 

初秋 休日の昼と夜

栗山

近隣の果樹農地を通りかかると、こんもりと山のように盛り上がった栗の樹に
まるまると育ったイガがたわわになっているのが目にとまった。


もっとも、イガはどれもまだ真っ青で、

日中まだ30度を超えるような強い日射しをも

はち切れそうな葉と実ではね返すいまだ生育途上の

きかん気な子供のような勢いがあって、秋の気配などなどまだどこ吹く風情だ。
蝉の声も吹きぬける風も行き交う人も、まだまだ夏の強さと忙しさがある。


ところが日が落ちると空気は一転して、
あたりの気ぜわしさはすっかり落ち着いて虫の音だけが響き、
中秋の月が明るく照らす栗山は昼の勢いはどこへやら
もうすっかりおとなしく静まりかえっているのだった。


月夜





食欲の 秋に飲みたい 田舎屋の 匂い芳し 名産ビール

 びいる   

このところ日本でもベルギービールが人気らしいが、これについては妙な思い出がひっかかって、どうもブームに乗る気にはなれないものがある。。。

 

実はヨーロッパ出張の折A君と男二人、地ビールで有名なベルギーの田舎のルーゼンターゲ村に立ち寄ったときのことだ。 様々な種類のビールをさんざん飲んだところで、地元のオヤジに、ところで一番の名物のビールは何かと尋ねると、オヤジは待ってましたとばかりに、それなら「うまやのビール」というのが有名だからぜひこれを飲んで行けと勧められた。


「いや、あんたらはついてる。いつもは客が多くてめったにのめるもんじゃないんだが、今日はたまたま客がいないんだよ」

なんでも幻のビールとまで呼ばれていると聞けば、ビール党として意地汚さが炸裂、飲む気モード200%で別棟に向かったのだった。
そこは本当に馬小屋のようなところで、同じ屋根の向こうには痩せた老馬がつながれてよぼよぼ震えて立っていた。そこでおやじが言った。

「昔ながらの田舎の百姓屋仕立てに作ってあるのさ」


私たちはなるほど凝ったつくりだと感心した。やがて、ビールが運ばれてきたが、ここのビールは日本のようにキンキンに冷やすことはない。たいてい常温かぬる燗で出される。炭酸も人工的に加えることはしないから、過剰な泡もない。 なるほどこれが幻のビールかあ、なるほど伝統的なスタイルだと、さっそく黄色い液体を口にすると
なんだかわらを煮たような臭いがした。そのとき、向こうにいた老馬が、いきなり小便をした。


「・・・ちょっとクラシックスタイルの演出も過剰なくらいだよな・・」
私らはぶつぶつ言いながらも生ぬるい幻のビールを干したが、すっかり酔っ払った後のためかなんとも微妙な味だった。 するとオヤジがまたうれしそうに言った。
 
「せっかくはるばる来たんだからだからたくさん飲んでくれよ、2杯目からはオレのおごりだ」


それはいい、とオヤジのススメで私らは2杯目を口にすると、「ジョョウワッ」と、また老馬が小便をした。こうして私らはすすめられるままに、老馬がつくる黄色の尿溜りの泡を眺めながら奇妙なぬるいビールを何杯もあけたのだった。
  
その後私たちはそれまで経験したこともないひどい悪酔いに見舞われて、荷車で運ばれるという醜態を演じてしまったのだが、単に飲みすぎとは思えないあの悪酔いは、異国の環境にストレスを感じたためだったのだろうか、うまやの演出が現代日本人にはきつすぎたためなのだろうか、それともあのビールというのはオヤジのきついいたずらで実は・・・    いや、まさか、まさかねえ。。。
 
以来、私らはさんざん酔った後にまでさらに意地汚くさらに酒をあおるのは堅く戒めているのである。
 
それにしても変な味のビールではあった。

 

(注: 写真はイメージ映像で私とも本文とも何の関係もありません)

 

 


九月の遠雷

雷雲

残暑続く日々、蒸し暑さの只中にあって、夕時の風呂は
だるく粘りを生じたような身体をさっぱりと引き締めなおし、
それこそまさに生き返る心地がする。
 
先日も湯あがりのほてった体に涼を求め、掃きだしの窓のそばに足を投げ出して
暗くなった空を眺めていると、どこかまだ遠い雷が、

時折雲間に紫の閃光を走らせていた。


じわり近づく気配をみせる雷鳴が空気を震わせるようになると、
反対に虫の声は遠のき、暮れ時の梢の上を飛び回っていた蝙蝠は

あわてて帰っていくのだったが、
私は稲妻が全天を光らせる度にモノトーンに沈んでいた世界に
一瞬色が戻るのが面白くて、雷雲とその下の景色をずっと眺めていた。
 
やがてボツボツと大粒の雨が降り出して、ようやく窓を閉めたのだけれど
結局、雷はそれ以上近づいてくることはなく、
間欠的に稲光を発しながらそのまま遠ざかって、
夕立の雷雨は尻すぼみに終わってしまった。
 
「・・終わっちまった。」
これはちょっと拍子抜けだったが、
終わってしまうのは夕立だけではなく、
夕立を伴った夏もまたこうして去って行ってしまうことを思い、
私はまだしばらく 窓辺で遠い雷を見送ったのだった。




日暮れて、風呂の窓を開け心は秋野に遊ぶ


  秋の庭

9月、長月、夜長月。


もう夏ではないのかもしれないけれど、秋というにはまだ蝉も鳴いているし、日中は何食わぬ顔をして平気で30度くらいにはなって蒸し暑いし、私もTシャツにサンダルで近所を歩いていたりすると
、とても平生は秋を実感するところまでは行かなかったりする。(でもちょっと気になるので秋色夏服である)

 
手元の理科年表をめくってみると(これもツンドク本の典型かもしれない)、東京の9月の平均気温は1971年の21.1度からじわじわと上昇を続け、2005年には24.7度に達して、30年少々の間に3度以上も違うという目を疑うような記述もある。 
これでは身の回りの虫や草はもちろん人の生活スタイルだって変わってくるのは当然だろう。いずれにせよ今年は目や体、気分にしみ入るいるような秋の実感はまだ無いような気がする。
 
それでも毎日目覚めともに眺める朝顔のつるに勢いはなくなったし、日の暮れるのは早くなって日没後の秋の虫の大合唱がだいぶ大きくなった。 砂糖菓子がとけて壊れていくように夏のエレメントが徐々に欠けていき、あまり気にも留めないところから日常の構成は秋の部材に置き換わっているらしい。
 
ともかく意識しようとしまいと季節は進行していくのは人間の生活サイクルも同じらしく、今頃の時期なると、
ものぐさの私とてどうしたことか夏の間に伸びた庭木を剪定したり、秋の病害虫の薬剤散布を始めたり、また秋まきの花や野菜の種ををいろいろ蒔いてみようかとひとりでに勤勉な行動を起こしているのは不思議なことだ。

単にびんぼう症というのかもしれないが。

 

ともかくガーデニング作業にひとまずけりを付け、これもまたもったいない精神の発露から刈り取ったハーブティーで一息ついていると 、町内のチラシに近所の祭りで鈴虫のかごをただで配布するという広告があった。するとまた「ただ」が好きであると同時に、たちまち虫かごに秋の原の広がりを感じるような風情への憧れを催してもらいに行こうかという気分が一瞬頭をもたげる。

 

    秋の野を 手にさげてきく 虫籠かな   (貞徳)


なるほど鈴虫の声は風流だし、きちんと人の手を掛け育てられる彼らは秋の虫の正当種なのかもしれない。 でも私としては子供の頃ならいざ知らず、今は虫の世話に割く時間も手間もないし、なにより狭い虫かごに閉じこめておく事が何となく後ろめたくもあり、きっともらいには行かないだろう。
  
日が暮れて、開け放った窓から流れ込む様々な庭の虫の混声大合唱は、

鈴虫のような正当品種のブランドではなくて、

植物で言ったら雑草のかたまりのようなものかもしれないが、

秋の野にいる風情に浸りこむには十分だ。  

 


 

 

 

 

 


積読(ツンドク)のススメ

もう読書の秋に向かっているのだろうか・・・でも
本を買ってはいずれ読もうと思いそのまま放置して、いつのまにやら
いったいいつから置きっぱなしかわからない積読状態となる・・。

もしツンドクを発生させない方法があるとしたら、まったく本を利用しないか、
本を利用するのではなく、ヤミクモに読み進めてひたすら本を消化していくことを
目的とすることだが、どちらもつまらないことだ。 

世の中には本を買うことだけが好きで本を読むのは二の次で、本は
ひたすら所蔵保管するだけという人もいるにはいるけれど、
そうでない一般人も怠け者でも勤勉な本読みでもそれぞれの事情で
ツンドクは多かれ少なかれ発生するものだ。

このように一般的にツンドクとツンドクにまつわる罪悪感がなくなることは
なさそうであるので、ツンドクの罪悪感を軽減するために、
購入にあたってはツンドクが前提である本を選ぶということを提唱する人もいる。
 
そんな持っているだけで読まなくとも罪悪感の比較的少ない本とは何かというと
辞典、図鑑、写真集の類、雑駁な情報本などのことらしい。なるほど確かに
これらは必要なとき・気の向いたときにつらつらとめくって使う・楽しむもの
であるかもしれない。私のツンドク本にもこれは当てはまるところがあるようで
たとえば以下のようなところが該当するだろうか。
 


その1 現代語から引く古語辞典
現代古語1 現代古語2
んん~、こりゃ買ったもののいったい何に使うのかよく分からない。

帯には俳句や短歌を作る人にと書いてあって
そりゃ私もパロでニセ古文も書いたりするけれど、別に必要を感じない。

まあ、ほかに類似の本はないので、こんな辞書あるよ~、という話題のため

の本なのかも。

   
その2 月の歩き方
月の歩き方1 月の歩き方2
装丁も良くきれいな本で、手元に置いておくだけでもある程度の

満足感がある。写真・図版も多数あるのだけれど、文章が長くて

あまり面白くもないのが玉に瑕?
 


その3 路地の記憶
路上の記憶
非常にナイーブな写真集に、え?挿入詩が阿久悠? 



まだまだツンドク本は多いのだけれど、読書の秋にいずれまた取り上げたい。
なお、経験的に言うと本というものはたとえ長くツンドクで放ってあっても、
いずれ何かで一度くらいは役に立つものであるような気がする。。。






雨、明日は晴れますか

雨3


夏の終わりには季節の入れ替わりを告げる長い雨が降る。

八月の下旬に入って、毎日雨雲の様子をうかがう今年はこれがいつもより顕著な気がする。


今朝も洗濯物を干している最中に雷が鳴り始め、やがて暗くなった空から大粒の雨が落ちてきて、もともと雨の多い日本では晴れ空の貴重なことがあらためて身にしみる毎日だ。
 
それでも私は雨が嫌いではないし雨降りの外出も好きなほうだ。
もっとも晴天の重宝されるこの国ではこうして雨が好きだと言ってしまうのには少々気の引けるところもあるのだが、世の中には思いのほか雨好きも多いものだ。


江戸時代には花見や月見と同じように『雨見』という行事催しだってあったらしいが、これも雨好きの観点からすればもっともなことだ。雨と言っても何でも良いわけではない。多すぎず、少なすぎず、荒ぶれず、まっすぐにまとまって長く降るような雨が良かったのだろう。

これはどうも良い雨が降りそうだとなると、雨好きの旦那衆たちが屋形船を仕立てて水の都の江戸市中の川を遊行し、静かに雨煙に沈む岸の樹影や町並みの情緒を楽しんでいたのである。

  

私が雨の中を散行するのだって規模も程度も違うけれども、雨をも積極的に楽しもうとする江戸の雨見の系譜に連なっていると言えないこともない。


この雨の国では空模様はいつも晴ればかりではないどころか、時期によってはむしろ希少で大切なものとなるから、雨を厭うばかりではとても前向きに暮らしてはいけないともいえるのかもしれない。


雨降り、曇り、時々晴れてはまた曇り、雨、雨、曇りのち晴れ。。。
空ばかりでなく人の世もまた晴ればかりではないのだ・・・。 

 

 

 

 



夏とデートと遅歩行法

               アイスティー


別に自慢でもないが私は歩くのが速い(速かった)。   今よりもごく若い頃などは一緒の女の子が私と並んで肘にぶらさがるようにして走っているのがなぜだか不思議でならなかった。

 

それがどうも体会系のりの私が歩くのが標準的な人よりかなり速くて、そのうえ女の子と一緒であるがために、約束の目的地に一刻も速くたどり着く期待にこたえるのが務めと勘違いしてさらに増速しているのに気がついたのはだいぶたってからのことだ。
「え?アイスクリームが食べたい?そりゃ、あそこだー!」
「なに?疲れた?、あそこが景色がいいからそこに行って座ろう!」
などと近くもないところにヒールはいて走り回らされた女性らには本当に申し訳ない。
 
だが事態を自覚し、この反省に従って減速の改善策を検討したのはもっと後のことだ。 これは女の子の誰も面と向かって苦情や改善の申し入れをしなかったことにもよる。
たぶんわたしの気を害すまいと気を使ってくれていたのかもしれないが、私だって女の子に気を使って張り切った結果なのだから、人間とはこうしてお互いよかれと思って気を使っては結果的にボタンの掛け違いのようなことが起きるものなのだろう。


まあとにかく、誰かと一緒でなくとも実際速く歩くことにはデメリットも多い。
(これに気がついたのもだいぶ後のことだ)
速歩の道々は周囲に必要最低限の注意しか回らず、何か良いものを見落としているような気にもなるし、何より夏場など競歩のように歩いていては熱を発して汗の量も当然多くなる。
そこで、ある時から意識してゆっくり歩くようにしているのだが、これがなかなかいい感じだ。


はた目には時にヨタって歩く変なやつと見られるかもしれないが、些細な景色でもいろいろなものを眺めて生じる印象の理由や源泉を考えて、湧き出た想像のカケラがどこかに転がって行くのを感じる余裕があるし、なにより夏場の移動にも大汗をかくこともちょっと少なくなった。


これはいい、今年も夏場のそぞろ歩きというのもなかなか趣があると思っていたのだけれど、どうしたわけか今年はまだ8月だというのにもう夏は急速に縮退して、まるで秋の長雨の季節に入ったような毎日になってしまった。夏場の発熱量を抑えた省エネ遅歩行も必要性が薄れてきただろう。


しかしながら、ゆっくり動くことのメリットを知った私はまた猛烈な速歩に戻ることはたぶんない。歩くことは目的地への単なる移動手段にしてしまってはもったいない。ゆっくり歩くことで外に内に出会えるものが多いことはなんと喜ばしいことか。

早く目的地へ到達することだけが移動することの意味ではない。いかに移動する途中の過程にこそたくさんの意味が詰まっている。

それは日常も(デートも)、人生もまた同じなのではないか。


真夏大帝国の衰退

朝顔


日中の溽暑いまだ耐え難いものあるといへど、朝に一抹の涼風あり、夕べに連日の驟雨あり。これ季節がまさに入れ替わらんとすることを告げるものなり。

怨嗟を浴びるほどの強大さを誇った夏もまた次第に衰滅を兆したことに物苦しさにも似た感慨を覚えるは、諸行無常を解する日本人なればなり。 

日暮れなば夜毎に盛んになる虫の声に杯を傾けん。。。