どこでも書斎の読書スタイル
私の場合本を読むのはたいていが電車の中である。
車で移動が主の生活をしていたら読書量も圧倒的に少なくなっていただろう。
たいていの本は電車の中で読むし、
そこそこの難度の資格もほとんど電車移動中のスキマ勉強でとった私としては
電車の中は第二の書斎である。というかメーンの書斎である。
もちろん家には書斎などなく、机がいくつかあるだけなのだが。
本を読むスタイルは本の使用目的によってさまざまだが、基本は
「分解綴りなおし」・「徹底書き込み」・「付箋貼りつけ」の三点を使い分けている。
誰に教わったわけでもなく、次第にこういうスタイルに行き着いたのである。
仕事の専門書や勉強の本は必要なパートを分解して簡単にリングで
つづりなおして携帯する。
情報本のような類は書き込みをして必要な箇所だけ切り取って後は捨てる。
小説などは主に読みながらの付箋と書き込みがメインとなる。
付箋も書き込みもされなかった本はそのままゴミ箱に行く可能性が強い。
このときに筆記具と付箋はちょっとだけこだわりがあって、
筆記具は線引きに関しては太めで濃い目のシャーペン、たとえばマークシート専用の
芯が1.3mmのシャープペンなどもお気に入りである。
また、付箋はポストイットの透明シール型で幅の狭いタイプである。
付箋を貼って文字を隠すことがなく、付箋を貼りたい箇所にピンポイントで
貼ることができるためである。
そういえばここ数年、電車の中で成人向け雑誌や娯楽新聞を読む人が減り、
勉強している人が増えた気がする。
勉強や読書に挑むことにより自己を啓蒙する喜びは確かにあるし、
自己表現の幅も増えるのは確かだが、
勤めがあっても安穏と暮らせない厳しい世相を表しているのかわからない。
安全でも健康的でもおいしくもありません?
ミネラルウォーターを好む人間は珍しくもないが、テレビで見ていたマダムは、ミネラルウォーターの信奉者で、自ら毎日大量に浴びるほど飲むのはもちろん、煮炊きから、洗顔、果てはペットの仔犬を洗う時の仕上げのすすぎまでもおフランス製のボトルドウォーターを使っていた。マダム曰く「健康さが違う」と。
ここまでいくと信者というかもう狂信者の域である。
テレビはスポンサーに不利なことはいわないから、ボトルドウォーターの正確な知識が入ってこないのもあるのだろうが、安全性という点で言うのならば、
それこそ水道水は湯水のごとくつかっても大丈夫なことを前提にするのに対し、
ミネラルウォーターはあくまでも酒だのコーヒーだのと同じ「嗜好品」の扱いで
そこそこの量をたしなむことを前提に安全基準も作られている。
だからミネラルウォーターの常識を超えた飲量使用量は自己責任が原則だ。
だから実際のところはボトルに入ったミネラルウォーターの安全基準は
水道水のそれより数倍ゆるく設定されているのが事実だから、確率論的に水道水とミネラルウォーターのどちらを飲み続けるリスクが高いかということは単純な話だ。
水に限らずこの程度の単純な話を知りもせず理解もできず、ただなんとなく雰囲気だけで流される人間が多いから、世の中に詐欺まがいの商売のネタはなくならないのだろう。
なお、マダムの仔犬はある日ミネラルウォーターの入浴後に、
手早く乾燥させてあげようとしたマダムの計らいで、電子レンジに入れられた結果、二度と帰らぬホットドッグとなってしまったということである。
あるいは単純に人類(日本人?)はすでに文明と発展のピークを越えて
知的退化の局面に入ってきているのだろうかな。
無為のうちに見る空の色と海の色は
インドネシアの離れ小島に出かけたとき、人々の生活は芋掘りとマンゴとり、それに魚とりがほとんどだった。
あるとき彼らと一緒に漁に出かけたことがあったのだけれど、その島の漁とは帆のついた比較的大きな筏に乗って、沖合に仕掛けを流し、魚が仕掛けに入り込むのを待ちながら、流される仕掛けを追って海を漂うだけなのである。
出漁の時こそ、帆にいっぱいの風を受けて勢いよく筏が滑り出していく様は勇壮であるけれど、一旦沖に出て仕掛けを流せば、後はただひたすら仕掛けとともにに流されるだけのことだ。
漁師は日に二度三度だけ仕掛けを確認し、後は取った魚で持ってきた酒を舐めながら、終日空を見、雲を見、ゆったりとうねる海を眺めて過ごすのである。
天候と気分しだいで、漁は一週間のこともあれば一ヶ月にも及ぶこともある。海と空の間をひたすら漂流する漁である。
空や海のダイナミックな変化や極めて微細な色の違いが、漁の間ではこの上ない興趣を提供してくれ、そこに詩もできれば歌も起こるのだ。
またあるとき、私は山で雨にたたられ、たまたま通りかかった山の土木作業の飯場小屋に転がり込んで、二晩降り込められて宿の厄介になったことがあった。
私がたまたま持っていたブランデーの瓶を宿のお礼に差し出したところ、滅多に人も通わない山の中の作業現場で、酒の備蓄も不足と偏りがちだったのか、ことのほかこれが喜ばれて、私は妙によい部屋に通されてお客様のように扱われたのだった。男たちは雨降りでも資材の積み直しや小屋の設備の補修など忙しかったが、お客様の私はすることがない。
小屋は夏でも冷え込む山の上のため何でも燃やせる鋳物のストーブがあったのだが、私はこの火を絶やさぬようたまに薪や木くずを加工した燃料をくべながら、ひたすら火を眺めて過ごすことになった。
火というものは不思議なもので、揺らめきいぶり立ち時にはぜ返る炎には表情があり、人の過去や未来、現在の心の内にわだかまる様々な思いをそっとなでていくように想念を刺激し揺さぶるのだった。 このとき意識の表面と奥底を、心地良く飽きることのない不思議な時間が流れていくのである。
空も海も山の火も、それを眺めて何をするというわけではないのだが、川面に浮いた泡が流れていくように次々ととりとめもない想念が湧いては流れ、完全に思考の形を失った意識はやがて瞑想となる。そうして私たちは豊かな瞑想のうちに空や火を眺めることになるのだ。
もちろん今の私は毎日都会にあって、日々の多忙と喧噪を流されているが、時々あの空や火の色を鮮やかに思い出すことがある。
濛々とした塵芥のような情報の闇という虚無に向き合わねばならない私たちの求める、確かなものがそこに有るのかもしれない。
何よりも寒いのが嫌いなワタクシの防寒対策とエコとエゴ
ついに私にも感じるほどの寒さが到来したらしい。朝起きればベランダの気温も10度あるかないかになってきたし、昨日などは日中も日が射ささなかったので、あたりの風景も晩秋の色が濃く感じられたようだ。動いていればまだ良いのだけれど、家の中でじっとしているとしんしんと寒さがしみ入ってくる。どうせたいした寒さでもないだろうって? いやいや人は気温が下がり出す今頃が体がまだ寒さに順応していないので一番寒く感じるものだ。
近所の年寄りがまだそんなに若いのだから平気だろうと言っていたが、それは二十歳前後ならローライズのパンツで腹出してもケツ出しても平気だろうけれど、また年寄りは自分自身が半分冷たくなっているから多少寒くても感じないのだろうが、青年の部もBとなるとそうはいかないのだ。寒いものは寒い。暖房を入れればよいのだけれど、エコが叫ばれる折、しかも諸物価高騰の折、簡単にはエネルギーを投入する気にはなれないのである。安易な暖房の投入には、なぜだか知らないが、人間の軟弱化であり意志薄弱の象徴でありダメ人間の証明であるような気分を伴うから、軟弱者の私も後ろめたさを引きずって暖房を入れるよりはまず着ぶくれして頑張る道をとるのである。すでに、家ではウール100%の厚手のカーデガンは着ている。
下着にユニクロのヒートテックも着ているが、こいつは暑いときに着るとたしかに妙に熱がこもって暑いのがわかるが、寒いときは暖かいのかなんだかさっぱりわからないという程度の代物である。 裏がフリースのスウェーデン製ズボンも履いたが、これでも足りずに真冬の土木工事現場で使うような防寒キルトのズボンに履き替えた。
それでもじっとしているとどこからかしみこんでくるような寒さが気になって、(部屋の気温は19度なんだけれど(TT))ついにダウンを着てみた。家の中でダウンは変かと思ったが、やっぱりダウンは軽くて暖かい。 (動物愛護に異論はないが、寒がりの私は獣の皮をはいだのや鳥の羽をむしって作った服はたくさん持っているのだ。)
ただなるべく薄手のダウンのジャケットを着てみたのだが、それでもごわごわしてちょっと邪魔である。そこでダウンの部屋着というものはないかと、サーチしてみたら、あったあった。世の中にはダウンはんてんだのダウンセーターだのインナーダウンだとかいうものがある。極めて薄手で軽く動きやすいらしい。
この冬はダウン生活で室内暖房費節減をしようかと考える秋の晩である。寒がりの同士達に向けた購入・使用レポはまたいずれ。
11月の読書風景
今日から11月、朝夕は冷え込み、秋の深まりがいやでも肌身に染みこむ時期となってきた。ぼうっとしているとあっという間に年末になってしまうので、様々な秋の楽しみもはやく味あわねばならないが、今日は読書の秋をテーマにしようかと思い、11月にふさわしい本を考えたら、以前わたしの書いた読書メモに思い当たった。
ここでそれを引用しようと思ったのだが、これは別のところにも投稿したことがあるので、二番煎じに何か問題は?、とも気になったが、いいではないか、わたしの書いたものである。
著作権はわたしのものだし、自分の文や発言をどう使おうとも私は好きなようにするし、だいたい、あのお釈迦様やキリストの連中だって、一度使った話をあちこちの説法のたび、繰り返し繰り返し使っていたに決まっているのだ。
それに比べたらわたしの文の自己引用くらい屁でもない。
というわけで、11月にふさわしい本を紹介してみたい。
『ムーミン谷の十一月』 トーベ・ヤンソン / 講談社青い鳥文庫
これはムーミン一家の出てこないムーミン谷の物語なのだが、ムーミン一家に様々な思いや期待を抱いてやってくる悩み多き様々な登場人物たちが、まるでそれぞれが私たちの断片であるようだ。
孤独になりたいのに本当はどこか誰かとつながっていたかったり、何か自分の意思でやりたいのにいったい何をしていいのかわからなかったり、自分で決めた日常の決め事に反対に自分が縛られて行き詰っていたり、私たちがごく日常突き当たるありふれた戸惑いが個性的な登場人物に託され生き生きとたくみに描かれている。
なぜ、彼らがムーミン一家を訪ねて悩みが解決すると思ったのかは、悩みと向き合う彼らの行動により明らかにされるのだが、それはムーミンたちの存在を間接的に描写することによって、いっそうムーミンたちのキャラクターを鮮やかに浮き上がらせているようだ。
たとえばスナフキンはこんな自問自答をしている。
「・・・ムーミンたちだってうるさいことはうるさいんです。おしゃべりだってしたがります。どこへ行っても顔が合います。 でも、ムーミンたちと一緒の時は、自分ひとりになれるんです。いったい、ムーミンたちはどういうふうにふるまうんだろう、と、スナフキンはふしぎに思いました。」
ともあれそれぞれに悩みを抱えてムーミンの家にやってきた彼らは、ムーミン一家のいないこと(舟で島に出かけている)に当惑しつつ奇妙な共同生活を始めるのだけれど、年も志向も性格も違いすぎる彼らの生活はギクシャクとしたものだ。
それでもぎこちない共同生活の中で自分と向き合い、結局彼らは自分で解決の糸口を見出してまたそれぞれの場所に帰っていくのだが、この過程はほっとした穏やかな幸福感に包まれる。
つまるところ、様々なキャラクターが躍動し悩み衝突を繰り返す物語で描かれているものは、現代に生きる上で私たちが避けられない不安や焦燥の対極にあるユートピアとしてのムーミン一家であると同時に、たとえムーミン一家が現実世界にはいなくとも私たちは私たちの不安や悩みを自分で解決する手段をもっていることを示唆しているのだということである。
そしてその手段とは、作者がこの物語のタイトルでもある11月の季節をこんな風に描いているところにもヒントは見て取れるようだ。
「冬もまぢかな、ひっそりとした秋のひとときは、寒々として、いやなときだと思ったら大まちがいです。 せっせとせいいっぱい冬じたくのたくわえをして、安心なところにしまいこむときなのですからね。自分の持ちものをできるだけ近くに引きよせるのはなんとたのしいことでしょう。自分のぬくもりや、自分の考えをまとめて、心のおく深くほりさげたあなにたくわえるのです。その安心のあなに、たいせつなものや、とおといものや、自分自身までを、そっとしまっておくのです。」
木や草も外への繁茂がやみ内へとエネルギーが向かうように、冬に移り行く秋は人にとっても内省的な季節だ。
そんな時期の代表である11月を舞台とすることで、作者のトーベ・ヤンソンは現代人のいつも外に向いて忙しい自分の意識を、時にはじっくりと自分の内に向けることの大切さを描いたのだろう。
秋に、いそがしい大人にこそ勧めたい童話である。
ガラパゴス野菜園へようこそ
時折わたしの、ガーデニングというか家庭園芸の熱がぶり返すことがあって、
それはその時々によって熱は庭木へコンテナへ、木や花へと
形を変えて現れるのだが、
要は気が多くて飽きっぽいというだけのことなのでもある。
この秋はどうしたわけか病気はコンテナ菜園へと向かった。
別に野菜作りは何度かやっているし、まったく野菜園芸に
興味の無かった間でも、庭には植えっぱなしのほったらかしでも
見事な収穫に耐えうる数種の野菜やハーブが生存してわが家の食卓に
彩りを添えてくれていた。
たとえば100円ショップで買ってきたルッコラなどは1度蒔いたら
何年も毎年勝手に発芽成長開花結実を繰り返している。
収穫量を調整する必要も全くない。便利なものだ。
基本的に植物はその土地土地にあったものがあって、別に出荷用に
商品作物をつくるのでなければ、ほったらかしで生えてきたものを
収穫すればいいだけのことである。
何種類か植えてみて、駄目なものはいかように手を施しても駄目だし、
環境にあったものは病害虫にも遭わず、手間もかからず
ガンガン収穫できるものだ。
植物が自力で育たないのであれば別に育たなくてもいいのだ。
完全アマチュアで、完全自給を目指すわけでもないし、収入目的でもないのだから、
ただ土地にあってそこに在るものだけを収穫すればいいだけのことである。
こうして、わが家の家庭菜園はほったらかし方式で確立した。
ある意味適者生存の原則に則った非常に合理的な野菜園芸である。
とはいえ、趣味とか道楽というのはわざわざ手間を掛けることであるから、
新しい適合作物を求めて試行錯誤をする事もある。
まして植物は自力で移動ができないものだから、種や苗を蒔いて
試して見る必要もあるのだ。
で、今回はコンテナ野菜園芸である。これも別に初めてではないが、
いつもの冬場の花にも飽きたので、実益を兼ねた野菜でも植えてみるか
というノリである。
それに実は手抜きの野菜作りは冬場が楽なのだ。
東京のあたりの関東南部は冬場の日照時間も長く、
日中気温もかなりのところ確保できるベランダでのコンテナ園芸には
十分な条件である。むしろ夏場の過度の高温がない分
植物の環境をコントロールしやすいくらいである。
その上なにより、冬場は虫がいないし病気も少ない。
病害虫を避けるための手間が圧倒的にかからないのだ。
さて、ほったらかしベランダ園芸の行き先はいかに。。。
ものぐさなワタクシの面倒な日常
Y女史も昼食がまだだというので、オフィスに戻って食事を取るつもりだった私も予定を変更して、二人で都心のホテルにあるイタリア料理のリストランテに入った。
「さすが準備がいい。10月も後半だというのに、今日の蒸し暑さににあわせた
服装だな」
着れるようになったのよ」
Y女史を抱えた時に腕に押しあざができたということを言っているのである。
これはメールで聞いていたが私は見ていない。
「それで、悪人の私に罪滅ぼしの機会は?」
「ふふ、じつはこんどねえ・・・」
この場合誘ったのは自信家のY女史かお調子者の私かどちらなのだろうか?
どうも基本的に自分に自信家の女ほど積極的な仕掛けを打つ傾向にあるようだ。
そしてそんな女は自信家なだけにたいてい美人で頭もいいような気がする。
その結果私は世間の一部で誤解を受けることになるのだが、
実際のところ相手が美人であろうと無かろうと
決して深入りはしない。
適度のサービスを働いてしまい、また誤解を招き・・・
するとお望みの静穏ももうすぐそこなのだろう。
またもや無差別襲撃事件が発生!
俺ばかりが何でこんな不遇に見舞われるのだ。この苦しみをほかの恵まれた連中にも味合わせてやる・・・。
・・・こんな理不尽な動機でA君は酔った上に都心のオフィス街で行きずりの暴挙に出たのだった。 不幸にもこの日の被害者は4名にものぼる。
被害者のBさんは語る。
「ショックでした。混乱してどう対応してよいかわからなくなりました・・・」
・・そもそもことの起こりは、どうしたわけかA君がよく外人から話しかけられることにある。言うまでなく一般的な日本人の外国語会話能力などたかが知れたものだし、A君も英語をはじめ外国語はからきしなのだが、それでも外見は一応堅気のビジネスマンなので、ダークスーツに黒革靴黒かばんでのそのそ歩いていると話しかける相手に恵まれず途方にくれた外人が、こいつなら何とかなるかも知れぬと苦し紛れに話しかけてくるのだろう。
A君も話しかけられてはその都度A君なりに誠実に対応しようとするのだが、いかんせん、複雑な問いに語学力不足はいかんともしがたく、結局冷や汗脂汗をかいては迷える外国人を失望させることになるのである。 あまりの会話能力不足と降りかかる外人の会話ストレスにA君もキレた。何で俺ばかりがこんな目に?...ほかのやつにも同じ苦しみを与えてやろうと、ついにあるとき酔った勢いで外人の振りをしてデタラメ語でしきりに話しかけるという暴挙に出たのだった。そのターゲットはいかにも英語のできそうな(憎たらしい)サラリーマンやOLである。
たいていの日本人はA君同様誠実な対応を試みるが、話すのは聞き取り不能のデタラメ語なのだから相手になるわけがない。しかもA君もカタコトの日本語や英語を断片的に取り混ぜるものだから、相手もついつい困窮した外人の必死の質問なのだと釣り込まれてしまったようだ。昔デタラメ語を操る芸を持つ芸能人もいたが、A君もこの手の芸についてはなるほど筋がいいと認めないわけにはいかない。
捕まえた相手とひとしきり成立しない会話を力いっぱい試みると、必死の努力の甲斐なく意思疎通が図れなかったA君の絶望の演技と引き換えに己のコミュニケーション能力の不甲斐なさを突きつけられた被害者を置き去りにして、A君は消沈した気配を漂わせとぼとぼと去っていくのである・・・。
これを見て被害者は一層コミュニケーション能力の不足と自責の念に駆られることも
またあるかもしれない。
人間にとって真のコミュニケーションは常に困難な課題だが、
時にはエセ無国籍外国人にも注意しなければならないらしい。
ちょっとだけお茶漬けのお茶の話
普段通りの晩飯のフルコースでは食いすぎて翌朝の胃もたれの元だし、
何も食べないというのも口さびしいし、またデザートだけというのも物足りない。
迷うくらいなら、お茶漬けもすこしは凝ったものにしたいところだ。
いかにもインスタント然として一食分ずつケチ臭い紙袋に入れられた
既製品などで終わりでなく、具にもこだわりを持ちたい。
大き目の茶碗に温かいご飯を盛り、海苔も二枚くらいあぶって大きめにざくざくと
切ってならべ、マグロの切り身とイクラを放り込み、上に山葵をすりおろして
お茶を注ぐ。。。
ではそこで、お茶は何を使うのか、
むろん日本茶が基本だろうが、ほうじ茶や玄米茶は変わり種としてはよくても、
主役ではないだろう。
するとその日本茶はたぶん煎茶か番茶かということになるのだが、
北大路魯山人よれば煎茶であるということになるらしい。
なるほど、たかがお茶漬けのお茶とはいえ侮れない。





